第五話 春を忘れないために
白い光の中で、リアンヌは見覚えのある場所に立っていた。
屋敷の奥にある、小さな寝室。窓辺のベッドに横たわっているのは、やつれてはいるが、確かに母エヴェリーナだった。傍らには、まだ幼い自分の姿がある。
幼いリアンヌは、母が間もなく亡くなることを、薄々理解していた。
「来年も、一緒に春を見ましょうね」
エヴェリーナは、いつもと変わらぬ笑顔で言った。それが嘘だと、幼いリアンヌにも分かっていた。それでも、
「うん」
と、小さく頷くことしかできなかった。
本当は、こう言いたかった。
行かないで。
怖い。
一人にしないで。
けれど、母を困らせたくなくて、言えなかった。
エヴェリーナもまた、本当は言いたい言葉があった。
ごめんなさい。
私も、怖い。
けれど母親として、最後まで笑顔を崩さなかった。
互いを思いやるあまりの沈黙が、二人の別れに、言えなかった言葉を残してしまっていた。
今のリアンヌは、その光景の中にもう一人、立っている。過去そのものを変えることはできない。けれど、花に残った思いへ、自分の言葉を返すことはできる。
リアンヌは、記憶の中の母へ、静かに語りかけた。
「お母様がいなくなって、悲しかった」
「ずっと、寂しかった」
「忘れようとして……ごめんなさい」
記憶のエヴェリーナは、はっきりと言葉を返すことはなかった。ただ、幼いリアンヌを、そっと抱きしめる姿だけが、そこに残っていた。
その腕の温もりとともに、母の最後の思いが、リアンヌの中に流れ込んでくる。
悲しんでもいい。
私のいない春を、生きて。
春を止めないで。
光が薄れ、リアンヌは現実へと引き戻された。
気づけば、頬を涙が伝っていた。人前で泣くことなど、これまで一度もなかった。慌てて顔を背けようとしたとき、肩の上のフィオは、涙を拭おうとはしなかった。ただ、リアンヌの頬をじっと見つめていた。
「泣くことまで、花に預けるでない」
その一言で、堪えていたものが堰を切った。リアンヌは、父の前で、領民たちの前で、初めて声を上げて泣いた。
隣に立つローランドの目にも、五年ぶりに涙が浮かんでいた。父娘は抱き合うことはせず、ただ並んで、同じ花を見つめていた。
「お前の泣き方も……あれに似てきたな」
ぽつりと、父が呟いた。それが、母について久しぶりに交わした言葉だった。
リアンヌが、涙のまま父を見た。
そのとき――。
暁花が、大きく花開いた。
光は庭園の隅々まで広がり、やがて領地全体へと伸びていく。蕾のまま固く閉じていた花々が、丘の上から村の畑まで、一斉に咲き誇った。果樹園には新しい芽が顔を出す。
長い間止まっていた春が、ようやく戻ってきた。
祭りの後、ローランドはリアンヌの前に立った。
「私は……お前を守ると言いながら、遠ざけていた」
絞り出すような声だった。
「お前を見れば、妻を思い出す。その苦しさを、お前のせいにしていたのかもしれない」
リアンヌも、静かに頷いた。
「私も……お父様の悲しみを、知ろうとしませんでした」
それでも、修道院行きの一件を、簡単に水に流すつもりはなかった。
「私は、ここに残りたいです」
リアンヌは、まっすぐに父を見た。
「お父様が許すからではなく――この土地の声を、まだ聞いていないからです」
ローランドはしばらく娘を見つめた後、懐から古い鍵を取り出した。
「ならば、この庭を任せる」
それは、全面的な和解というよりも、父と娘が、もう一度関係を作り直すための、最初の一歩だった。
広場に集まった領民たちの前で、リアンヌの力が「失敗した祝福」ではなかったことが、正式に告げられた。けれど、すぐに皆が理解できるわけではない。花の声を聞く力を、どこか恐れる者もいた。それでも、リアンヌは焦らず、一つずつ説明していこうと決めていた。
ユリウスは、古い記録を調べ直し、ある可能性を示した。
「フローレンス家の祝福には、もともと二つの系統があったのかもしれません」
花を育てる者と、花に残る記憶を読む者。
「あなたの力は、失敗ではなく――長く途絶えていた、もう一つの系統だったのでしょう」
リアンヌにとってそれは、ようやく自分の力を、正しい名前で呼べるようになった瞬間だった。
ユリウスは隣領へ戻る予定だったが、今回の異変の調査記録をまとめるため、しばらくこの地に留まることになった。
「あなたの力を、魔法だからと片づけるつもりはありません」
彼はリアンヌに言った。
「植物の異変には、記憶だけでなく、土や水が原因のものもある。次に何か起きたときは、両方から調べましょう」
「そのときは……お願いします、ユリウス様」
リアンヌが答えると、フィオがすかさず二人の間に割り込んだ。
「次など起きぬ方がよいに決まっておろう」
ユリウスは小さく苦笑し、フィオは不満そうに尻尾を揺らした。
☆
それから数週間後。
春を取り戻した庭園で、リアンヌはフィオ、ユリウスとともに、これまでの植物異変の記録を整理していた。穏やかな午後だった。
そこへ、屋敷の使用人が、隣国から届いたという黒い箱を運んでくる。
箱を開けると、中には一輪の黒い薔薇があった。どれほど時が経っても、決して枯れないのだという。同封された手紙には、こう記されていた。
「この花は、亡くなった王妃の声で泣き続けています。どうか、花の記憶を読む令嬢に、調べていただきたい」
リアンヌは、フィオとユリウスと顔を見合わせてから、そっとその薔薇に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、花の奥から、聞いたこともない女性の声が響いた。
「私は――殺されてなどいない」
(第一巻想定分 完)




