第三話 閉ざされた庭と、父の沈黙
翌朝、庭園の前には人だかりができていた。
蔓は一晩のうちにさらに勢いを増し、古い石垣を覆い隠すほどに広がっている。庭師が斧を入れても、切り口からはすぐに新しい蔓が伸び、まるで意志を持つかのように傷を塞いでしまう。
「焼き払うしかないかもしれん」
ローランドが低く呟いた言葉に、リアンヌは思わず駆け寄った。
「お待ちください、お父様!」
「リアンヌ。これ以上、領地を危険にさらすわけにはいかない」
「昨夜、声が聞こえたんです。あの蔓の中心から……お母様の声が」
ローランドの表情が、一瞬にして強張った。
「死人の声が聞こえるなどと言うな」
その言葉は、刃のようにリアンヌの胸を刺した。これまでなら、ここで俯いて黙り込んでいただろう。けれど今は、違った。
「聞こえたものを、聞こえなかったことにはできません」
リアンヌは父の目を見て、はっきりとそう言った。ローランドは何かを言いかけ、結局口を噤んだ。
横で蔓を調べていたユリウスが、手帳から顔を上げる。
「毒性はないようです。むしろ……何かを守るように、庭園の外へ向かって伸びている」
フィオが蔓の隙間から中を覗き込み、低く唸った。
「中心に、暁花があるのじゃろう。あれが記憶を抱え込みすぎて、暴走しておる」
ローランドはしばらく沈黙した後、苦々しい顔で言った。
「……好きにしろ。だが、何かあれば即座に中止だ」
許しとも呼べない言葉を背に、リアンヌ、フィオ、ユリウスの三人は蔓の隙間を縫うようにして庭園の奥へと足を踏み入れた。
中は外から見るよりも広く、まるで迷宮だった。蔓と花に覆われた壁の合間に、過去の光景が断片的に浮かんでは消えていく。
若いローランドとエヴェリーナが、笑いながら庭の設計図を広げている。
幼いリアンヌが、初めて花に触れて声を聞き、驚いた顔をしている。
エヴェリーナが、咳き込みながらもそれを隠すように笑っている。
領民たちと、来年の祭りについて楽しげに話す母の姿。
エヴェリーナの姿が浮かぶたび、フィオの視線がその影を追った。
そして――母の死後、すべての花を刈り取るよう命じる、父の声。
「……お父様が」
リアンヌは立ち尽くした。自分が触れたから花が枯れたのだと、ずっと思い込んでいた。けれど違う。多くの花を失わせたのは、悲しみに耐えかねた父自身の命令だったのだ。
ただ、それは父が娘を陥れるための嘘ではなかった。混乱の中、悲しみに沈んだリアンヌが花へ触れ、その花が直後に枯れたのを見て、父もまた、娘の力が原因だと信じ込んでしまっていただけだった。
誰も、嘘をついていたわけではない。ただ、誰も本当のことを言えなかっただけだ。
庭園の奥へ進むほど、記憶の濃さは増していった。フィオの翼が、次第に色を失っていく。
「フィオ、大丈夫……?」
「案ずるな……少々、濃すぎるだけじゃ」
そう言いながらも、フィオの声には力がなかった。リアンヌの肩に避難するように乗ると、フィオはぽつりと話し始めた。
「我は昔――まだ幼く、力もろくに使えぬ頃、傷を負ってこの温室に落ちたことがある……それを、助けてくれたのが、おぬしの母じゃ」
フィオの金色の瞳が、少しだけ柔らかくなった。そしてリアンヌの肩の上で、小さく翼を畳んだ。
「正体を見ても、恐れなかった。花の蜜と薬草で、我の傷を癒してくれた」
そのとき、エヴェリーナは幼いリアンヌのことを話したのだという。
「あの子は、花を咲かせる子ではないのかもしれない。でも、花が覚えていることを聞ける子なの」
母は、フィオに娘を守ってほしいと頼んだわけではなかった。ただ、こう願っただけだった。
「いつかあの子が、自分の力を怖がったとき、間違っていないと伝えてあげて」
「我はまだ半人前でな。一人前と認められるには、花に残された記憶を読み解く経験を積まねばならぬ。花が一輪も咲かぬ領地なら、ちょうどよいと思ったのじゃ。だが――ここを選んだ理由は、それだけではない」
