第10章 月
春が深くなり、学園は学園祭の準備で慌ただしくなっていた。
大ホールでは生徒たちが朝から夕まで装飾や舞台の段取りに走り回り、廊下のあちこちで模擬店の試食の匂いがする。普段は静かに礼を守って歩く貴族令嬢たちも、この時期だけは少し砕けた声で笑っていた。学園祭はヴェルテンベルク学園にとって一年でいちばん身分の境目が薄くなる行事だった。
その流れの中心に、シャルがいた。
大ホールの正面の装飾を担当する一年生の班に、シャルが配されていた。配されたというよりは、自然と上の位置に立たされていた。班には貴族の生徒も平民の特待生も混じっていて、誰がどう仕切るかが最初の朝に少し揉めかけた。そこにシャルが入ってきて、ただ一言、「皆さん、今日の段取りを伺ってもよろしいかしら」とお声をかけた。
それで、全部、決まった。
誇り高い令嬢のお声が穏やかに高さを取り、班の生徒たちの背筋が同じ向きに揃う。シャルは指示を出すというよりは、それぞれの生徒が持ってきた案を順に聞いて、足りないところを足し、重なるところを整理した。彼女のお声は短くて、無駄がなくて、けれど一度も誰のことも切らなかった。
私は会場の隅で、装飾の布を畳むふりをしながら、その様子を見ていた。
シャル、すごい。
あなたが学園生活の中で、こんなに自然な位置に立っているのを、私は初めて見たかもしれない。
班の中に、平民出身らしい少女が三人いた。彼女たちは最初、シャルに話しかけられただけで言葉を詰まらせていた。けれど三日も経つと、自分から「シャルロッテ様、この高さでよろしいですか」「シャルロッテ様、こちらの組み合わせはいかがでしょう」とお声をかけるようになっていた。
シャルの方も、最初は短い「ええ」「結構です」だけで返していたのが、四日目くらいから、少しずつ言葉が増えていた。
「あなたの組み方、繊細でとても美しいわ」
シャルがそう言った時、相手の少女はリボンを取り落としそうになっていた。
私は布の陰で、ひとつ大きく息を吐いた。
決められた未来では、こんな光景はなかった。シャルは公爵令嬢として常に独りで、本当の意味で誰かと並んで何かを作ったことがないまま、最後の夜を迎えていた。それが、今、ここで、班の少女たちと一緒に布の高さを揃えている。
誰一人、あなたの中身を知らないまま処刑される未来は、もう、来ない。
* * *
学園祭の準備に、レオンハルト殿下もお姿を見せておられた。
王太子殿下が学園祭の準備に直接顔を出されるのは慣例にはなかった。けれど今年は殿下の方からそうなさったらしく、午後になるたびに大ホールの隅にお出でになって、班の進行をご覧になっていた。
最初の日、殿下のお姿が見えた時、班の生徒たちは一斉に手を止めた。誰もが頭を下げ、空気が一段、固くなった。シャルもさっと公的口調に切り替わり、殿下に向かって深く一礼をした。
「殿下、ご視察、感謝申し上げますわ」
「楽にしてくれ。私は見ているだけだ」
殿下が穏やかに首を振った。
「シャルロッテ嬢、君の班が一番進んでいると聞いた」
「皆さんが力を貸してくださっていますわ」
「君の指示が的確だからだろう」
殿下のお声に、社交辞令ではない響きが薄く混ざった。
シャルが少しだけ、視線を上げた。誇り高い令嬢のお顔のままで、けれど目だけが、半分ほどの率直さを許していた。
「ご褒詞、ありがたく頂戴いたしますわ」
殿下が微かに笑った。
数日前の昼に、私が池の向こうから見た、あの素直な笑顔とは、まだ違う。けれどシャルに向けるお顔から、義務的な微笑みが半枚剥がれているのは、隅の私からでもよく分かった。
シャルの背筋は変わらず誇り高い。
