第14章 手紙
学園祭から、二週間が過ぎた。
一年生最後の学期に入って、学園の空気は少しずつ変わり始めていた。新入生の頃の手探りの落ち着かなさは、もうどこにもない。誰がどの教室を使い、誰がどの廊下を通り、誰がどの時間に図書館にいるか。私たちは、学園の地図をようやく自分の足の裏で覚えた頃合いだった。
その地図のなかで、エヴェリン様の足音が、いつもと少しずつ違う場所で立つようになっている。
昼休みの中庭、いつもなら取り巻きを連れて噴水の傍に立つはずの時間に、いない。寮の廊下、すれ違いざまに見せていた優美な微笑みが、ほんの数秒だけ遅れる。お茶会の常連の名前が、最近の招待状から少しずつ抜けている。
動いている。
決められた未来の最後の動きが、いま始まっている。
私の地図のなかで、エヴェリン様の頁が、いまいちばん速く更新されている。
* * *
モルゲンシュタイン公爵令嬢エヴェリン様の寮室は、北棟の三階にある。
その夜、エヴェリン様は窓辺に立って、月の方を見ていた――と、後でヴィルから聞いた。
その同じ夜、エヴェリン様の机の上で、新しい封筒が一通、用意されていた。中身は、シャルが書いたとされる手紙の写し。私たちが偽物と判断するしかない筆跡で、平民出身のセラフィータさんを陥れる言葉が並んでいる。隣にもう一通、シャルが王太子妃の座を計略で得ようとしているとする「証言」。署名は、ある侍女のもの。
筆跡屋に金を払って似せさせた、そういう手紙。
その夜の遅く、ヴィルから短い符号が届いた。学園の警備の側で集めた情報の通知。エヴェリン様の侍女ベッキーが、王都の筆跡屋『シュタイン工房』と接触した日付と回数。今夜、最後の受け渡しが行われた可能性。
私は寝台の上で符号を読み、机に向かって短い返事を書いた。
明朝、四人で集まりましょう。
覚悟を、もう一段下りる時が来た。
* * *
翌朝、私の寮室に、三人が集まった。
セラフィータさんは祭服のままで、いつもの席に静かに腰を下ろした。ヴィルは制服のままで、剣を入口の脇に立て掛けてから、机の向かい側に立った。テオドール様は司祭見習いの黒い祭服で、長椅子の端に座り、両手を膝の上で重ねた。
私は四人ぶんの紅茶を注ぎ、机の真ん中に四つのカップを並べた。
「みなさん、お時間をいただいて、ありがとう」
私は単刀直入に切り出した。
「エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢の動きが、本格化しているわ」
ヴィルが少し顎を引く。テオドール様が静かに頷かれる。セラフィータさんは膝の上で両手を重ねたまま、私の方を真っ直ぐ見てくださった。
「先日、セラフィータさんが、エヴェリン様から庭園で声をかけられたの。お声の奥の冷たい気配を、セラフィータさんが正確に受け取ってくれた」
「はい」
セラフィータさんが、静かにご自分の言葉を継がれた。
「お言葉は優しかったのですが、お声の奥に、シャルロッテ様への悪意のようなものを、わたしは確かに感じました」
その一言で、いまここにいる四人全員が、エヴェリン様の名前を一つの輪の中に置いた。セラフィータさんがテオドール様に名前を伏せて相談していた事実は、それはそれで彼女のなかで生きている。けれど、いまは別の場面だった。四人で一つの地図を描く場面。
ヴィルが、机の上に薄い書類束を置いた。
「俺の側からも報告がある。エヴェリン様の侍女ベッキーが、王都郊外の筆跡屋と接触している。確認できているだけで四回。最後の接触が昨夜、工房から大きな封筒を受け取って寮へ戻った」
「証拠の質は」
「工房の主からの聞き取りも取った。『公爵令嬢の侍女から、特定の筆跡を真似た文書を作成するよう依頼を受けた』と認めている」
「上出来ね、ヴィル」
言ってから、自分の声が少し弾んだのに気づいた。緊張のなかで、私はずっとこの瞬間を待っていたのだと思う。
テオドール様が、両手の重ね方をほんの少しだけ変えてから、ゆっくりと口を開かれた。
「私は、ティータ嬢から事前にお話を伺って、教会の経由でモルゲンシュタイン公爵家の家系について調べました」
「ありがとうございます」
