第15章 前夜
学年末舞踏会まで、残り三日。
その夜、レオンハルト・ヴェルテンベルク王太子の私室に一通の手紙が届けられた。
その時、私はまだ寮室の机に向かっていた。シャルから頂いた十二通の手紙の束を、もう一度日付の古い順に並べ直していた。
* * *
「殿下、モルゲンシュタイン公爵令嬢エヴェリン様より、緊急のお手紙です」
侍従の声が、私室の扉の前で控えめに告げる。
レオンハルトは机の上の書類から顔を上げた。
学年末舞踏会まで残り三日のこの夜、緊急という言葉の重さがふと胸に引っかかった。
「ここへ通せ」
侍従が一通の封書を運んでくる。深い赤の蝋印、モルゲンシュタイン家の紋章。レオンハルトは封を切り、目を通した。
書面の冒頭から、彼は息を一つ呑んだ。
――シャルロッテ・アデルハイト・フォン・ヴァイセンベルク様について、わたくし、見過ごせない事実をお伝えせねばなりません。
平民出身の特待生セラフィータを、シャルロッテ様が、ご自分の地位を笠に着て陥れていらっしゃるご様子。
殿下のお側に近づくため、平民の少女を踏み台になさっておられる。
別添の手紙、別添の証言、いずれもその事実を裏付けるものでございます。
レオンハルトは、別添の薄い封筒を開いた。
中には、シャルロッテの筆跡で書かれたとされる短い手紙が一通と、ある侍女の署名の入った「証言」が一通。
彼は長い間、その二通を机の上で並べたまま動かなかった。
ろうそくの炎が、紙の端で薄く揺れる。
以前の彼なら、これを信じてただちにシャルロッテを糾弾しただろうと彼は思った。婚約者として「義務」で隣に置いていた頃の自分なら、迷うこともなくシャルロッテに弁明の機会を与え、しかし「機会」という言葉の薄い建前のなかで、すでに有罪の心証を整えていたはずだ。
以前の、彼なら。
いまの自分は、違う。
* * *
雨の渡り廊下の青い瞳が、彼の胸の奥でゆっくりと浮かび上がってきた。
シャルロッテの目が、雨の光に潤むのを、彼は見た。
あの時、彼女は「殿下、わたくしも、殿下を、近くに感じるようになりました」と低く、けれど震えながら言った。
あの低さ、あの震え、あの青の温度。
あれが、嘘の人間の瞳ではない、と彼は思った。
あの瞳の温度を、いま自分はまだ覚えている。
あの瞳の人間が、平民の少女を踏み台にする令嬢であるはずがない。
もし仮にそうだとすれば、雨の渡り廊下の半歩の距離のなかで彼女が見せた震えは、嘘の震えだったということになる。
それは、ない。
ろうそくの炎の前で、彼は自分の判断を一度だけ強く確かめた。
あの夜の彼女の震えを、彼は自分の胸の温度で受け取っている。あれを、机の上の書類の重みで上書きすることは、できない。
けれど、机の上には証拠が並んでいる。筆跡。証言。封書の重み。王太子として、これらを無視するわけにもいかない。
無視すれば、職務の怠慢になる。
信じれば、職務の私情になる。
レオンハルトは、ろうそくの炎をしばらく見つめていた。
炎の芯が、ふっと一度だけ揺れた。
「学年末舞踏会の夜、本人を呼ぼう」
彼は、誰もいない私室の空気に向かって、低く言った。
「シャルロッテ嬢を呼んで、これらの証拠を、本人の前で見せる」
ただし、と彼は胸の中で続けた。
彼女の弁明を、最後まで聴く。
糾弾の前に弁明ではなく、弁明の場所を最初に用意したうえで、必要ならそこから先の判断を下す。
以前の自分との違いは、たぶん、この順番の中にある。
以前の自分なら、まず糾弾の言葉を口にしただろう。シャルロッテ嬢を呼びつけた瞬間に、彼女の弁明を「形式」として聴き、判決を別の場所であらかじめ用意していたはずだ。
今夜の自分は、その順番をひっくり返す。
弁明が先、判決は最後。
それが、雨の渡り廊下の半歩の距離のなかで、自分が彼女に約束した姿勢の最初の形だと、彼は思った。
彼は封筒の口をもう一度閉じ、机の引き出しの奥にしまった。
ろうそくの炎が、ふっと一段強くなって、紙の端から離れた。
* * *
翌日の夕方、私は学園の庭園の奥で、ヴィルマール様と待ち合わせていた。
