第9章 横顔
翌週の昼、私は図書館の二階の窓辺で、シャルの読みたがっていた地方紀行集の借り出し手続きをしていた。
学園の図書館は王立学園の名に恥じず立派なもので、二階の歴史書・紀行書の棚は天井まで届く高さに作られている。普段は静かで人もそれほどいない。シャルは別の講義で席を外していて、私一人だった。
ちょうどそのとき、奥の棚の方から小さな声が聞こえた。
「あの……どなたか、いらっしゃいますか」
控えめだがよく通る声だった。
セラフィータさんだ。
私は手続きの紙を司書の机に置き、奥の棚の方へ歩いていった。歴史書の棚の前で、白い学園服の少女が一冊の本に手を伸ばしかけて止まっている。背伸びをしても指先がぎりぎり届かない高さに、その本はあった。
「セラフィータさん」
声をかけようとして、私は足を止めた。
別の足音が反対側の通路から近づいてきていた。
軍靴に近い堅い革底の靴音。歩幅が長く、しかし焦りがない。学園で見覚えのある足音ではあったけれど、それが誰のものか、その時の私にはまだ正確には繋がっていなかった。
私は棚の陰に半歩、自然に身を退いた。
覗き見をするつもりはなかった。ただ、邪魔をするのもおかしい入り方になりかけていたので、しばらく見守ろうと思った。それだけのことだった。
「お困りか」
軽く低い、しかしよく響く男性の声だった。
セラフィータさんの肩がわずかに跳ねた。
「あ、はい。あの、その棚の」
彼女が示したのは上から二段目の青い背表紙の本だった。
男性の長身が伸びる。指の長い手がその本を難なく取り上げて、セラフィータさんの胸の前にそっと差し出した。
「これか」
「はい、これです。ありがとうございます」
セラフィータさんが両手で本を受け取る。受け取りながら彼女の表情がほんの少し戸惑いに揺れた。お礼を言うべき相手の姿を、彼女は目で正確に追えていない。私にはそう分かった。視線の高さは合っているけれど、その奥で彼女が捉えていたのは相手のお顔ではなかった。
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
セラフィータさんが丁寧に首を傾けて言った。
「わたし、お声で人を覚えますので」
短いが明らかな沈黙があった。
棚の陰からでも、その沈黙の重さがよく分かった。男性の方が絶句している。彼の中で何かが、いま、しずかに引っ繰り返っていた。
「……君は、私を知らないのか」
その声で、私はようやく相手が誰なのかを正確に思い出した。
レオンハルト殿下。
入学式の壇上で祝辞を述べた、この国の王太子。
セラフィータさんは王太子殿下と気付かないまま、王太子殿下にお名前を尋ねていた。
「ごめんなさい」
セラフィータさんが両手で本を抱えたまま頭を下げる。
「お顔をしっかり覚えるのが、わたし、得意ではなくて」
頭を下げたまま、それでも声は穏やかだった。
「わたしには、人の気持ちがお声とお気配のかたちで先に届きますので。お顔より、お声でお覚えしていることが多いんです」
レオンハルト殿下はしばらく何も言わなかった。
驚いていらっしゃる、というよりも、初めての種類の対応に少しだけ立ち尽くしていらっしゃる。身分を察してへつらう相手か、身分を察したうえで遠巻きに敬意を払う相手か。たぶん殿下の経験のなかにはその二つしか存在していなかった。声をかけた相手の方が「声で人を覚えるのでお名前を教えてください」と言ってくる場面は、王太子の人生のなかでおそらく初めてだった。
「私はレオンハルト・ヴェルテンベルクだ」
ようやく殿下の声が戻ってきた。
「この国の王太子である」
「あ」
セラフィータさんが本を一度胸に押し付けて、深く頭を下げ直した。
「殿下。失礼いたしました」
「いや」
殿下が短く首を振られる気配があった。
「失礼ではない」
もう一度、間。
セラフィータさんが頭を上げる。本を抱えたまま、彼女らしい慎重さで言葉を選んだ。
「殿下、わたし、シャルロッテ様の友人をさせていただいておりますセラフィータと申します」
「シャルロッテ嬢の、友人」
殿下の声が今度ははっきりと止まった。
「ティータさんも一緒に、三人で」
セラフィータさんが続けた。
「シャルロッテ様は、わたしのような身分の者にも優しいお声をかけてくださる方です」
殿下がわずかに身じろぎをなさった気配があった。
「お声に温かさがあって、誇り高くて少し寂しそうで」
セラフィータさんが目を伏せながら言った。
「でも、わたしとお話しなさる時には、本当に優しいんです」
棚の陰で、私は静かに息を吸った。
セラフィータさんは王太子殿下を相手にしていることを十分に意識しながら、それでもシャルのことを語る時には自分の感受性の言葉を引っ込めなかった。シャルの「公爵令嬢らしい」表情の奥に何があるのかを、彼女は感じ取ったままに殿下に伝えていた。
