第12章 輪郭
学園祭の翌日、空は薄く曇っていた。
訓練場の砂が、いつもより少しだけ重い。前日の夜半に通り雨が降って、白い砂の表面が薄く湿気を吸ったままだった。踏み込みのたびに、砂が乾いた時より一段沈む。
ヴィルマール・ファルケンハインは、夜明け前から訓練場にいた。
木剣の素振りを、すでに二百を超えて続けていた。普段なら百で切り上げる。今日はその倍を、自分でも理由を確かめないままに、振り続けていた。
二百一の素振りで、ようやく腕の中の何かが落ち着いた。
彼は剣の動きを止め、息を整えてから、訓練場の隅の石段に腰を下ろした。胸の前で木剣の柄を握り直す。腕の筋繊維のひとつひとつが、軽く熱を持っていた。
昨夜、彼は眠れなかった。
大ホールの灯りの下で、ラインフェルト侯爵令嬢ティータの手を取って踊った。曲が二度回るあいだ、彼は彼女の歩幅と自分の歩幅を確かに合わせていた。半歩ぶん短い歩幅、月明かりの廊下と同じ歩幅。
昨夜の踊りは、半歩ぶん短い歩幅に合わせるためのものではなかった。
俺は、彼女の手の握り方を、確かに知っていた気がしたのだ。
石段の上で、ヴィルマールは木剣を膝の前に立てた。
握り方、というのが正確だった。
ダンスの最中、ラインフェルト嬢の右手は、彼の左手のひらに乗っていた。儀礼的な手の置き方であり、踊りの作法そのものだった。指の力は弱く、けれど不安げに浮いてはいない。手のひら全体で受けるのではなく、指の付け根のあたりで体重をひと粒ぶんだけ預ける、丁寧で控えめな置き方。
その置き方を、彼はかつてどこかで見た。
* * *
夜明けの光が、訓練場の白い砂を斜めから舐め始めた。
ヴィルマールは目を閉じ、十一年前の景色を、もう一度上から下まで丁寧に再生した。
貴族子弟の春の社交場。二階の客間の窓辺。窓の下に広がる、屋敷の庭。
白に近い淡い桜の花。
その下で、銀色の髪の少女が泣いていた。
彼女の前に、栗色の髪の少女が立っていた。栗色の少女は、銀の少女の手を握っていた。
ここまでは、ずっと覚えていた。
窓越しに見えていたのは、手と手だった。栗色の少女の指は、銀色の少女の指を、上から包んで握っていたのではなかった。下から、てのひら全体で迎えるのでもなかった。指の付け根のあたりで、銀色の少女の小さな指を、半分だけ受けていた。
残り半分は、銀の少女自身が握り直せるように、わざと空けていた。
幼いヴィルマールには、その握り方の意味を言葉にできなかった。
ただ、彼はその握り方の形だけを、目に焼き付けた。手のひら全体で奪うように握る大人の手と、まったく違っていた。栗色の少女の指は、相手の指の戻り方を、ずっと待つかたちで止まっていた。
目を開ける。
昨夜の大ホールの灯りの下、ラインフェルト嬢の指が、彼の左手のひらの上で、まさにそのかたちに止まっていた。
ヴィルマールは、もう一度、深く息を吐いた。
顔の輪郭。目の色。髪の艶。十一年は人の輪郭を変える。少女の頬の丸みは消え、髪は色を深める。それらの一致を、彼は決定的な証拠にはできないままここまで来た。
しかし手の握り方は変わらなかった。
あの庭で銀の少女の指を半分だけ迎えていた幼い手と、昨夜の踊りで彼の左手のひらに同じだけ預けられた手は、同じ位置で止まっていた。
俺は確かに、十一年前のあの少女を、いま知っている。
目の前にいる。
* * *
石段の上で、ヴィルマールは木剣を立てたまま、長く動かなかった。
彼は剣の道に進むことを五歳のあの春に選んだ。あの庭で見た、身分も社交場の見栄も気にせず一人の少女の手を握っていた、もう一人の少女の姿。それを目の奥に焼き付けて、自分は誰かを身分や見栄ではなくその人として支える側に回りたいと、子どもの胸の中で決めた。
その出発点が、いま、目の前で動いている。
ヴィルマール・ファルケンハインは、自分の出発点と再会したのだった。