春先の薔薇の生垣の脇、人気のない小径。剣術場と庭園の間の、ちょうど死角になる場所。ヴィルが警備の都合で見つけてくれた、四人にとっての連絡場所のひとつだ。
私が小径に入っていくと、ヴィルが先に来ていた。
藍色の制服の肩で、夕方の光が薄く伸びる。
「ティータ嬢」
「ヴィルマール様」
「殿下のところに、エヴェリン様の手紙が届いた」
即答だった。挨拶の代わりの、即答。
「やはり、学年末舞踏会で動くのね」
「ああ。封書の中身も、ある程度は把握している。偽の手紙と偽の証言、添付二通」
「動きが早いわね」
「侍従の側に、俺の手も入っている」
ヴィルが少し首を傾けた。報告を続けるための、いつもの仕草だった。
「殿下は、まだ判断を保留している」
「保留」
「即座にシャルロッテ様を呼ばず、舞踏会の夜まで動かないご様子だ。本人を呼んで、直接問い質す予定でいらっしゃる」
私は、薔薇の生垣の濃い緑の方へ視線を流した。
保留。
その一言の意味の重さが、私の胸の中でゆっくり広がっていく。
決められた未来のなかで、殿下はシャルロッテ様を、信じるよりも先に糾弾なさった。弁明の機会という建前を整えながら、その実、心の中ではすでに判決が下りていた。
今夜の殿下は、違う。
「これは、私たちの介入の余地が大きい」
私は、視線を生垣からヴィルへ戻した。
「殿下が最初から信じきってシャルを糾弾するわけじゃないなら、本物の証拠を舞踏会の夜にそろえて持ち込めば、十分に立ち会える」
「俺もそう思う」
ヴィルが頷いた。
「侍女ベッキーの動きを抑える準備はできている。証拠捏造の現場は押さえきれていないが、筆跡屋との接触の記録、工房の主の証言、舞踏会当日の侍女の動線の確認。この三つは確保した」
「決定打にはなる」
「ああ」
夕方の光が、ヴィルの剣の柄の留め金で、一度だけ短く反射した。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
薔薇の生垣の向こうで、誰かの遠い笑い声が風に乗って薄く流れた。学園祭の頃にはまだ硬かった蕾がいまはすっかり開いて、初夏の手前の濃い緑のなかに、深い赤の点をところどころに置いている。
「ヴィルマール様」
私は、自分の声が少し低くなったのに気づいた。
「あなたが警備の側にいてくれて、本当に助かるわ」
ヴィルが、少しだけ視線を逸らした。剣の柄の留め金の方を、なぜか見ている。
「礼は要らない」
「礼は言うわ」
「俺の役目を、しているだけだ」
その答え方が、いつものヴィルの答え方だった。
簡潔。最小限。けれど、その奥に何かがある。
私は、いまの段階では、その何かに踏み込まない。私の十一年の地図のなかで、ヴィルの頁は、まだ書き切られていない。学年末舞踏会の夜が終わったら、その先で、ゆっくり書く。
いまは、シャルの夜が先だった。
* * *
その夜、寮室に四人がもう一度集まった。
最終確認だった。
机の真ん中に、いつもの四つのカップ。けれど今夜は、紅茶の湯気の上に、四人それぞれが手に持ち込んだ書類束が並んだ。
ヴィルの、侍女ベッキーの動きの記録、筆跡屋『シュタイン工房』の主の証言、舞踏会当日の侍女の動線の予測図。
テオドール様の、殿下の側近への根回しの覚書、教会側の見立て、モルゲンシュタイン家の家令への確認の控え。
セラフィータさんの、ご自分の感じ取ったエヴェリン様のお気配の記録、シャルロッテ様のお気配との対比のメモ。
そして、私の、シャルから三年間に頂いた十二通の手紙の束。
「役割を、もう一度確認するわ」
私は、机の真ん中に置かれた四つの書類束の上に、軽く手を一度置いた。
「セラフィータさんに、証言してもらう。あなたが、シャルが自分を虐げたという事実はないと、はっきり言う」
「はい、ティータさん」
セラフィータさんが、両手を膝の上で重ねたまま、静かに頷かれた。
「テオドール様は、殿下の側近を通じてシャルへの誤解の素地を、できるだけ崩しておいてください」
「承りました」
「私は、シャルが過去三年間に書いた本物の手紙、十二通を持参するわ。筆跡比較の決定打」
「俺は」
ヴィルが、自分の書類束を軽く持ち上げた。