殿下が息を吐く音がした。
長くはない、しかしいくつもの言葉が混ざった種類の静かな息だった。
「君は、シャルロッテ嬢の、何を見ている」
殿下の声が低くなっていた。
「お声と、お気配です」
セラフィータさんが答えた。
「お顔ではなくて」
「お顔も拝見しております。でも、わたしが一番たしかに分かるのは、お声とお気配の方で」
「シャルロッテ嬢の声と気配は、どう聞こえる」
殿下の問いの方が慎重になっていた。
「あたたかいです」
セラフィータさんが本を抱えたまま、ほんの少し笑った。
「お声の表は澄んで誇り高くて少しだけ硬いのですが、その奥に、誰かを大切にしようとなさるお気持ちがずっと流れていらっしゃいます」
「……」
「ティータさんといらっしゃる時には、その奥のお気持ちがお声の表まで上がっていらっしゃいます。とても嬉しそうに」
殿下はそれきりしばらく何も言わなかった。
* * *
二日後、私は中庭の小道をシャルと並んで歩いていた。
昼の講義が終わって寮に戻る途中だった。中庭は午後の光に明るく、薔薇の蕾が少しずつほどけ始めていた。シャルは私の隣で講義で出された詩の解釈の話を低い声でしてくれていた。彼女のこういう時の声は私だけが知っている柔らかい温度をしていた。
その時、中庭の池の向こう側に二つの人影が見えた。
白い学園服の少女と、紺色の制服の青年。
セラフィータさんと、レオンハルト殿下だった。
二人は池の縁の小さな東屋の前で立ち話をしていた。距離はちゃんと取られているし、姿勢にも崩れはなかった。けれど、私の隣のシャルがその一瞬で足を止めたのが分かった。
「シャル」
「……ええ」
シャルが視線を池の向こうに固定したまま短く答えた。
殿下が何かをセラフィータさんにお尋ねになっている。セラフィータさんが本を抱えたまま、頭を慎重に動かして答える。その答えに殿下がわずかに笑った。
わずかに笑った。
私の隣でシャルが息を一つ止めた。
殿下のあの笑い方はシャルの前で殿下が浮かべる微笑とは違う種類のものだった。誇り高い令嬢の前で見せる王太子の微笑には、いつも一段の距離と一段の儀礼が乗っている。けれど池の向こうで殿下がいまセラフィータさんに向けて浮かべている表情は、その距離も儀礼も剥がれた、もっと素直な笑顔だった。
シャルはそれを誰よりも正確に見分けたはずだった。
彼女自身が、その種類の表情を殿下から向けられたことのない人だったから。
シャルの指が私のドレスの袖をほんの少しだけ握った。
握り返してはいけない、と私は咄嗟に判断した。
ここで私が彼女の手を握り返してしまったら、彼女の中で形になりかけている小さなものに、私が早すぎる名前を付けてしまう。シャルがこの感情を自分の中で何と呼ぶのかは、彼女自身が彼女のことばで決めることだった。
「シャル、行きましょう」
私はできるだけ普通の声でそう言った。
「ええ」
シャルが視線を池の向こうから外した。
歩き出した彼女の歩幅はいつもより半歩短かった。
寮の入り口まで、私たちはそれ以上、池の向こうの話はしなかった。私はシャルが自分から口を開くのを待つことに決めて、彼女の歩幅に合わせて歩いた。シャルの私的口調は彼女が自分の中の言葉を整え終わるまで出てこない。それは十一年見てきて分かっていることだった。
シャルの寮室で扉が閉まり二人きりになってから、シャルはようやく長い息を吐いた。
ソファの背に彼女が浅く身を預ける。銀色の髪が首筋の脇でほどけて落ちた。
「ティー」
短く彼女が言った。
「ええ」
「殿下が、あの方に、ああいうお顔をなさるのね」
声に責める色はなかった。
ただ見たことのない事実を、自分の中で並べ直そうとしている声だった。
「セラフィータさんは何も悪くないわ」
シャルがすぐに付け足した。
「あの方はいつもご自分の感受性のままに人とお話しなさる。殿下にも、わたくしに対するのと同じように、お声でお気配でお話しなさったのだろうと思うの。それだけのことだわ」
「ええ」
「殿下が、あの方の率直さに、興味を持たれた。ただそれだけのことね」
「シャル」
私はソファの隣に腰を下ろした。
「あなた、いま、自分のお気持ちのこと、ちゃんと感じている?」
シャルがわずかに目を伏せた。
長い、しかし短くもある沈黙のあと、彼女が言った。
「分からないの」
「うん」
「わたくしは、殿下を、政治的に並ぶ相手としてちゃんとお迎えしようと思っていたわ。ご義務として、それで十分だと思っていた。それなのに」
シャルの声がわずかに揺れた。
