第11章 灯
学園祭の二日目の夜、大ホールに灯りが満ちた。
昼のあいだは中庭や廊下に出ていた模擬店も、夕方からは大ホール周りに集まる。日が落ちて、生徒たちが一度それぞれの寮へ戻って着替えを整え、夜の七時を過ぎる頃、ホールの大扉が開かれた。
扉の内側に、灯りの粒がいくつも下がっていた。
硝子で覆われた燭台が天井の梁から幾重にも吊り下げられ、その光を受けて、磨かれた床がほの白く沈んでいる。楽団がホールの一段高い場所で弦の音合わせをしていて、その音が灯りの中にゆっくり混ざっていた。
学園祭の最後を飾る舞踏会の夜だった。
私は寮室で、シャルとセラフィータさんの三人で着替えを終えていた。
シャルが青い瞳に映える、控えめな銀のドレス。ヴァイセンベルク家の侍女が長く仕立ててきた、彼女のための一着だった。鎖骨の高さで上品に閉じる襟元、肘下までの袖、裾は床を撫でる長さ。装飾は最小限で、それでもただ立っているだけで人の視線を引いてしまう。
セラフィータさんが、白い清楚なドレス。教会から授けられた、聖名を持つ少女のためのお召し物に近い仕立てだった。彼女の肩はもともと細いけれど、白の布がかえって、その細さを健やかな線に変えていた。
私は落ち着いた緑のドレスを選んでいた。
観察者で、介入者で、シャルの親友。前に出る色ではなく、二人の隣にいる時にお互いの色を邪魔しない色。ラインフェルト家の侍女が用意したいくつかの中から、私は迷わずそれを選んだ。
「ティー、その色、あなたによく似合うわ」
シャルが言った。
「シャル、あなたの方こそ。今夜のあなたは、本当に綺麗よ」
「ティータさんもシャルロッテ様も、お二人とも、お声と同じくらい色が綺麗です」
セラフィータさんが穏やかに微笑んだ。
彼女に「色」と言われると、それがただの感想ではなく、彼女の感覚ぜんぶで受け取ったものなのだということが、私にも分かる。
大ホールへ向かう廊下を、私たち三人は並んで歩いた。
* * *
大扉をくぐった瞬間、ホールの灯りが私たちの目の中で一度、にじんだ。
燭台の光が梁から梁へ渡されていて、その下に、すでに多くの貴族令嬢と令息が集まっていた。シャルとセラフィータさんと私の三人が並んで入ったところで、近くにいた数組が一瞬、視線をこちらに向けた。
シャルは誇り高い令嬢のお顔のまま、首をまっすぐに保って歩く。
セラフィータさんは少しだけ視線を伏せて、けれど足取りはしっかりしていた。
私はその二人の半歩後ろを、整った歩幅で進んだ。
今夜、シャルが一番に立つ位置にいる。
決められた未来では、舞踏会のシャルは誰の目にも「冷たい誇り高い令嬢」としか映らない夜だった。けれど今夜の彼女には、装飾を一緒に作り直した班の生徒たちからの、控えめだが温度のある視線がいくつも届いていた。
その視線の量が、私のノートの一頁を確かに塗り替えていた。
壇上に近い位置に、銀色の髪が立っているのが見えた。
レオンハルト殿下。
白を基調にした正装で、肩から短いマントを掛けておられる。今夜は王太子としての公式の場ではないけれど、それでもお立ちになる姿には王太子としての気配が抜けない。
殿下がこちらに気付かれた。
まっすぐに、シャルの方へ歩いて来られる。
ホールの中の生徒たちが、その動きに気付いて少しずつ道を開けた。
殿下は私たちの前で立ち止まり、シャルに正面から向き合って、片手を差し出された。
「シャルロッテ嬢、最初のダンスを」
お声は静かで、けれど、ホール中に聞かせるための公的な張り方ではなかった。
シャルが浅く膝を曲げて礼をした。
「殿下、光栄ですわ」
二人の手が、ホールの灯りの下でひとつに合わさった。
* * *
楽団の最初の音が立ち上がった。
ゆるやかな三拍子。学園祭の舞踏会の慣例の、若い貴族たちのための最初の曲だった。
シャルとレオンハルト殿下が、ホールの中央でひとつめのステップを踏み出した。
誇り高い令嬢の背筋と、王太子の肩の高さがちょうど合う。シャルの銀のドレスが、回るたびに灯りを受けてほのかに鳴るような揺れ方をした。シャルの足元はわずかも乱れない。十二歳から、彼女はこの夜のための作法を仕込まれ続けてきた。
