表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/20

第13章 気配

 学園祭から、数日が経った。

 学園の庭園では、入学の頃にはまだ蕾だった春の花の最後の色が、初夏の光のなかで一段深くなっていた。芝生の上を渡る風が、わたしの祭服の裾をふっと一度持ち上げた。

 わたしは神学科の課題の本を抱えて、庭園の小径を歩いていた。

 午後の祈祷の前に少しだけ風に当たって、人気のないところで本の最後の頁を読み終えてしまおうと思っていた。図書館の革と紙の匂いのなかでずっと本を読んだ後だったので、外の空気が肩の奥のあたりまで気持ちよく入ってきた。

 小径の角を曲がった、その時だった。

「セラフィータさん」

 声がかけられた。

 優しい声だった。

 優しい声、と感じたのと同時に、わたしの胸の奥のもっと深いところで別の何かが薄く滑った。

 顔を上げる。

 春の薔薇の生垣の前に、深い赤を一筋だけ襟元に挿した黒髪の麗しいご令嬢が立っていらした。

 エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢。

「エヴェリン様」

 わたしは祭服の裾を整え、深く一礼した。

「ご機嫌麗しゅう」

「ええ、ご機嫌麗しゅう。少しだけ、お時間をいただけますか」

 優美な口元、整った微笑み。

 お声の表面は本当に丁寧で、優しい。

 けれどお声の奥から、わたしの胸の方へ、薄く冷たい何かが流れ込んでくる。冷たさそのものではない。冷たい何かを優しい声でくるんで届けようとする時の、独特の気配だった。


 * * *


「シャルロッテ様のことで、お伝えしたいことがあるの」

 エヴェリン様が、扇を膝の前で軽く開く。優しいお声のまま、ゆっくりと言葉を継がれた。

「セラフィータさん、あなた、シャルロッテ様にとても親しくしていただいているでしょう」

「はい。いつも温かいお声をかけていただいて」

「そう。シャルロッテ様は、お優しい方ですわ」

 扇の縁が、エヴェリン様の口元を半分だけ隠した。

「ただ、わたくし少しだけ心配しておりますの」

「心配……ですか」

「シャルロッテ様、あなたのことをご自分のお立場のためにお使いになろうとしておられるかもしれない、と」

 わたしの胸の奥で、冷たい何かがもう一段はっきりとした。

 エヴェリン様のお声は、優しいままだった。表情も、わたしを案じる優美な憂いをきちんと整えていらした。けれどお言葉の一つ一つが、わたしの胸の中で受け取られる瞬間に、お言葉の表面の温度とまったく違う温度の何かを置いていく。

「殿下のお側にあなたを近づけて、ご自分の評判を整えていらっしゃるのではないか、と」

「……」

「お気をつけになって。本物のお優しさの中にも、どうしてもご自分のお立場が混ざります。それは貴族のお宿命のようなものでして」

 わたしは目を伏せていた。

 お言葉を、お顔ではなくお声と気配の方で受け止めるための姿勢だった。

 エヴェリン様のお声が、わたしの胸の中で二つの温度に分かれてゆく。

 お声の表面――――誠実、優しさ、案じる気持ち。

 お声の奥――――冷たい、はっきりとした、悪意。

 二つの温度の差がこれほどまではっきりと分かれてお声に乗ったのは、わたしの十六年の中で初めてのことだった。

 これは嘘の気配だ、と、わたしは胸の中で言葉にした。

 嘘というよりも、もっと強い、誰かを傷つけるためにそろえられた言葉の気配。

 慎重に、お顔は伏せたまま、わたしはお返事を整えた。

「エヴェリン様のお気遣いを、心からお受けいたします」

「ええ」

「少し、考えさせてくださいませ」

「もちろん。あなたは賢いお方ですもの。ご自分でお考えになるのが、いちばん」

 扇がゆっくりと閉じられた。

 エヴェリン様は最後にもう一度わたしへ優美な微笑みを残して、薔薇の生垣の方へ歩いていかれた。深い赤の襟元が、生垣の濃い緑のなかへゆっくりと溶けていく。

 その背中が見えなくなってから、わたしはようやくゆっくり顔を上げた。

 息を、深く吸う。

 胸の中に残った冷たい気配は、エヴェリン様がその場を離れた後もしばらく薄く揺れていた。


 * * *


 寮の自分の部屋に戻って、わたしは長椅子の上で膝を抱えた。

 夕方の光が、窓の硝子越しに、机の上の本にだけ斜めに当たっていた。

 わたしは、シャルロッテ様の何を知っているの。

 胸の中で、自分にそう問うた。

 お声。誇り高くて少し硬くて、その奥にいつも温かさがある。ティータさんとお話しになる時は、表面の硬さが半分ほど溶けてもう一段奥の柔らかさが上がってくる。わたしにお声をかけてくださる時は、その柔らかさの半分くらいが、わたしの方に分けてくださる温度で届く。