フィオは、リアンヌを見つめた。
「我は、その約束を果たすためにここへ来た」
「ここへ……?」
リアンヌは聞き返した。彼女の目に、自然と涙が滲んだ。
蔓を抜けた先に、庭園の中心があった。枯れた枝にしか見えない、暁花。だがその根元には、まだ確かに命が通っている気配があった。
リアンヌがそっと触れると、強い光とともに記憶が流れ込んできた。
母の最後の日々。
自分の死期を、すでに悟っていたこと。
夫にじゅうぶんな言葉を残せなかったこと。
ローランドが悲しむ姿を見るのが恐ろしくて、最後まで弱音を隠し続けたこと。
そしてリアンヌにも、「来年も一緒に春を見ましょう」と、嘘だと知りながら言い続けたこと。
母もまた、大切な人を守ろうとして、本当のことを言えなかったのだ。
「リアンヌ!」
背後から、ローランドの声がした。三人を追ってきたのだろう。庭園の入り口には、父の姿があった。いつも隙なく整えられている髪は少し乱れ、上着の裾には蔓をかき分けてきた跡が残っていた。彼もまた、漂う光景の中に妻の姿を見つけ、立ち尽くしている。
暁花の中から、エヴェリーナの声が響いた。
「私のために、春を止めないで」
ローランドの肩が、大きく震えた。
「……これは、過去の幻に過ぎない」
そう言おうとした父の声は、最後まで言い切れなかった。
リアンヌは、まっすぐに父へ向き合った。フィオはリアンヌの肩から降り、少し離れた場所で黙って二人を見守った。
「お父様は、お母様を忘れないために庭園を閉じたのですか。それとも――思い出さないためですか?」
リアンヌの問いに、ローランドは答えなかった。答えられなかった、というほうが正しいのかもしれない。
長い沈黙の後、父はようやく口を開いた。
「私は……妻を失った後、領地も、お前も、守らなければならなかった」
声は掠れていた。
「毎年祭りを続ければ、妻のいない春を見せつけられる。庭園を見るたびに、まだあれが帰ってくるような気がしてしまう」
父の視線が、初めてリアンヌにまっすぐ向けられた。
「お前を見ると――妻に似た目や、仕草を探してしまう自分がいた。だから、距離を置いた」
リアンヌの胸の奥で、何かが痛んだ。けれどそれは、これまで感じてきた痛みとは少し違うものだった。
「私は、お母様ではありません」
穏やかに、けれどはっきりと、リアンヌは言った。
「お母様の代わりにもなれません。でも――お父様の娘です」
ローランドは、何かに打たれたように動きを止めた。これまで一度も、娘自身をきちんと見ていなかったことに、初めて気づいたような顔だった。
それでも、長年積み重なったものは、一言ですぐに溶けるものではない。父は何も言えないまま、ただ立ち尽くしていた。
そのとき。
暁花の根元から、突然黒い蔓が勢いよく噴き出した。リアンヌたちは咄嗟にあとずさる。
「フィオ、これは……!」
フィオは弱った様子のまま、それでも鋭くその光景を見据えた。
「領地全体の花が吸い込んだ悲しみが、ここへ集まり始めておる」
「集まる……?」
「このままでは、暁花が記憶に耐え切れず枯れる。そうなれば、領地の植物もすべて道連れじゃ」
リアンヌは唇を噛んだ。
「助ける方法は、ないの?」
フィオはしばらく黙ってから、重い声で答えた。
「二つ、ある。我がすべての記憶を食べ、消してしまうか――領地の人々が、閉じ込めた記憶を、自分たちで受け取るか、じゃ」
リアンヌは息を呑んだ。後者を選ぶならば、領民全員が、これまで目を背け続けてきた春と――母の死と、もう一度向き合わなければならない。
黒い蔓が、夜の闇の中でうねるように揺れている。
その一本が、まるで答えを迫るように、リアンヌの足元まで伸びてきた。
庭園の奥で、暁花が苦しげに震えていた。