けれど指先が、ほんの少しだけ、装飾の布の縁をつまみ直していた。
ふだんの彼女は完全に静止できる人だ。指先のあの小さな動きを、彼女自身がたぶん自分で意識していない。
シャル、あなた、いま、ちゃんと反応している。
数日前、池の向こうの光景を見たあと、シャルは自分のお胸の動きにきちんと名前を付けようとしていた。あの時の彼女と、いまの彼女は、もう同じ位置にはいなかった。「役目を果たす相手」という距離の名前を、彼女が自分の足で半歩ぶん渡り直そうとしている。
殿下も、それを感じ取られている気がした。
お声の温度が、これまでよりほんの少しだけ柔らかい。
別の隅では、セラフィータさんが祈祷部門の準備をテオドール様と一緒にしていた。
祈りの儀式は学園祭の冒頭で行われる慣例があって、毎年神学科の三年生が担当する。今年はテオドール様が中心の役目を負い、その横にセラフィータさんが新入生として手伝いに入っていた。
二人で祭壇布の畳み方を確認している。テオドール様の白いお召し物の袖が、セラフィータさんの細い指の動きに合わせて、ふっと位置を直されていた。
セラフィータさんが、嬉しそうな声で何かをお話ししている。テオドール様の方は短く頷いて、低くゆっくり言葉を返していらした。
あの二人も、いま、ちゃんと並んでいる。
私は会場全体を一度見渡した。
シャルとレオンハルト殿下、セラフィータさんとテオドール様。それから、班の中で布の高さを揃えている平民の少女たち、舞台の組み立てを大声で指示している演劇部の上級生、廊下の方で警備の段取りを確認しているヴィルマール様。
決められた未来の地図が、こんなふうに変わるとは、十一年前の私は思っていなかった。
ここまで来ることが、できた。
あと一歩、もう一歩、組み替えるだけ。
* * *
学園祭まで、ちょうど三日となった日の午後だった。
シャルが祭壇の装飾用に白い花を選ぶため、温室へ向かうことになった。
温室は中央棟の裏手にあり、学園祭の生花のほぼ全てがそこで賄われている。シャルが「白い花を、自分の目で選んできたいの」と言うので、私は付き添うつもりで歩き出した。けれど大ホールを出る間際に、布の高さの相談で班の生徒に呼び止められてしまった。
「ティー、先に行っているわね」
シャルが小さくそう言って、一人で先に温室へ向かった。
私はその後ろ姿を一秒だけ見送って、布の相談を済ませてから、温室の方へ歩いた。
温室の入口の硝子の扉に、私は手をかけかけて、そのまま動きを止めた。
扉の向こうに、二つの影が見えた。
白い花の咲く棚の前、銀色の髪と、もう少し高い位置の銀色の髪。
シャルと、レオンハルト殿下だった。
扉に手をかけた姿勢のまま、私はそっと身を退いた。
窓越しに二人が会話しているのが見える。お声は聞こえない。けれど、二人だけの温室の空気が、外から眺めていても分かるくらいに穏やかに止まっていた。
邪魔をしてはいけない。
私は扉から半歩離れて、温室の壁に身を寄せた。中の硝子越しに、影だけがゆっくり動いていた。
* * *
「シャルロッテ嬢、ここにいたのか」
硝子の壁の中で、レオンハルトはそう声をかけた。
白い花の棚の前で、シャルロッテが小さく振り向いた。彼女が一人でいるのを温室で見るのは、彼の覚えている限り、初めてだった。
「殿下、お一人で?」
彼女が公的口調で応じた。
「ああ。儀式に使う花を、自分の目で見ておきたかった」
レオンハルトは半歩、棚の方へ近づいた。温室の空気は湿って温かく、外の廊下の硬い空気とは違う重さがあった。
白い花が幾種類か、棚に並んでいた。百合、薔薇、小ぶりの星の形の花、見覚えのない品種もあった。シャルロッテの細い指が、ある一輪の白百合の縁にそっと触れていた。