けれど、それだけではなかった。
彼女の腕を取る殿下のお顔が、今夜は別人のように、ひとりの男性のお顔をしていた。
二人が二回目のターンを終えた時、殿下のお声がシャルの耳のあたりに低く落ちた。私は壁際に身を寄せていたので、たまたまその位置からは、お声の温度だけは伝わってきた。
「君は、本当に美しい」
シャルの背筋が、ほんのわずかに止まった。
誇り高い令嬢の踊りが、ステップの間でひとつだけ、息を呑んだ。
「殿下……お言葉、ありがとうございます」
お声がほんの少しだけ震えそうになるのを、彼女は最後の最後で持ち直した。
「いや」
殿下が首を小さく振られた。
「社交辞令ではない。本心だ」
シャルが息を呑む音が、私の位置からは聞こえなかった。
けれど次のターンで彼女の銀の睫毛がほんのわずかに下がった、その動きで、私には全部分かった。
周囲の生徒たちが、二人の様子に気付き始めた。
「殿下とシャルロッテ様、いつもと様子が違うわ」
「ええ、本当の婚約者みたい」
「あんなふうに見つめ合っていらっしゃるところ、わたくし、初めて見ますわ」
囁き声がホールの灯りの隙間に薄く広がっていく。
二人の距離は、十二歳の婚約以来、たぶんいちばん近かった。
* * *
別のステップの音が立ち上がる前に、ホールの少し離れた位置で、白い学園服に近い色合いの上着を着た青年がセラフィータさんに歩み寄っていた。
テオドール様だった。
彼は神学科の聖職者見習いのお召し物そのままで舞踏会に出ておられて、それが彼の場違いさを生むのではなく、かえって彼の輪郭の穏やかさを際立たせていた。
「セラフィータさん」
テオドール様のお声は、ホールのざわめきよりも一段、低くて柔らかかった。
「もしよろしければ、私と踊っていただけますか」
「テオドール様」
セラフィータさんが顔を上げた。
「ぜひ」
彼女は答えに迷いを置かなかった。
二人の手が合わさり、ホールの少し奥の方で、ゆっくりと踊り始めた。
テオドール様のステップは熟練ではない。けれど、セラフィータさんに合わせるための慎重さが、その不慣れさを優しさに変えていた。彼女の足取りは軽く、二人の影が灯りの下でひとつぶんの静かなかたちを描いた。
「テオドール様のお声、踊っているとよく聞こえます」
セラフィータさんが小さく言った。
「楽団のお音より、テオドール様のお声の方が、わたしには近いんです」
「あなたの足取り、軽やかですよ」
テオドール様も短く返した。
「私の方が、合わせてもらっています」
「いいえ。テオドール様の歩幅が、わたしの呼吸の高さに合っていますから」
セラフィータさんがほんの少しだけ笑った。
彼女のお声の中で、私にはひとつだけ、はっきりと聞こえるものがあった。
彼女はテオドール様のお気配を踊りのあいだずっと全身で感じ取れていて、その感じ取ることだけで、彼女の中の何かが満ちていた。お顔のかたちを正確に覚えなくても、お声と気配さえあれば、彼女はその人と確かに踊れる。
* * *
二曲目の前奏が始まろうとしていた時、私の隣に、白銀の影が立った。
「ラインフェルト嬢」
ヴィルマール様だった。
今夜は警備の正装で、ふだんの軍靴に近い革底ではなく、もう少し音の柔らかい靴を履いていらした。剣は腰に佩いておられるけれど、ホールの灯りの下では、その剣も儀礼の輪郭の中に収まっていた。
「ヴィルマール様、お疲れさまです」
「警備中だが」
彼は淡々と続けた。
「一曲だけ、お相手を頼みたい」
私は半歩ぶん、笑いそうになった。
「あら、警備中なのに、よろしいんですの?」
「警備の一環だ」
絶対に違うでしょう。
って、何回目この台詞かしら。
私は心の中だけで小さく息を吐いて、それから、彼の差し出された手に自分の手を重ねた。
ヴィルマール様のステップは、思っていたよりずっとしっかりしていた。
貴族子弟の正規の作法そのままで、迷いがなく、けれど私の歩幅を見て、半歩ぶん狭めるのも忘れない。先日の月明かりの廊下と同じ呼吸の作り方だった。
「意外、お上手なのね」
「貴族子弟の嗜みだ」
