第二話 花に残された春の記憶
温室の中に響いたフィオの声に、ユリウスは数秒の間、固まったように動かなかった。やがて彼は懐から手帳を取り出し、ペンを構える。
「未知の小型魔獣、というところでしょうか。鱗の色、翼の形状、発光現象の有無……」
「無礼者っ」
フィオは翼を逆立てて怒り、ユリウスの伸ばした指に思い切り噛みついた。
「いたっ」
「我を調べる対象だと思うでない! 我は花竜じゃ、記録される虫けらではないわ! 花竜は、土地や植物に残された人の記憶を食べる竜の一族じゃ」
「リアンヌ嬢、これは一体――」
リアンヌは慌てて二人の間に割って入った。
「待ってください、お二人とも。フィオ、ユリウス様は敵ではないと思います」
フィオは渋々口を離したが、まだ尻尾の蕾をぴくぴくと震わせて不満そうにしている。ユリウスは噛まれた指先をさすりながら、手帳に「攻撃性あり」と一行書き足した。
「まだ書いておるのか!」
フィオの呆れた声をよそに、ユリウスは、先ほど光とともに消えた映像を思い返すように、温室の奥を見つめていた。
「今のは……幻術の類でしょうか。それとも」
「信じてくださらなくても構いません。ただ」
リアンヌは穏やかに続けた。
「土にも、水にも、原因が見当たらないと、ユリウス様もおっしゃいました。それなら――別の可能性を、調べてみる価値はありませんか」
ユリウスはしばらく黙っていたが、やがて手帳を閉じた。
「分かりました。ただし、いくつか条件があります」
彼は指を折りながら挙げていく。危険を感じたらすぐに中止すること。観察した内容はすべて記録すること。あの小竜が花に対して何をしているのか、その都度説明すること。そして、リアンヌ自身の体調にも気を配ること。
一つ条件が増えるたび、フィオの尻尾の蕾がだんだん垂れていった。三つ目あたりでフィオは露骨にあくびをした。
「石頭のくせに、細かい男じゃのう」
フィオがぼそりと呟いたが、ユリウスはそれを無視して、温室の出口へと歩き出した。こうして、誰も望んだわけではない三人の調査が始まった。
最初に向かったのは、領内でも最大の花農家だった。本来なら春の祭りに使う花を育てているはずの畑は、見渡す限り蕾のまましおれている。
ユリウスはしゃがみ込み、畑の土を指先で崩していた。
「乾きすぎてもいない。根腐れの匂いもありませんね」
そのとき、畑の奥から出てきたのは、栗色の髪をひとつに結んだ少女だった。頬には薄くそばかすがあり、土のついた作業着の袖を肘までまくっている。
フィオはこの少女とリアンヌを見比べたが、珍しく口を挟まなかった。
「……伯爵令嬢様」
「ハンナ、ですよね」
少女は小さく頷いたが、視線は落ち着かなかった。家族から、花が咲かないのは伯爵令嬢の力のせいだと聞かされているのだろう。リアンヌにはそれが、痛いほど分かった。
それでもハンナは、強くリアンヌを責めようとはしなかった。幼い頃、母エヴェリーナと一緒に、ハンナへ花冠を贈ったことを、リアンヌも覚えていた。
「花を、見せてもらえますか」
リアンヌは弁解しなかった。ただ、そう頼んだ。
ハンナに案内された花畑の前で、フィオがしおれた花の一輪に顔を寄せ、ほんの少しだけ光の粒を吸い込んだ。
途端に、花畑一面に光景が広がる。
領民たちが花飾りを編んでいる。子どもたちが輪になって踊り、その輪の中心で、淡い金髪の女性が誰よりも楽しそうに笑っている。少し離れた場所から、まだ若いローランドがその姿をじっと見つめていた。そして――幼いリアンヌが、小さな花冠を、まだ幼いハンナの頭に乗せてやる場面。
温かな光景は、不意に鐘の音に飲み込まれた。重く、悲しい音だった。
花畑が、再びもとの薄暗さに戻る。フィオはまだ何かを食べ足りないというように、次の花へ近づこうとした。
「消さないで」
リアンヌは思わず声を上げていた。
「悲しい記憶でも……なくしていいとは、思えないの」
フィオは開きかけた口を止めた。
しばらくリアンヌを見つめてから、不満そうに鼻を鳴らし、花から顔を背ける。
ハンナは、震える声で話し始めた。
「最初は……皆、伯爵夫人様を思い出すのがつらいから、お祭りをやめたんだと思ってました」
俯いたまま、少女は続ける。
「でも、お祭りがなくなって、花も植えなくなって、誰も奥様の話をしなくなったら――思い出したら悲しいです。でも、思い出さない方が、もっと寂しかった」
その言葉は、まっすぐリアンヌの胸に刺さった。
忘れることで悲しみから逃げていたのは、領民だけではない。リアンヌ自身も、ずっと同じことをしていた。
帰り道、リアンヌは道端で蕾を閉ざしたままの野花に手を伸ばした。フィオが何もしていないのに、指先に触れた瞬間、一瞬だけ光景が見えた。祭りを心待ちにする子どもの、無邪気な声。
「……今のは」
リアンヌが呟いた。
「リアンヌ嬢」
ユリウスが、驚いたように声を上げた。次の瞬間には、もう手帳を開いていた。
「あなたの指先から、光が流れていました」
リアンヌは自分の手を見下ろした。フィオが何もしていない。それなのに、記憶が見えた。
フィオも目を丸くしていた。
やがて、何かに気づいたように尻尾の蕾をぴんと立てる。
ユリウスはしばらく考え込んでから、冷静に言った。
「あなたが触れたから、花が枯れたのではないかもしれません」
「……でも」
「すでに枯れかけていた花の声を、あなたが聞いただけ、ということは考えられませんか」
リアンヌはすぐには頷けなかった。五年間信じてきたことを、そう簡単には手放せない。
屋敷に戻ると、ローランドが厳しい顔で待っていた。
「無断で領内へ出たと聞いたぞ」
「……申し訳ありません。ですが」
「言い訳は聞かん。修道院への出発は、明日の朝ではなく、今夜に早める」
リアンヌは息を呑んだ。それでも今度は、すぐに俯かなかった。
「まだ、花が咲かない理由を……調べている途中です」
初めての、小さな反論だった。
「お前が調べることで、異変がさらに深刻になっている可能性を、私は否定できない」
ユリウスが「伯爵、もう少し調査の時間を」と進言したが、ローランドはそれを聞き入れなかった。話は終わりだというように、父は背を向けてしまった。
その夜。
部屋で荷物をまとめていたリアンヌの耳に、屋敷の外から大きな音が届いた。
窓を開けると、長く閉ざされていたはずの母の庭園で、枯れていた蔓が次々と伸び上がり、絡み合いながら庭園全体を覆っていくのが見えた。
蔓の中心で、枯れていたはずの暁花が一瞬だけ白く光った。
そこから、低く、女の声が響いてくる。
「春を、止めないで」
リアンヌの体が、震えた。
聞き間違えるはずがなかった。それは、五年前に失ったはずの――母の声だった。