しばらく沈黙が続いた。
二日前の中庭の池のことが、レオンハルトの頭の片隅に薄く灯っていた。あの時自分はセラフィータに少し素直すぎる笑い方を向けてしまった。シャルロッテはあの場面を見ていただろうか。見ていたとしたら、いま自分の隣にいる彼女は、それをどう抱えていたのだろう。
彼は自分から声を出した。
「……シャルロッテ嬢、君は、花が好きか」
シャルロッテが指先を花の縁から離した。
「はい」
短い間のあと、彼女は付け足した。
「特に、白い花が」
「そうか」
レオンハルトは小さく頷いた。
「覚えておこう」
彼女の青い瞳が、わずかに揺れた。
「覚えて、おかれますの」
「ああ」
レオンハルトはそれ以上の理由を口にしなかった。理由を言葉にしてしまうと、自分の中でまだ言葉になっていないものを潰してしまう気がした。
彼は棚の上から、よく咲いた白百合を一輪、慎重に手折った。
「これを、君に」
シャルロッテの瞳が、はっきりと驚きを見せた。誇り高い令嬢のお顔のままで、けれど指先がほんのわずかに動く。
「殿下、よろしいのですか」
「儀式用の余りだ。気にするな」
レオンハルトは自分でも分かる程度に、不器用な言い訳をした。儀式用には十分な数を別に取ってある。これは余りではない。余りではないと、自分でも分かっていた。けれど彼女がそれを受け取りやすいように、彼はその言葉を選んだ。
シャルロッテが両手で花を受け取った。
「……ありがとうございます」
頬が、薄く赤くなっていた。誇り高い令嬢のお顔が崩れたわけではない。崩れないままで、その内側にひとつ、温度がともっていた。
レオンハルトは満足とは違う、少し落ち着かない感情を胸の中で確かめた。
あの感情の名前を、彼はまだ決めかねていた。
* * *
温室の扉が開いて、シャルが出てきた。
白百合を一輪、両手で抱えていた。
お顔は誇り高い令嬢の整い方を保っているけれど、頬の薄い赤みは隠せていなかった。
彼女は私の姿を見て、わずかに目を見開いた。
「ティー」
「シャル、お花、選び終わったのね」
私は何も見ていなかったような顔で歩み寄った。
シャルが両手の花を一度ぎゅっと胸に寄せた。
その仕草で、私は胸の中で小さく拳を握った。
シャル、よかった。
あなたが今、誰かから一輪の花をまっすぐ渡されて、それを受け取れた。
たったそれだけのことが、決められた未来のどこにもなかった景色だった。
* * *
その夜、私は寮の自分の部屋で、ノートの新しい頁を開いた。
今日の温室のことを書きつけようとしてペンを取った時、廊下の方で誰かの足音がした。
私の部屋の前は通り過ぎる足音。けれど、すぐ近くで止まる気配がした。
数秒の沈黙のあと、扉が控えめにノックされる音はなく、足音はそのまま遠ざかっていった。
私は息を潜めて、しばらくペンを動かさなかった。
学園の寮には警備が定期的に巡回する。それだけのことだろうと、私は自分に言い聞かせた。
翌朝、シャルから扉越しに小さな声で呼ばれて、私は彼女の部屋に行った。
扉を閉めた寮室の中、シャルが机の上から一枚の紙を取り上げた。
「ティー、これが、今朝、机の上にあったの」
白い便箋。封筒はなく、二つに折られた紙が、ただ机の上に置かれていたという。
私は受け取って、開いた。
『公爵令嬢ともあろう方が、平民の方々と仲よくなさるなんて。ご家門の恥になりましょう。お慎みあそばせ』
差出人の名前はない。
筆跡は、女性のもの。整っていて、しかし急いで書いたような、わずかな乱れが端にあった。
私はその紙を一度、丁寧に閉じた。
来た。