「それなのに、池の向こうで殿下がセラフィータさんにお見せになった表情を見たときに、わたくしのお胸の奥が知らないかたちで動いたの」
「うん」
「これは、嫉妬なのかしら」
シャルが自分でその言葉を出した。
出してから、彼女自身がその言葉に少し驚いている顔をした。
「分からないわ。わたくし、殿下のことを、男性として好きだと思ったことは、これまで一度もないの」
「うん」
「ただ誰かに笑顔を向けるあの方の姿を見たときに、それがわたくしに向けられたことが一度もないという事実が、ふいに、形を持って近づいてきた」
シャルが私の方を見た。
彼女の青い瞳がいつもより少しだけ深い色をしていた。
「これは嫉妬と呼ぶには、たぶん早すぎる気持ちだわ」
「うん」
「セラフィータさんに、何かをするつもりはわたくしには絶対にない」
「分かってる」
「あの方は、わたくしの大事な友人だもの」
私はシャルの手をそっと両手で挟んだ。
彼女の指はいつもより冷たかった。
「シャル」
「ええ」
「あなたが自分のお胸の動きにきちんと名前を付けようとしてくれて、嬉しいわ」
シャルがわずかに頷いた。
「あなたが自分の気持ちを誰かのせいにしない人だってことを、私はずっと知っている」
「ティー」
「だから急がなくていいの。あなたの中でその気持ちがちゃんとした形になるまで、私は待つから」
シャルの目に薄く何かが滲んだ。
しかしそれはこぼれずに、彼女の睫毛の縁で留まった。
私の親友はこういう揺れ方をする時にも、結局はちゃんと自分の足で立つ人だった。
私は彼女の手をもう一度軽く包み直した。
* * *
王宮の私室。
夕暮れの光が長い窓のひとつから斜めに差し込んでいた。
その光のなかで、レオンハルトは執務机の前に座らず、窓辺に立って外を眺めていた。
二日前、図書館で会った平民の少女のことをまた考えていた。
あの少女は私を王太子として見ていなかった。本を取ってくれた人、として接していた。その後で身分を知ってからも、彼女の声の中の温度はほとんど変わらなかった。失礼を恥じる気持ちはあったが、卑屈に媚びる音はなかった。
そして彼女はシャルロッテ嬢のことを語った。
お声は澄んで誇り高くて少しだけ硬い。けれどその奥に、誰かを大切にしようとする気持ちがずっと流れている。ティータと一緒にいる時には、その奥の気持ちが声の表まで上がってくる。
あの少女の感受性の言葉が、その時から私の頭の中を離れない。
私が知っているシャルロッテ嬢は、いつも誇り高く、整っていて、義務に忠実で、私との距離を律儀に保つ婚約者だった。私はそれを「公爵令嬢らしい」と片付けていた。婚約は政治であり、彼女はその上手な担い手であり、私が知るべきことはそれで全部だと思っていた。
しかし平民の少女がそう感じるということは、あの距離の奥に、私が見ようとしてこなかった別の顔が確かにあるということだった。
私が、見ようとしてこなかった。
その言葉の方を、私はゆっくり噛んだ。
彼女が私に温度のある声をかけないのは、彼女がそうなのではなく、私が先にそういう声を彼女にかけたことがなかったからだ。私が先に「公爵令嬢らしい」という距離の名前をつけて、それで満足していた。
窓辺の硝子に、私の薄い影が映っていた。
窓辺に立つ自分の横顔を、私はその硝子の中で一度だけ正面から見た。
もう少し彼女を見てみよう、と私は思った。
政治の駒としてではなく、ひとりの人間として。本物の彼女を知る相手として。
夕陽が私室の床に長く伸び、窓辺の私の影を薄く溶かしていった。
* * *
夜。
寮の机で、私はノートを開いていた。
今日の昼の中庭のことと、二日前にセラフィータさんが図書館で殿下に声で出会った話を、続けて書き付ける。
あの図書館の出会いは、私の地図に元々あった。二人が並ぶはずだった未来でも、出会いの場面はあった。
書かれていなかったのは、シャルの方だった。
殿下の感情の揺れを目撃するシャル。「これは嫉妬と呼ぶには早すぎる気持ちだわ」と自分のことばで名前を付けるシャル。決められた未来のなかには、どちらもなかった。
ペンがしばらくノートの上で止まった。
悪いことではない、と私は思った。
シャルが殿下を「役目を果たす相手」から「ひとりの男性」へとほんの少しだけ位置を変えた。その位置の変化はシャル自身の選択の結果で、私の介入の結果ではなかった。
私はノートの最後に書いた。
シャル、ご自分のお胸の動きに名前を付け始めた。急かさない。あなたの足で、あなたのことばで、いまの位置を渡っていって。
ペンを置いて、窓辺に立った。
春の夜の風が薄く吹いて、月が雲の隙間でゆっくり横顔を見せていた。
王宮の方角の空に、私の地図にない人の窓のあかりが、たぶん今夜も灯っているはずだった。