「エヴェリン様は、元の王太子妃候補でいらした。シャルロッテ様にその座を奪われた、と認識していらっしゃるようです。家のなかでも、そのお言葉が繰り返されていた、と聞いています」
セラフィータさんが、ゆっくりと頷かれた。
「わたしは、エヴェリン様のお気配を覚えています」
その一言の重みが、机の上の四つのカップの真ん中に静かに落ちる。
「今後、エヴェリン様が何かを企んでも、お気配の冷たさで、わたしが気づきます」
「ありがとう、みんな」
私は四人を順に見渡した。
ヴィル、セラフィータさん、テオドール様。私の地図のなかで、今日この瞬間に、新しい線が確かに引かれていく。
* * *
「学年末舞踏会で、エヴェリン様が何かをするはず」
私は四つのカップの真ん中の空気に向かって、はっきりと言った。
「決められた未来でも、その夜が転機になる。殿下に、シャルロッテ様への偽の告発が届く可能性が高い」
「俺が、その夜の警備を強化する」
ヴィルが即答した。
「侍女ベッキーの動きも、当日は俺の側で抑える」
「私は」
テオドール様が静かに言葉を継がれた。
「殿下の側近にお話を通します。シャルロッテ様への誤解の素地を、事前に少しでも崩しておきます」
「わたしは」
セラフィータさんが、両手を膝の上で揃え直された。
「当日、シャルロッテ様のお側にいます。何かあれば、お気配で察知して動きます」
「みんな、ありがとう」
私はもう一度、深く一礼した。
「シャルを救うために、力を貸してくれて」
「もう一つ」
ヴィルが、付け加えた。
「シャルロッテ様の本物の手紙を、できるだけ集めておく。筆跡比較のために必要だ」
「それは、私が手配するわ」
即答だった。
「シャルから今までもらった手紙、すべて持参するから」
四人で頷き合う。
机の真ん中の四つのカップから、薄い湯気がもう冷めかけていた。けれど、その湯気の薄さの分だけ、四人の覚悟の輪郭がはっきりと立ち上がった気がする。
決められた未来の最後の夜まで、残り三日。
* * *
その日の午後、私はシャルに会いに図書館へ向かった。
午後の図書館は静かだった。本棚の影と影の間に、午後の光が斜めに差し込んでいる。
シャルは、いつもの窓際の席にいた。
深い青のドレスの肩に、銀色の髪がほどけていた。私を見つけて、シャルの瞳がふっと柔らかくなる。
「ティー」
席の隣を、シャルが空けてくれた。
「シャル」
私が腰を下ろすと、シャルが声を半音だけ落とした。
「ティー、最近、殿下と話す時間が増えたわ」
膝の上で、シャルの両手が静かに重なっている。誇り高い令嬢のお姿の奥で、十六歳の少女の指先が小さく揺れているのが、私には分かった。
「わたくし、少しずつ、殿下を知ってきている気がする」
「シャル、それは素敵なことね」
「あなたとセラフィータさんと話す時間も、わたくしの心の支えになっているわ」
シャルの瞳がほんの少しだけ潤む。
「ティー、本当にありがとう」
私は、シャルの肩にそっと手を置いた。シャルの肩の骨は、十六歳の少女の骨だった。誇り高い令嬢の鎧の下にある、いつも私だけが触れることを許される骨。
シャル、あなたが幸せそうで、本当に良かった。
あと少し、もう少しで、あなたの未来が変わる。
私は胸の中でだけ、そう言葉にした。
あと三日。決められた未来の最後の夜まで、あと三日。
* * *
図書館を出た時、雲がもう厚くなっていた。
春先の天気は、こういう変わり方をする。学園祭の頃にはまだ薄かった雲が、初夏の手前で一度だけ厚みを増す。校舎と校舎を渡る回廊の途中で、ぽつ、と最初の雨が石畳を叩いた。
私は柱の影に身を寄せた。
校舎側へ戻るには、屋根のない庭園を横切らないといけない。少し待つしかなかった。
雨脚はあっという間に強くなった。
石畳が濡れる音、若葉が濡れる音、屋根の縁から落ちる音。
その音のなかに、別の足音が混ざった。
藍色のドレスの裾が、回廊の角を曲がってこちらへ駆けてくる。シャルだ。図書館を出た後で、雨に遭ったらしい。
その後ろから、もう一人。栗色の制服の上着の裾が、雨に薄く濡れている。
レオンハルト殿下だった。
私はそのまま柱の影に身を引いた。
* * *
二人は、回廊の少し奥――屋根のある雨宿りの場所で立ち止まった。
私の柱からは、二人の横顔が見える距離。
「シャルロッテ嬢」