来たわね、エヴェリン様。
心の中で名前を呼ぶ。確証はない。けれど、私の地図にない人があなただけである以上、この種類の文字は彼女から始まると考えるのが筋だった。
「シャル、あなた、これを読んで、どう感じた」
「最初は、少し驚いたわ」
シャルが机の上で指を組んでいた。
「でも、わたくしには、誰が書いたものかも、なぜ書かれたのかも、ちゃんと分からないの。ただ、わたくしが平民の方々と並んで装飾を作っていることが、誰かのお気に召さない、ということだけは、分かったわ」
彼女の声は誇り高い令嬢の整い方を崩していなかった。けれどお声の奥に、薄く硬い緊張があった。
「シャル」
「ええ」
「これは、もらってもいい? 私が、預かるわ」
「ティーが?」
「うん。あなたが持っているより、私が持っている方がいい」
シャルが頷いた。
彼女は私に渡すと決めた瞬間に、お顔から薄い緊張をひとつ落とした。
私はその紙を二つ折りのまま、自分のノートの間に挟んだ。
* * *
その日の午後、大ホールでもうひとつ、事が起きた。
シャルの班が前日までに作りためていた装飾用の花飾りが、何者かに踏み荒らされていた。
組まれていた花輪のうち三つが、床に落ちて踏まれている。白い花弁が床に散らばり、誰かのものらしい靴の跡が、ぼんやり一筋、押し付けるように残っていた。
班の生徒たちが、誰の仕業かと声を上げた。
「ひどい」
「誰がこんな」
「シャルロッテ様、お気の毒に」
囁き声が走る中、シャルは静かに屈んで、踏まれた花輪に手を伸ばした。
お顔の表面は誇り高い令嬢のまま。
しかし、その指が、白い花弁を一枚ずつ拾い集める動きは、いつもの彼女より少しだけ慎重で、その慎重さの中に、声に出さない動揺の温度があった。
「シャル」
私は駆け寄って、彼女の隣に同じように屈んだ。
他の生徒には聞こえない高さで、私だけに届く声で、私は言った。
「平気?」
「ええ、平気よ」
彼女の返事は短かった。
声がほんの少しだけ震えそうになるのを、私は隣で聞き取った。
いいえ、平気じゃないのは知っている。あなたは、自分が一生懸命作ったものを、誰かに踏まれた。それを、ただ「平気」と返せる強さは、本当の強さじゃなくて、長く身につけてきた仮面の使い方だ。
私はその場で立ち上がって、班の生徒たちに向き直った。
声を、少しだけ張った。誰の方を向くか分からないように、けれど周囲に十分届く高さで。
「皆さん、お力をお貸しいただけますか」
班の生徒たちが、こちらを見た。
「シャルロッテ様が、これだけ丁寧に作ってこられた花飾りですわ。もう一度、皆で作り直しましょう。学園祭の前日までに、もっと素敵なものを、皆さんと一緒に」
誰かが先に動いた。
平民出身の少女のひとりが、床に膝をついて、散らばった花弁を集め始めた。それを見て、貴族の生徒たちも次々と腰を下ろした。すぐに班全体が床に屈んで、白い花弁を一枚ずつ集めていた。
シャルが私の方を見上げた。
お顔は誇り高い令嬢のまま。
けれど青い瞳が、ほんの一瞬だけ、私だけに分かるように緩んだ。
私は心の中でだけ、彼女の手にそっと触れた。
ええ、シャル。これは、あなたの装飾を踏んだ誰かの計画を、あなたの装飾をもっと多くの人の手で作り直す日に書き換えた、ということ。
あなたを削ろうとした手は、結果として、あなたの周りの人をもう一段、増やしたわね。
* * *
学園祭まであと二日となった夜、私は寮の自分の部屋を出て、廊下の灯りを頼りに東棟の方へ歩いていた。
明日の最終確認のために、班に渡しておきたい備品の覚え書きが机の上に残っていて、それを大ホールの近くの保管箱に届けに行くつもりだった。本来なら侍女に頼んでもいいことだったけれど、自分の手で運んで、ついでに会場の様子も最後にひと目見ておきたかった。