 お気配。誇り高さの内側に、ずっと静かに保たれている孤独。ご家族から大切な役目を背負わされた重みを、お一人で持って立つお姿の気配。けれどその気配は、誰かを傷つけたい気配では決してない。

 お笑いになる時の小さな息。軽い、けれど本物の、その人の中心から出てくる息。

 その三つを、わたしは確かに感じてきた。

 エヴェリン様のお声の奥にあった気配は、シャルロッテ様のお声の奥にある温かさとは別の方向の気配だった。同じ「整えられたお声」でも、整えている向きがまったく違う。

 わたしは長椅子の上でゆっくり目を閉じた。

 わたしには、お言葉の正しさを論じることはできません。

 けれど、お声とお気配の方向を、わたしは確かに受け取っている。

 わたしは、わたしが感じた温かさを信じます。

 その一文だけを、胸の中で形にした。

 胸の中に残っていた冷たい気配が、ようやく少しずつ薄れていった。


 * * *


 翌朝、わたしはティータさんの寮室を訪れた。

 ティータさんは机の上のノートを閉じて、わたしを迎えてくださった。

「セラフィータさん、おはよう」

「ティータさん、おはようございます。少し、お時間いただけますか」

「もちろん」

 ティータさんは、わたしを長椅子に座らせ、ご自分は机の椅子をこちらに向けて腰かけられた。

 わたしは昨日の庭園のことを、お声の温度まで含めて丁寧にお話しした。エヴェリン様の優しいお声、扇の動き、お声の奥の冷たい気配。

 ティータさんはずっと黙ってわたしのお話を聞いてくださった。

 お話が終わると、ティータさんは静かに息を吐いた。

「セラフィータさん」

「はい」

「あなたがエヴェリン様のお声の奥の冷たさを、最初の数秒で受け取ってくれた。それは本当に大きなことよ」

「ティータさん」

「わたしの大切な親友のことを、お言葉の表面だけで判断しないでくれてありがとう」

 ティータさんが長椅子の方へ立ち上がられ、わたしをそっと抱きしめてくださった。

 わたしはティータさんの腕の中で、もう一度息を整えた。

「ティータさん、わたし、シャルロッテ様のお気配が、好きなんです」

「うん」

「お声と、お気配の中の温かさと、お笑いになる時の小さな息」

「うん」

「それが、わたしの感じているシャルロッテ様です」

「セラフィータさん、それで十分すぎるくらい十分」

 ティータさんは、わたしの背中をやさしく一度だけ撫でてから、少し体を離してわたしの方を正面から見られた。

「エヴェリン様は、いま、シャルロッテ様を傷つけようとなさっているの。あなたを、その動きに使おうとなさった」

「やはり、そうでしたか」

「あなたが感じた通りよ。これからしばらく、エヴェリン様からお声をかけられても、ご自分の感じた気配のとおりに動いてね」

「はい、ティータさん」

 ティータさんは、机の上のノートをそっと指で撫でた。

「あなたの感受性が、わたしの観察と同じ方向を向いている。それは、すごく大きな力になる」

 ティータさんのお声が、誇り高い令嬢のお声からお友達のお声へと、ふっと一段下りた。

「ありがとう、セラフィータさん」


 * * *


 寮室を辞したあと、わたしは祭服の上着を整え、王立教会の小聖堂へ向かった。

 神学科の祈祷室でも祈りを捧げる場所はある。けれど今日は、自分の足で、もう少し遠くまで歩きたかった。胸の中で受け取ったエヴェリン様の冷たい気配を、神様の前で一度ちゃんと整えてから、明日からの自分の足取りを置き直したかった。

 学園の門を出て、教会への小径を歩く。

 夕方の光が、小径の脇の白い花を薄く金色に染めていた。

 小聖堂の扉を押すと、ステンドグラスの光がいつもの場所に、いつもの色で落ちていた。

 長椅子は空いていた。

 わたしは祭服の裾を整えて、いちばん奥の長椅子に膝をついた。両手を胸の前で合わせる。

 神様。

 わたしの大切な方々をお守りください。

 シャルロッテ様、ティータさん、お父様、お母様、テオドール様。

 今日、わたしの胸に冷たい気配を置いていかれた方も、その方の心の奥に、本当はどこかで誰かに見ていただきたいだけの場所があるのなら、その場所もいつかどなたかが見つけてくださいますように。

 長い祈りだった。

 祈りを終えて、長椅子から立ち上がろうとした、ちょうどその時だった。

「セラフィータさん」

 穏やかなお声がステンドグラスの光の方からかけられた。

 顔を上げると、テオドール様が長椅子の通路の端に立っておられた。祭服の黒の上に、夕方の金の光が薄く乗っている。


 * * *


「テオドール様」

「お祈りの邪魔をしてしまいましたか」

「いいえ。ちょうど終わったところです」

 テオドール様が、わたしの隣の長椅子に少しだけ距離を空けて腰を下ろされた。

 わたしも長椅子に戻って腰を下ろす。

 ステンドグラスの青と金の光が、長椅子の床に、二つの色の細い帯を斜めに引いていた。

 しばらく、二人とも黙っていた。

「テオドール様」

「はい」

「わたし、今日、人の悪意の気配を強く受け取ってしまいました」

「そうですか」

「優しいお声の奥に、はっきりとした冷たさが流れていて」

 エヴェリン様のお名前を出すのは、いまここではよくない気がした。お名前を出さなくても、テオドール様にはわたしの受け取り方の輪郭が伝わる気がした。

「お言葉では分からないものを、わたしはお気配で先に受け取ってしまうんです」

「ええ」

「それを信じていいのか、迷うことがあります」

 テオドール様がゆっくりと、ステンドグラスの方へ視線を流された。

「セラフィータさん」

「はい」

「あなたの感受性は、世界の温度をお言葉より先に受け取る力です」

 テオドール様のお声は、初めて小聖堂でお会いした時と同じ穏やかさで、わたしの胸に届いた。

「お言葉は、人が後から整えるものです。お気配は、人が整える前のものです。あなたは、整える前の音をまっすぐに聴き取れる」

「テオドール様」

「あなたが受け取った冷たさは、その方が後から整えたお言葉よりも、もっと先に出てきていた音です。あなたは、お言葉が整う前の方を信じてよい」

 わたしは両手を膝の上に重ねたまま、テオドール様のお声を胸の奥まで通した。

 胸の中に残っていたエヴェリン様の冷たい気配の余韻が、もう一段薄くなった。

「わたしには、あなたの感受性の負担をすべて肩代わりすることはできません」

「テオドール様」

「ただ、お隣にいることは、できます」

 テオドール様のお声が、わずかに低くなった。

 お言葉の表面ではなく、お言葉の奥のお気配の方が、わたしの方へ確かに半歩近づいた。

 わたしはテオドール様の方を見上げた。

 ステンドグラスの青の光が、テオドール様の祭服の襟元に薄く落ちていた。

「お隣にいてくださるだけで、わたし、十分です」

 わたしのお声が、自分でも少しだけ震えた。

 テオドール様が微かに微笑まれた。

「わたしも、あなたのお隣にいると、心が穏やかになります」

 長椅子の上で、わたしの右手が膝の上にそっと置かれていた。

 テオドール様の左手が、ご自分の膝の上で同じように静かに置かれていた。

 二つの手は、長椅子の上で触れない距離で並んでいた。

 ステンドグラスの光がその距離の上を、青と金の二色で薄く渡っていた。

 触れないままで、わたしの胸の奥のひとつぶん、テオドール様の方へ近づいた。


 * * *


 小聖堂を出ると、夕暮れの光が、教会の前庭の石畳の上で長く伸びていた。

 テオドール様は、教会の門のところまでわたしを送ってくださった。

「セラフィータさん」

「はい」

「お気配で受け取った冷たさを、お一人で抱えないでください」

「はい、テオドール様」

「いつでも小聖堂にいらしてください。わたしも、神様も、あなたのお声を待っています」

 テオドール様は、わたしに深く一礼してくださり、それから祭服の裾を整えて教会の中へ戻られた。

 わたしは門のところで、しばらくそのお姿を見送った。

 石畳の上で、夕暮れの光がわたしの足元のすぐ前まで伸びていた。光の縁がわたしの靴の先までちょうど届いていた。

 わたしはその光の縁を踏まないように、半歩だけ横に足を引いた。

 胸の中で、もう一度お祈りを置く。

 神様。

 シャルロッテ様、ティータさん、テオドール様。わたしの大切な方々をお守りください。

 わたしも、わたしにできることをします。

 お気配で嘘を見抜きます。

 お言葉では言えないものを、わたしは確かに聴きます。

 夕暮れの光のなかで、わたしは教会の門を背に、学園の方へゆっくり歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