「殿下」
レオンハルト殿下が、ご自分の上着を脱がれる。
「冷えるだろう」
上着がシャルの肩にかけられる、その動きは少しだけぎこちなかった。
「殿下、よろしいのですか」
「君が風邪を引いては困る」
シャルが上着を受け取る。指の先で、殿下の体温の残りがほんの一瞬だけ、シャルの手の甲に乗ったように見えた。
二人は、雨宿りの位置に並んだ。
半歩の距離を空けて、並んだ。
雨が石畳の上で、二人の足元の境界を、薄く濡らしていく。どちらも前を向いていた。横顔の輪郭が雨の白い光に薄く縁取られて、似たような角度で並んでいる。
沈黙だった。
雨の音が、二人を包んでいる。私の方からも、雨の音だけがその二人ぶんの沈黙の代わりを引き受けていた。
「……シャルロッテ嬢」
殿下のお声が、前を向いたまま、雨の方へほどけた。
「最近、君のことを考えている時間が、増えている」
シャルが、息を呑むのが、私の柱からも見えた。
視線は、雨の先に置かれたままだった。
「殿下……」
「いや、まだ、何も言わない。ただ、伝えておきたかった」
シャルがレオンハルト殿下の方を、ほんの一瞬だけ見られた。
青い瞳が雨の光に潤む。
すぐに視線を戻された。
「わたくしも、殿下を、近くに感じるようになりました」
シャルのお声は、低くて、少しだけ震えていた。
二人の半歩の距離は、そのままだった。
触れない、けれどその距離のなかで、何かが確かに縮まる。
雨が、ふっと、止みかけた。
雲の切れ目から、薄い金の光が回廊の屋根の端へ落ちる。
殿下が、上着の襟元を一度だけ整えるような所作を見せて、それから雨宿りの位置から一歩前へ出られた。
「では、また、後で」
「はい、殿下」
二人は、それぞれ別の方向へ歩き出した。
シャルは校舎の方へ、殿下は学園長棟の方へ。
私は柱の影で、もう一度息を吐いた。
胸の中で、両手の指をぎゅっと一度だけ握る。
シャル、レオンハルト殿下、いい感じ。本当に、いい感じ。
決められた未来のなかで、二人はこの距離まで近づくことができなかった。
今日の半歩は、十一年の地図に、まだ一行も書かれていなかった半歩だった。
柱の影から見ているのが、私の場所だ。
誰の物語の中心人物でもない、誰の物語の主役でもない、ただの観察者で介入者でシャルの親友。柱の影でこの半歩の距離を見届けて、それを胸の中に書き留めて、それから歩き出す。それが、私の十一年の歩き方だった。
雨上がりの石畳が、薄い金の光のなかで乾いていく。
二人の歩いていった方向は、もう、私の柱からは見えない。
* * *
寮へ戻る途中、私はもう一度、紐で結ばれた手紙の束のことを考えていた。
シャルから三年間に頂いた十二通。それぞれの便箋の角度、それぞれの便箋の角度、それぞれの右払いの跡の長さ、それぞれの結びの閉じ方。私はその十二通の文字のかたちを、たぶん、シャル自身よりも詳しく覚えている。
観察するということは、好きになるということだと、私は十一年間で学んだ。
誰かを好きになると、その人の文字の角度が見えてくる。その人の沈黙の長さが分かってくる。その人の肩の骨の薄さが、触らなくても分かるようになる。
シャル。
あなたを、私は誰よりも見てきた。
その見てきた量が、明後日の夜に、十二通の手紙の束として机の上に立つ。
* * *
その夜、私は寮室の窓辺に立っていた。
雨はとっくに止んでいた。窓硝子の向こうに、雲の隙間から月が滲んで見える。月のかたちは満ちる前の少し欠けたかたちで、明日と明後日と、その次の夜にかけて、ゆっくりと満ちていく。
学年末舞踏会まで、残り三日。
私はそっと机の引き出しを開けた。
シャルから三年間に頂いた手紙の束を、紐で結んである。十二通。一通ずつ、丁寧に並べ直す。日付の古い順に、すべての文字をもう一度確認していく。
右払いの跡、結びの角度。
シャル自身の筆跡を、ここで私が誰よりも知っている人間になる。
四人で組み立てた準備、すべて整った。
あとは、その夜を迎えるだけ。
机の上で、紐で結ばれた手紙の束を、もう一度両手で軽く撫でる。
エヴェリン様、あなたの最後の一手を、私は見逃さない。
窓の向こうの月が、雲の薄い縁を一度だけ抜けて、机の上の手紙の束に、薄い光を一筋だけ落とした。