ただし、その再会は、彼の中で簡単に「告げてよい話」にはならなかった。
俺は、あなたを十一年前から知っている。
あの庭の少女は、あなただ。
俺の剣の出発点は、あなただった。
胸の中で、その言葉は何度も形になった。
形になるたびに、彼は同じ場所で言葉を引き戻した。
いま、その言葉を彼女に渡すのは違う、と思った。
昨夜のホールの隅で、エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢の優美な微笑みの裏側にあった視線を、彼も警備の位置から確かに見ていた。あの視線は近いうちに具体的な何かの形になる。ラインフェルト嬢が、シャルロッテ嬢を守るためにいちばん集中しなければならない時期がいま近づいている。
その時期に、自分の十一年前の話を持ち込むのは彼女の集中を削ることになる。
俺の出発点の話は、俺の都合だ。
彼女の戦いの邪魔をしてはいけない。
胸の中の言葉を、彼はそこでいったん納めた。
納めたうえで、別の言葉を、自分のために置き直した。
俺は彼女を守る。彼女がシャルロッテ嬢を守るように、俺は彼女を守る。これは警備上の任務ではない。俺の意志だ。
石段の上で、ヴィルマールは木剣の柄を握り直した。
夜明けの光が、訓練場の白い砂の上に、彼の影を一本だけ細く伸ばしていた。
* * *
石段から立ち上がる前に、彼は懐から一通の封書を取り出した。
昨日の午後、家令の手で届けられた、父ファルケンハイン伯爵からの私信だった。
封蝋には、見慣れた家紋。
ヴィルマール・ファルケンハインは、訓練場の砂の白さの中で、その封書を一度だけ開いて、父の筆を目で追った。
近頃、私はおまえに、ある令嬢の話を勧めようと思っていた。次男であるおまえの将来を整えるための、家同士の話だ。しかし、おまえの叔父からの便りで、おまえが学園で別の方をすでに見定めている様子だと聞いた。家としては、おまえの目を尊重する。ただし、騎士見習いの身分のうちは、相手のお家にも、ご本人にも、軽々しい話を持ち込んではならない。
筆跡は厳しいが、文末はわずかに緩んでいた。
「軽々しい話を持ち込んではならない」のあとに、「相手のお方のいまの戦いを、まずは見極めよ」と一行、簡潔に書き添えてあった。
ヴィルマールは、その一行を、二度読み返した。
父は、五歳の彼を社交場に連れていった人だった。
あの春の社交場の二階の客間で、自分の長子ではない次男が窓辺に逃げ込んだことを、父は気づいていたはずだった。それから十一年、父は彼の進路について、ほとんど何も口を挟まなかった。剣の道を選んだ時も、騎士見習いの試験を受けた時も、父はただ家紋入りの剣を一本だけ送ってきた。剣に添えた書状にあったのは、「おまえの選んだ道だ」の一行だけだった。
今回の便りで、父は初めて、彼の十一年の歩みの輪郭を撫でていた。
ヴィルマールは封書をきちんと畳み直し、もう一度懐に納めた。
父の一行が、彼の中の決意の縁を、確かに整えた。
言葉を渡す日を、急がない。
彼女のいまの戦いを、まず見極める。
その上で、自分の十一年の話を渡す。
それまでは、半歩後ろに立つ。
* * *
彼が再び訓練場の中央に立とうとした時、訓練場の入口の方に、軽い足音が近づいた。
ヴィルマールが視線を上げる。
栗色の髪を編み込んだ少女が、学園の制服のままで、訓練場の囲い越しに立っていた。
「ヴィルマール様」
ラインフェルト嬢の声だった。
昨夜の大ホールの音楽の名残を、まだほんの少しだけ含んだ声ということに、彼は今朝になって初めて気づく形になった。
「ラインフェルト嬢」
彼は半歩、囲いの方へ歩み寄った。
朝の白い光の中で、彼女は少しだけ目を細めていた。早朝の風が、栗色の髪の毛先を、ほんのわずかに揺らした。
「こんなに早朝に、訓練?」
