第一話 花を枯らす令嬢と、小さな侵入者
春になっても、フローレンス領の花は一輪も咲かなかった。
屋敷の庭も、街道沿いの花畑も、遠くに見える果樹園も、固く閉じた蕾をつけたまま黙り込んでいる。
リアンヌは古い温室の中で、しおれかけた白い花に触れた。
指先に、冷たい感触が伝わる。
その奥から、かすかな声が聞こえた。
――まだ、起きたくない。
リアンヌは息を止めた。
――あの人のいない春なんて、見たくない。
手を離すと、声は消えた。
白い花は力を失ったようにうつむき、閉じていた蕾を床へ落とした。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのか、自分でも分からないまま、リアンヌは呟いた。
温室の外では、使用人たちの声がしていた。
「また、お嬢様が花に触れたらしい」
「だから咲かないんじゃないのか」
聞こえないふりをすることには、もう慣れていた。
母が亡くなった五年前から、リアンヌが触れた花は咲かない。
そして今年、とうとう領地中の花まで咲かなくなった。
「リアンヌ」
執務室に呼ばれると、父ローランドは机の向こうで書類から目を上げもせずに名を呼んだ。四十代半ばの顔立ちには深い疲れが刻まれ、濃い栗色の髪には、以前より白いものが目立つようになっている。
そこでリアンヌは、もう一人の人物が部屋にいることに気づいた。黒に近い青灰色の髪を短く整えた、長身の青年だった。淡い灰青の瞳は落ち着いているが、どこか観察するような鋭さがある。
「隣領アーレント侯爵家の、ユリウスと申します。土壌と植物の調査でこちらに参りました」
青年は丁寧に一礼したが、その目はリアンヌではなく、机の上に広げられた報告書に向いていた。
「土にも、水にも、気温にも、異常は見当たりません。少なくとも、私が調べた範囲では」
そう言ってから、青年は初めてリアンヌの方を見た。何かを確かめるような視線だった。リアンヌは思わず目を伏せる。
ローランドが咳払いをして、本題に入った。
「リアンヌ。お前を、遠縁の修道院へ預けることにした」
リアンヌは驚かなかった。むしろ、いつかこう言われると分かっていた気がした。
「療養という名目だ。だが――領民の不安を、これ以上放っておくわけにはいかない」
父は理由を多く語らなかった。語らないことが、答えのすべてだった。
「……分かりました」
それだけ言って、リアンヌは部屋を出た。反論する言葉を、自分でも持っていなかった。
私がいなくなれば、花はまた咲くかもしれない。
そう思うことの方が、ずっと楽だった。
ユリウスは何か言いたげにリアンヌの背を見ていたが、伯爵家の事情に踏み込む立場ではないと分かっているのか、結局口を開かなかった。
出発前夜、リアンヌは屋敷の奥にある、閉ざされた庭園の前に立った。
母エヴェリーナが生きていた頃、毎日のように手入れをしていた場所だ。母の死後、ここは固く門を閉ざされたまま、誰も足を踏み入れていない。
春の夜風が、リアンヌの淡い銀金色の髪を揺らした。母譲りの薄緑の瞳が、柵の向こうの枯れた庭を見つめている。
中央の花壇に、枯れた枝が一本だけ突き出ているのが見えた。
母が最後に育てていた「暁花」だ。
母を亡くした直後、リアンヌが触れた瞬間に枯れた花。
――私が、枯らした。
「お嬢様」
焦げ茶色の髪をきっちりとまとめた侍女マリエルが、穏やかな茶色の瞳を心配そうに細めていた。
リアンヌは温室へ戻った。明日には屋敷を発つ。せめて鉢植えを片付けておこうと、古い棚の奥に手を伸ばしたとき――かさり、と何かが動く音がした。
振り返ると、しおれかけた花の中に、小さな生き物が顔を突っ込んでいた。
手のひらほどの大きさ。薄桃色の鱗、花びらのように薄く半透明な翼、そして尻尾の先は小さな蕾の形をしている。リアンヌは思わずあとずさった。魔獣の類だろうか。
その生き物は花から顔を上げると、口の周りに光の粒のようなものをまとわせたまま、こちらをじっと見た。
「やめて、それ以上――」
「無礼な物言いだな」
声を発したのは、その小さな生き物だった。尊大な口調が、体の小ささとまるで釣り合っていない。
「我は花を食べておるのではない。花に残った思い出を味わっておるのじゃ」
リアンヌは言葉を失った。喋る生き物に驚いたのか、その内容に驚いたのか、自分でも分からなかった。
「……あなたは、何なの」
「我が名はフィオ。花竜じゃ。花に残った思い出を食べておる」
フィオと名乗った小竜は、胸を張ってそう言った。
温室を見回すと、小さく鼻を鳴らした。
「思っていたのと違ったわい。この領地の花は、病で枯れたのではない」
リアンヌの胸が、小さく波打った。
「皆、咲くのを拒んでおるのじゃ」
「……拒んでいる?」
「ああ。聞かせてやろう」
フィオはそう言うと、棚の隅で力なく項垂れていた一輪の花に近づき、小さく口を開けた。淡い光の粒が、花弁の奥からふわりと立ち上る。光は温室の空気に溶けるように広がり、やがてひとつの光景を映し出した。
数年前の春。今より少し若いリアンヌが、温室の中で土に手を入れている。隣には、淡い金髪の女性が膝をついて笑っていた。
「お母様……」
リアンヌの口から、自然と声が漏れた。
映像の中のエヴェリーナは、幼いリアンヌの手を取りながら、優しく語りかけている。
「花はね、うれしいことだけを覚えているわけではないの」
その声を、リアンヌは覚えていた。忘れたつもりでいたのに、耳の奥にずっと残っていた声だった。
「悲しかったことも、誰かが聞いてくれたら、いつか花になるのよ」
光景はそこで揺らぎ、やがて溶けるように消えていった。温室には、もとの薄暗さが戻る。
リアンヌは、自分の手が小さく震えていることに気づいた。
フィオは何も言わず、リアンヌを見上げた。
先ほどまで得意げに立っていた尻尾の蕾が、少しだけ下がっている。
「この領地の花は、押し込められた悲しみを吸いすぎて、もう咲けなくなっておる」
フィオは穏やかな声で言った。
「……どうして、私に、そんな話を」
「おぬしが、その声を聞ける人間だからじゃ」
フィオの金色の瞳が、まっすぐリアンヌを見つめていた。
やがて、リアンヌの目の高さまでふわりと飛び上がった。
「おぬしは、このまま何も聞かずに去るのか?」
その問いに、リアンヌは答えられなかった。修道院へ行けば、すべてから目を背けられる。けれど――忘れたつもりだった母の声を、今このときに聞いてしまった以上、もう何も知らなかった頃には戻れない気がした。
口を開きかけたそのとき、温室の扉が軋む音を立てて開いた。
「……その生き物は、何ですか?」
立っていたのは、執務室で会ったばかりのユリウスだった。花のそばにいる、見たこともない小竜の姿に、彼は珍しく言葉を止めている。
フィオは小さな翼をいっぱいに広げ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「無礼者。我を生き物呼ばわりするでない」