「侍女ベッキーの動きの記録、筆跡屋の証言、当日の侍女の動線の確認。当日、舞踏会のホールの外側からエヴェリン様の侍女が動く瞬間を、俺の警備の側で確保する」
「順番」
私は、四人の顔を順に見た。
「殿下がシャルに偽の証拠を提示した瞬間、私が乱入する。本物の手紙の束で、第一の証拠」
「俺が第二」
「セラフィータさんが第三」
「私が第四」
テオドール様が、静かに引き取られた。
「四つの証拠を、間を置かずに重ねる。エヴェリン様が立て直す余地を、与えない」
ヴィルが頷いた。
「侍女ベッキーは、舞踏会の前に俺の側で別室へ移す。事の経緯を、すでに半分は話している。本番の前に、残り半分を引き出す」
「みんな」
私は、もう一度ゆっくり、四人の顔を見渡した。
「ありがとう」
四つの書類束の上で、私の手とヴィルの手とテオドール様の手とセラフィータさんの手が、一度だけ軽く重なった。
四つの手の温度は、それぞれ違った。
ヴィルの手は剣を握る人の温度。テオドール様の手は祈る人の温度。セラフィータさんの手は人の気配を受け取る人の温度。私の手は十一年地図を描いてきた人の温度。
その違いが、舞踏会の夜には、四つの方向からシャルを支える四本の柱になる。
十一年、私はずっと一人だった。
五歳のあの日に決められた未来を見てから、シャルを救うという目的だけを胸に置いて、十一年地図を一人で描いてきた。シャルにも、ご両親にも、誰にも明かさずに、一人で。
その地図のなかに、いま、三人の名前がある。
ヴィル、テオドール様、セラフィータさん。
明日の夜、私は一人で乱入するのではない。三人と一緒に、シャルの前に立つ。
それが、決められた未来との、もっとも大きな違いだった。
* * *
三人を見送って、私は寮室で一人になった。
机の引き出しを開け、新しい便箋を一枚出す。
シャルからの今夜の手紙には、すでに目を通していた。短い手紙だった。
――明日、学年末舞踏会。わたくし、緊張しています。殿下が、何か様子が変ですわ。
その二行を読み返してから、私は便箋に筆を置いた。
短く、できるだけ短く、書く。
――シャル。
――明日は何が起きても、私を信じて。
――あなたを必ず守るから。
書き上げた便箋を、二つに折って封筒に入れた。寮の侍女に託す。今夜のうちに、ヴァイセンベルク家の寮室に届く手筈だった。
扉の閉まる音を背中で聞いてから、私は窓辺へ歩いた。
窓硝子の向こうに、月が滲んでいた。
舞踏会前夜の月だった。
明日が、勝負の日。
シャル、絶対に救ってみせる。
胸の中で、それだけを言葉にした。
エヴェリン様、あなたのことも私は最後まで諦めない。それは頭の片隅にだけ置いた、もう一行。今夜はそれ以上、その方向の言葉を増やさない。明日の夜、シャルを救い切ったその後ろで、エヴェリン様の頁にも私の手を伸ばす。
順番がある。
いまは、シャル。
* * *
寝る前に、私は明日の支度をした。
寝台の脇に、明日のドレスを掛けていた。
深い緑のドレス。観察者で介入者で親友の、私の色。十一年地図を描いてきた人間が十一年目の夜にだけ袖を通すために用意した色だった。派手すぎず地味すぎず、けれどシャルの隣に立った時に、シャルの銀の髪と藍色のドレスの脇で、十分に芯のある一本の縦線になる色。
机の上には、シャルから受け取った十二通の手紙、紐で結ばれている。
十二通の上に、もう一度、手のひらを軽く置いた。
ふと、五歳のあの日のことを思い出した。
社交場の中庭で、銀色の髪の少女が、誇り高い令嬢の姿のまま庭の隅に一人で立っていた。私はその少女の手を、指の付け根のあたりで半分だけ受けて、握った。それが、シャルとの最初の握手だった。
あの日から、十一年。
あの庭の少女の指の付け根の温度を、私はいまも覚えている。
明日の夜、私はその温度を、もう一度シャルの手のなかへ返しに行く。
明日の夜、私はこの色でこの手紙の束を持って、シャルの隣に立つ。
決められた未来の最後の夜が、明日。
組み替える夜が、明日。
窓の外で、月がもう一度だけ、雲の薄い縁を抜けた。
明日の月も、たぶんこの位置で、同じように滲んでいる。