「そうですわよね。会話もそれと同じくらいお上手だったら、もっと素敵なのに」
ヴィルマール様のステップが一拍だけ詰まった。
私はクスッと笑ってしまった。
ホールの中央ではシャルと殿下が二曲目に入っていて、その視界の隅で、ヴィルマール様と私もゆっくり回っていた。
彼が踊りながら、お声を低くした。私だけに届く高さで。
「ラインフェルト嬢」
「はい」
「警備中だが……あなたを見ていて、思い出していることがある」
「思い出していること?」
私はちらりと彼を見上げた。
ヴィルマール様は前を見たまま、お顔の表面はいつもの無表情だった。けれど目の奥に、ふだんは見ることのない、子どもみたいな迷いの温度が一瞬だけ通った。
「いや」
彼が首を浅く振った。
「まだ、言わない」
「あら」
「俺の中で、確信が持てるまで、言えない」
お声は静かで、誠実で、急いでいなかった。
私は彼の前で踊り続けながら、自分のお胸の奥がほんの少しだけ熱を持つのを感じた。
この人、何かを長く抱えてきた人だ。
その「何か」が、いま、私を相手にして輪郭を取り戻そうとしている。それを彼自身が、慎重に、確信が持てるまで自分の中で温めようとしている。
決められた未来の地図に、この人のこの種類の抱え方は、一行も書かれていなかった。
* * *
シャルとのダンスを終えたレオンハルトは、ホールの壁際に下がって息を整えていた。
心臓の位置で、ふだんは静かなはずの拍が、まだ少し早く打っていた。
シャルロッテ嬢に「本心だ」と告げた瞬間の、彼女の睫毛の動きが、まだ目の中に残っている。あの瞬間に、彼の中でひとつ、これまで「公爵令嬢らしい」という名前で片付けていた距離が、確かに半枚剥がれた。
彼は自分の中の温度を整えるために、ホールの全体に視線を流した。
白いお召し物の青年と、白い清楚なドレスの少女がゆっくり踊っているのが見えた。テオドールとセラフィータだ。二人ぶんの動きが穏やかでひとつになっていて、レオンハルトは無意識のうちにわずかに頷いた。あの二人は、あれでいい。
そして視線が、ホールの別の位置に止まった。
白銀の警備の正装と、緑のドレス。
ヴィルマールと、ラインフェルト嬢。
ヴィルマールが、踊りながら、笑っていた。
あの堅物が、笑っている。
ヴィルマールが声を立てて笑うところを、レオンハルトはもう何年も見ていなかった。剣の鍛錬の場でも、警備の引き継ぎの席でも、彼の口元はいつも最低限の動きしかしなかった。それが、いま、踊りの相手に短く何かを返しただけで、お顔の輪郭の中にひとつ、明らかな緩みがあった。
ラインフェルト嬢に、ヴィルマールは惹かれているのか。
レオンハルトはその問いを、自分でも意外なほど、すぐに自分の中に置いた。
別に、私には関係ない。ヴィルマールの私生活だ。
彼は半歩ぶん、自分にそう言い聞かせた。
言い聞かせてから、もう一度、ホールの別の方向に視線を逃がそうとした。
しかし視線が、二人の組に、もう一度戻った。
なぜ私は、二人の姿を確認するように見ているのか。
ラインフェルト嬢は、シャルロッテ嬢の親友だ。それだけだ。
ヴィルマールが、彼女と踊ろうが、笑おうが、私には関係ない。
私が今、隣にいるべき相手は、シャルロッテ嬢だ。今夜、私が「本心だ」と告げた相手は、シャルロッテ嬢だ。それで、十分だ。
レオンハルトは、自分でも分かるほど慎重に、視線をシャルロッテ嬢の方へ戻した。
彼女はホールの隅で、班の生徒たちに静かに声をかけられていた。誇り高い令嬢のお顔のまま、けれど先ほどの踊りの余韻が、まだ頬の薄い赤みとして残っている。
そう、私が見るべきは、あの方だ。
レオンハルトは胸の中の温度をひとつ深く呼吸し直して、もう一度、シャルロッテ嬢の方へ歩き出した。
* * *
ホールのいちばん奥、壁際の柱の陰に、黒髪を結い上げた美貌の少女が立っていた。
エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢。
彼女は今夜、深い赤のドレスを纏っていた。優美な微笑みは唇に整えられているけれど、目だけが、ホールの灯りの下でも明らかに笑っていなかった。
