第四話 悲しみを消さないために
庭園に満ちた重い沈黙を破ったのは、ローランドの声だった。
「フィオと言ったか。記憶を食べてしまえば、本当に花は助かるのか」
「可能性はある」
フィオは弱った声で答えた。
「ただし、エヴェリーナに関する記憶も、ともに薄れる。皆が少しずつ、夫人の顔や声、祭りの思い出を忘れていくことになろう」
ローランドの表情が揺れた。領地を守るためならば、それも仕方がないと――そう判断しかけた父の顔を、リアンヌは見逃さなかった。
「お父様」
リアンヌは前に出た。
「お母様を忘れることが、前へ進むことだとは思いません」
ローランドは何も言えず、ただリアンヌを見つめた。
フィオは一瞬目を見開き、それから満足そうに小さく頷いた。
「ならば、人間たち自身に、悲しみを引き受けさせるしかない」
植物に預けてしまった記憶を、本人たちの手に返す。そのためには、もう一度春の祭りを行い、記憶の持ち主たちをこの場へ集める必要があるという。
「期限は、夜明けまでじゃ」
夜はすでに深い。残された時間は、決して多くなかった。
「突然領民を集めれば、混乱するだけだ」
ローランドが眉根を寄せる。だが、リアンヌはゆっくりと首を振った。
「私が、説明します」
これまで、人前に立つことをずっと避けてきた。けれど今は、それを言っていられる状況ではなかった。
灯りを手にした領民たちが、不安げな顔で広場に集まってくる。リアンヌを見る目には、相変わらず疑いの色が滲んでいた。
リアンヌは深呼吸をしてから、口を開いた。
「私は……花の声を聞きながら、聞こえないふりをしていました」
まず、謝った。自分の無実を声高に主張するのではなく。
そして穏やかに、花たちが皆の悲しみを抱えたまま咲けなくなっていることを説明した。当然、すぐに信じる者は少なかった。ざわめきが広場を満たす。
そこでフィオが、ハンナの家の花から、かつての祭りの記憶を映し出した。光の中に、笑い合う人々の姿、踊る子どもたち、エヴェリーナの明るい声――広場にいる誰もが、自分自身の過去を見ていた。
「……伯爵夫人を、忘れたかったわけじゃない」
一人の老婆が、震える声で呟いた。
「毎年お祭りをやれば、亡くなったことを思い知らされるんだ。それが、つらかっただけで」
別の男が、ローランドに鋭い視線を向ける。
「祭りをやめろと言ったのは、伯爵様だ」
ローランドは反論しなかった。
「その通りだ。私が命じた」
短く、そう認めた。けれど、それを聞いた領民たちの中にも、ばつの悪そうな顔をする者が何人もいた。命じられたことに従う方が、確かに楽だった。誰もが、悲しみと向き合うことから逃げていた結果が、花へと押し付けられていたのだ。
誰か一人が悪いわけではない。リアンヌにはそれが、はっきりと分かった。
「夜明けまでに、もう一度祭りを」
リアンヌの言葉に、広場は静まり返った。だが、しばらくして、誰かが動き出した。
「そういえば……物置に、古い飾りがまだ残っていたはずだ」
「花がないなら、紙で作ればいい」
「奥様が好きだった菓子、まだ作り方を覚えている」
人々は次々と動き始めた。長年しまわれていた布飾りが運び出され、不器用な手つきで紙の花が作られていく。誰かが竈に火を入れ、菓子の甘い匂いが漂い始めた。途切れていたはずの祭りの歌を、年配の女性が口ずさむと、周りの者たちも少しずつ思い出すように声を合わせた。
ハンナが、幼い頃にもらった花冠を大事そうに抱えてやってくる。
マリエルは屋敷から駆けてきて、リアンヌの手にそっと淡い色のリボンを握らせた。
「奥様が、春によく着けていらしたものです」
フィオは紙の花を本物と勘違いしてかじり、すぐに顔をしかめた。
ユリウスは袖を肘まで捲り、泥だらけになりながら、暁花の根を守るための水路を開いていた。
記憶の力だけでは、この夜は乗り越えられない。皆の手があって、初めて成り立つ祭りだった。
灯りが、屋敷から庭園へ続く道に並べられていく。
祭りが始まると、花々に積み重なっていた記憶が、堰を切ったようにあふれ出した。光と声が広場を満たし、人々が一斉に過去の記憶を浴びる。あまりに強い感情に呑まれそうになる者もいた。
「ぐっ……」
フィオは、人々を守るためにその一部を引き受けるように、次々と記憶を食べ始めた。だが、あまりにも量が多すぎた。
「フィオ!」
小さな体がぐらりと傾ぎ、地面に落ちる。リアンヌは急いで抱き上げた。鱗の色がすっかり薄くなっている。
「エヴェリーナ……我は、約束を……」
虚ろな声で、フィオはリアンヌの名を、母の名で呼んだ。食べすぎた記憶と、自分自身の記憶が混ざり始めている。
「フィオ、しっかりして」
リアンヌはその小さな体をきつく抱きしめた。
「私はリアンヌよ。お母様ではない。でも――あなたが、ずっと約束を守ってくれていたことは、ちゃんと分かっている」
フィオの瞳に、少しずつ光が戻ってきた。
「……リアンヌ、か」
「そう。リアンヌよ」
フィオは小さく息をつき、自分を取り戻したように瞬きをした。
広場では、領民たちが一人また一人と、自分の花から返された記憶を受け取っていく。長く目を背けてきた春が、少しずつ人々の中に戻っていくようだった。
けれど、庭園の中央――暁花だけは、いまだ固く閉ざされたままだった。
「最後に残っておるのは……おぬし自身の記憶じゃ」
フィオが、弱々しい声で告げた。
母が亡くなる直前、リアンヌは確かに病室を訪れていた。けれど、その日のことだけが、どうしても思い出せない。
「私が、拒んでいるから……?」
フィオは答えなかった。答えるまでもなかった。
リアンヌは、ゆっくりと暁花の前に立った。
父も、フィオも、ユリウスも、そして祭りに集まった領民たちも、固唾を呑んで見守っている。
震える手を、花へと伸ばす。
「今度は――聞こえないふりをしない」
リアンヌの指先が、暁花へ触れる。
――その瞬間、花の奥で何かが目を覚ました。