夜の廊下は静かで、ところどころ警備の燭台だけが灯っていた。
大ホールの裏手の角を曲がったとき、私はぴたりと足を止めた。
角の向こうに、長い影が立っていた。
白銀の制服。手に短い剣の柄。月明かりが横の窓から差して、その姿の輪郭をくっきりと縁取っていた。
ヴィルマール様だ。
「ラインフェルト嬢」
彼の方が、私の足音に先に気付いていた。声に驚きはなく、低く落ち着いている。
「こんな夜更けに、何の用だ」
「ヴィルマール様、お疲れさまです」
私は会釈をして、彼の方へ歩み寄った。
「明日の準備に必要な備品を、保管箱に届けに来ましたの。少しだけ時間がかかりますわ」
ヴィルマール様はわずかに頷いて、それから、短い間のあと、こう言った。
「……一緒に回るか」
私は思わず彼の顔を見上げた。
「あら、警備中なのに、よろしいんですの?」
「警備の一環だ」
私は内心、半歩ぶん笑った。
絶対に違うでしょう。
でも、その言い訳のかたちが彼にとってどれだけ精いっぱいのものなのかは、騎士見習い棟の遠くから時々見かけていた彼の様子から、私にもなんとなく分かった。
私たちは並んで歩き始めた。
ヴィルマール様の歩幅は普段は私よりずっと広い。それを、彼は私の隣にいる間だけ、明らかに半歩ぶん狭めていた。
廊下の窓の外に、月が出ていた。
学園祭の頃の月はいつも少し大きめに見えると、誰かが言っていた。それを今夜初めて思い出した。
しばらく、私たちは何も話さなかった。
気まずい沈黙ではなかった。むしろ、お互いの足音と、廊下の燭台の油の鳴る音だけがある時間が、不思議なくらい落ち着いていた。
ヴィルマール様が、ふいに口を開いた。
「ラインフェルト嬢」
「はい」
「学園祭で、何かが起きそうな気がしている」
私は息を一度、整えた。
「……あなたも、そう感じておいでですか」
「ああ」
彼は前を見たまま、短く頷いた。
「警備の側でも、空気がここ数日、少しずつ変わっている。確たることは言えないが、何かが整いつつある気配だけは、確かにある」
「ヴィルマール様」
「あなたが気にしているなら、俺も警戒する」
その一言を、彼は前を向いたまま、淡々と置いた。
私は半歩、息を止めた。
あなたが気にしているなら、俺も警戒する。
学園の警備を担う騎士見習いが、侯爵令嬢のひとりの感覚を理由に警戒態勢を組むと言っている。本来なら成立しない理由づけだ。けれど彼はそれを、何の躊躇もなく、当たり前のことのように口にした。
この人、ほんとうに、私を見てくれている。
私は前を向いたまま、自分の中の温度をひそかに整えた。
月明かりが、横の窓から、ちょうど彼の頬のあたりを照らしていた。
ヴィルマール様の横顔は、普段の警備中のお顔より、ほんの少しだけ柔らかかった。普段なら無表情の輪郭の中で固まっている顎の線が、夜の月の下では、もう少し人間の長さを持っているように見えた。
あら、私、なぜこの人の横顔をこんなに見つめているのかしら。
心の内側で、誰にも聞こえない呟きが、ひとつ落ちた。
廊下の角まで来て、ヴィルマール様は足を止めた。
「ここまで送ろう」
「もう、よろしいんですの?」
「この先は寮の棟だ。寮までは別の警備の者がいる」
「ヴィルマール様、ありがとうございました」
彼が微かに頷いた。
お顔は無表情のまま。
けれど、私を見る視線の温度だけが、廊下の燭台より、月明かりより、ほんの少しだけ温かかった。
* * *
寮へ戻る前に、私はヴィルマール様にもう一つだけ、お話しする時間をいただいた。