彼女の視線が、ホールの三つの位置を順になぞった。
まず、シャルロッテと殿下。
次に、セラフィータとテオドール。
最後に、ティータとヴィルマール。
シャルロッテ様と殿下の距離、許せない。
あの平民の少女と、聖職者見習いも、こんなに親しげに。
わたくしを誰も見ていない。誰一人。
エヴェリンの白い指が、ドレスの脇の布地を、ほんのわずかにつまんだ。爪の先が、絹を引っかける小さな音を立てた。
シャルロッテ様、あなたが幸せそうな顔をするほど、わたくしの心は黒くなる。
唇の優美な微笑みは崩れない。それを崩さない訓練を、彼女は十一歳の頃から積んできた。崩れない微笑みの内側で、彼女の中の何かが、ホールの灯りに照らされた位置で、ゆっくりと固まっていく。
その視線を、私は踊りながら捉えた。
エヴェリン様。
その目、覚えておくわ。
あなたの中で、何かが今夜、ひとつ固まったのね。
私はステップの拍ひとつぶん、視線を彼女の方へ留めた。エヴェリンも、私の視線に気付いた。彼女が微笑みのかたちのまま、ほんの数瞬、私を見返した。
ホールの灯りを挟んで、私とエヴェリンの視線が確かに繋がった。
* * *
二曲目の終わりに、ヴィルマール様が深く一礼した。
「ありがとう、ラインフェルト嬢」
「ヴィルマール様こそ。お上手なダンス、ありがとうございました」
彼は警備の位置に戻るために、ホールの脇の通路へ歩いていった。背筋は警備の構え、けれど歩幅は先ほど私と合わせていた長さのまま、半歩ぶん短いままだった。
私はホールの中央近くで、シャルとセラフィータさんを探した。
二人は、ホールの隅の小さな卓のところで、お互いに笑い合っていた。
「ティー」
「シャル、セラフィータさん」
私は二人の方へ歩み寄った。
シャルが、頬の薄い赤みをまだ消せないままで、私に向かって小さく息を吐いた。
「ティー、わたくし、今夜のことを、たぶん一生忘れないわ」
「うん。シャル、よかったわね」
「ティータさん、テオドール様と踊れて、本当に幸せでした」
セラフィータさんが穏やかに微笑む。
「踊っているあいだ、テオドール様のお気配が、ずっと、わたしの隣でひとつになっていました」
「セラフィータさん、二人のダンス、とても綺麗だったわ」
三人で短く笑い合った。
ホールの楽団は次の曲に入っていて、別の組の生徒たちがホールの中央で踊り始めていた。私たちはその外側で、卓のひとつを囲んで、お互いの今夜の温度を確かめ合った。
決められた未来では、この三人がこんなふうに笑い合う夜は存在しなかった。
今夜のこの灯りの下のひと組は、私のノートにはなかった頁だ。
* * *
舞踏会の楽団はまだ続いている。
けれど私たちの夜は、ひとまずここで一段落だった。
シャルが小さくあくびを噛み殺し、セラフィータさんが祈祷部門の片付けがまだ残っていると小さくお話しした。私もそろそろノートに今夜のことを書きつけたかった。
三人で大ホールの脇の控室まで歩いて、上着を取って、夜の風の通る外回廊へ出た。
学園の中庭に、月が高く上がっていた。
あの月明かりの廊下の夜と、たぶん同じ月だった。
今夜は、何も起きなかった。
舞踏会の最中に、エヴェリンの動きが具体的なかたちを取ることはなかった。けれど、ホールの灯りを挟んで彼女と視線が繋がった、あの数瞬は、本物だった。
あの目は、近いうちに、必ず次の段階に進む。
私は心の中で、自分の手の中の温度を確かめ直した。
あなたの動きを、私は見逃さない。
今夜、シャルが「本心だ」と告げられて、頬を薄く赤らめた。セラフィータさんがテオドール様の気配にひとつぶん全身を満たしていた。私の隣で、月明かりの廊下と同じ歩幅を保つ人が踊ってくれた。
その全部を、私はもう知っている。
もう知っている以上、もう、誰にも奪わせない。
エヴェリン様。
覚悟なさいませ。
私は、シャルを絶対に渡しませんわよ。
外回廊の柱越しに、ホールの灯りがまだ煌々と漏れていた。
その灯りの内側で、エヴェリンの赤いドレスが、ちょうど今夜の最後の角を曲がっていくのが、ちらりと見えた気がした。