「ああ」
「学園祭の翌日くらい、お休みかと思っていたのだけれど」
「動いていた方が、整う」
短い返し。
ラインフェルト嬢は、その答えに小さく頷いた。それから、彼の表情を一度だけ正面から見て、首を少しだけ傾けた。
「昨夜より、お顔が、少し穏やかね」
「そうか」
「ええ」
「……あなたが、そう見るなら、そうだろう」
彼は、口の中で、その言葉が出た瞬間にわずかに自分でも驚いた。
いつもの簡潔な返しから、半歩だけ柔らかい方へずれていた。彼女の観察の精度を信じる、ということを、自分の言葉で認めていた。
ラインフェルト嬢は、そのずれを聞き分けたらしかった。
彼女は囲いの上にそっと指先を置いて、視線を訓練場の砂の方へ流した。
「ヴィルマール様」
「何だ」
「先日、廊下で、私のことを『どこかで見たことがある気がする』とおっしゃっていたわね」
ヴィルマールの肩が、ほんの一拍、止まった。
「ああ」
「あれ、思い出されました?」
彼女の声は、廊下で訊いた時と、ほとんど同じ温度だった。
責めも、誘いもない。彼の答えがどちらでもいい、という余裕のある問い方。
ヴィルマール・ファルケンハインは胸の中で、いったん納めた言葉の上から、もう一度ふたを置いた。
「いや」
「そう」
「まだ、はっきりとは」
「焦らないで、ヴィルマール様」
彼女は微かに笑った。
「思い出された時に、教えてくださいませ」
「ああ」
「私の方も、その時に、ちゃんとお聞きしますわ」
短い会釈。
それから、彼女は訓練場の囲い越しに、もう一度だけ彼の方を見た。藍色の制服に砂の薄い汚れがついているのを、彼女の視線が確かめるように一度だけ撫でた。
「お怪我のないように」
「ああ」
ラインフェルト嬢は、踵を返し、寮への道を歩いていった。
栗色の髪が、朝の光の中で、一歩ごとに揺れた。
ヴィルマールは囲いの傍に立ったまま、その背中を、見えなくなるまで見送った。
* * *
訓練場の中央に戻り、彼は木剣を構え直した。
二百二本目の素振りが、白い砂の上に落ちる。
俺が、十一年前のあの庭の少女と再会したことを、彼女に告げる日は、いつか必ず来る。
ただ、いまではない。
いま俺がやることは、彼女が戦う場所で、彼女の半歩後ろに立つこと。エヴェリン令嬢の動きが具体的な形になった時に、いちばん近い位置から、彼女の戦いを支えること。
その時期を、俺は、剣の手入れと足の運びを整えて待つ。
二百三本目。
砂の上に、彼の影が、夜明けの光とともに一段ぶん長くなった。
* * *
ラインフェルト嬢が訓練場の囲いを離れて、寮への廊下を歩きながら、私は自分の足がいつもよりほんの少しだけ軽いことに気づいていた。
ヴィルマール様のお顔が、昨夜より、確かに穏やかだった。
夜半に何か、彼の中で、いっこ片付いたのかもしれない。
廊下の窓越しに、訓練場の白い砂が見えていた。藍色の制服の影が、もう一度だけ、砂の上を縦に切るように動いた。彼が新しい素振りを始めたのだと、私には音を聞かずとも分かった。
私の地図にない人が今朝も、私の知らない場所で、自分の理由で動き始めている。
その動きの輪郭は、私にはまだ全部は見えていない。けれど、輪郭の向きだけは、もう確かに分かる。
彼の動きの向きは、私の方を向いている。
寮の自分の部屋に戻る前に、私は廊下の窓辺で一度だけ立ち止まった。
学園祭は、無事に終わった。
エヴェリン様の動きは、これから本格的な形を取る。私の戦いはこれからだ。
その戦いの中で、私の半歩後ろに、藍色の制服が立つ気配を、私はもう想定に入れていた。
彼の理由を、私はまだ全部知らない。
知らないままで、その気配を半歩後ろに置いて歩くということを、今朝の私は初めて自分に許していた。
学園の中庭の朝の風が、廊下の窓を薄く撫でた。
私は窓辺から離れ、寮の自分の部屋へ向かった。