廊下の中ほど、人の通らない柱の陰で、私たちは立ち止まった。声を低くしても、誰の耳にも届かない位置だった。
「ヴィルマール様、もう一つだけ、お聞きいただきたいことが」
「言ってくれ」
「学園祭の最中に、おそらく、何かが起きます」
「具体的には」
「モルゲンシュタイン公爵令嬢エヴェリン様。彼女が、シャルロッテ様を陥れる方向に動いていらっしゃいますの」
ヴィルマール様のお顔から、表情がさらにひとつ抜けた。
「証拠は」
「まだ、ありませんわ」
私は正直にそう言った。
「ただ、確信はあります。今朝、シャルロッテ様の机の上に差出人のない手紙が置かれていました。装飾が踏まれたのも、おそらく無関係ではないでしょう。学園祭の混乱を使って、シャルロッテ様の評判を平民の方々の側で削ろうとする動きだと、私は読んでいますの」
ヴィルマール様はしばらく沈黙していた。
その沈黙の中で、彼は私の言葉を、信じるかどうかではなく、信じた上でどう動かすかを考えていた。それが、私には分かった。
「あなたが、そこまで確信を持って言うなら」
彼が、低く答えた。
「警備の側で、学園祭当日の態勢を一段、上げる」
「……ありがとうございます、ヴィルマール様」
「礼はいい」
彼は短く言った。
それから、わずかに目を伏せた。
「あなたの言葉に、いま、俺は理由なしで頷いた。本来なら、警備の話を理由なしで動かすことは、俺はしない」
「ヴィルマール様、それは」
「分かっている」
彼は私の言葉を引き取った。
「あなたの眼差しに、嘘がない。それが理由だ。十分すぎる理由だ」
私は柱の陰で、半歩ぶん深く頭を下げた。
「シャルロッテ様を、お守りくださって、ありがとうございます」
「俺は、自分の任務を果たすだけだ」
「ヴィルマール様、あなたの『任務』は、私の大切な人を守ること、ということになりますわね」
彼の頬が、月明かりの中で、ほんのわずかに動いた。
赤面しかけたのを、表情の上で抑え込まれたのが、私には見えた。彼は咳をひとつ、低くしてから、視線を廊下の先へ戻した。
「……寮までは、もう近い。気をつけて戻れ」
「はい」
彼が、もう一度小さく頷いた。
私は会釈をして、寮への廊下を歩き出した。
数歩進んで、振り向きたくなる衝動を、私は半歩のところで止めた。
月明かりが、廊下の床にまっすぐ伸びていた。
* * *
寮の自分の部屋に戻って、私は机の灯りをひとつだけ灯した。
引き出しの奥から、革表紙のノートを取り出す。十一年、私の地図を書き続けてきたノートだ。頁の端は擦り切れ、何度も書き直したインクの跡が、文字の上に層をなしていた。
今日の頁を開く前に、私はシャルから預かった差出人のない手紙を、頁の間にきちんと挟み直した。証拠としてではなく、忘れないために。
新しい頁に、私はペンを置いた。
学園祭は二日後。
シャルとレオンハルト殿下、温室の一輪の白百合。シャルの装飾を踏んだ誰かの足跡。差出人のない手紙。月明かりの廊下を、私の半歩ぶん歩幅を狭めて並んで歩いた人の横顔。
書きながら、私はもうひとつだけ、自分への約束を書きつけた。
エヴェリン様。
あなたの動きを、私は見逃さない。
決められた未来の地図に、あなたの名前はなかった。けれど、いま、私のノートには、あなたの動きを書き込む頁が確かにある。
明日、私の班に最終の打ち合わせ。明後日、学園祭当日。
何かが起きる。
起きるのが分かっている以上、私は、それより半歩、先に動く。
ペンを置いて、窓辺に立った。
学園の中庭の向こうに、月が傾きかけていた。
月明かりの下で、私は誰にも見えない位置で、もう一度、自分のために小さく拳を握った。




