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第16章 夜

 学年末舞踏会の夜が来た。

 学園の大ホールに二百本ぶんの蝋燭が灯っている。天井から下がる水晶のシャンデリアが、その光を四方の壁に細かく散らしていた。卒業生たちと、卒業を翌年に控えた一年生たちが、それぞれの紋章を縫い込んだ正装で広間を埋めていく。楽団の奏でる弦の音、令嬢たちの裾の擦れる音、笑い声。

 その華やかさのなかへ、シャルが入ってきた。

 深い藍色のドレス、銀色の髪を高く結い上げた姿。隣にレオンハルト殿下が並ぶ。二人で広間の中央へ進み、最初のワルツを踊り始めた。誇り高い公爵令嬢と王太子。誰の目から見ても、王国の未来の絵そのものの一対だった。

 私は壁際に立って、二人の動きを見ていた。

 深い緑のドレスの腰のあたりに、紐で結んだ十二通の手紙の束を、布の鞄に入れて掛けてある。十一年地図の最後の一冊を、私はいま自分の腰の高さに持っていた。

 セラフィータさんは神学科の白い祭服のまま、壁際にいた。ヴィルは制服姿でホールの入口の脇に立ち、警備の姿勢を取っていた。テオドール様は黒い祭服で、上座近くに目立たないように控えていらした。

 四つの位置から、シャルを見ている。

 ワルツが二曲目に入った頃、レオンハルト殿下の表情がふと固くなった。曲の途中で殿下がシャルに何かを耳元で囁く。シャルが小さく頷く。二人がワルツの輪から離れていった。

 ヴィルが入口の脇から、こちらを見た。

 私は四人それぞれに目で合図を送った。

 ホールの華やかさの背後にある、隣室の謁見の間――そこへ、二人が向かっていた。


 * * *


 謁見の間の扉が、内側から閉じられた。

 厚い樫の扉一枚の向こうで、楽団のワルツが薄く遠くなる。ろうそくの灯りが、机を挟んで立つ二人の影を、奥の壁に長く伸ばしていた。

 レオンハルト殿下が机の上に一通の封書を置かれた。

「シャルロッテ嬢、これを見てくれ」

 お声は低く抑えられていた。

「君が、平民出身の特待生セラフィータを虐げたという告発が届いている」

 シャルが封書を受け取られる。

「殿下……これは、何かの誤解です」

 お声は震えていなかった。誇り高い令嬢の姿勢を、まだ崩されていない。

「わたくし、セラフィータさんを虐げたことは一度もございません」

「では、これらの証拠は」

 殿下が別添の二通を、机の上に並べられる。一通は手紙、もう一通は侍女の署名の入った「証言」。

 シャルが便箋を持ち上げた。

 書かれている文字を目で追って、最初の一行目で、彼女の指先がかすかに紙の縁を握り直した。

「これは……わたくしが書いたものではありません」

「筆跡が、君のものに似ているが」

「似ているだけで、わたくしのものではないのです」

 シャルの声が、ほんの一段低くなった。

「右払いの角度、結びの閉じ方。わたくしの文字なら、目を瞑っていても見分けがつきます」

 その一言で、シャルが普段から自分の筆跡をどれだけ意識しているかが、殿下の耳の届く距離に置かれた。けれど机の上には、もう一通の「証言」がある。証言の重みは、筆跡の議論だけでは押し戻せない。

 シャルが顔を上げられた。

 誇り高い令嬢の姿勢のまま。けれど、その姿勢の内側で何かが軋み始めている。シャルだけが、それに気づいている。

 誰も助けには来ない。

 謁見の間の扉の脇には、侍従が二人立っている。一人は殿下付きの侍従、もう一人は王宮の警備の者。彼らはじっとこの場面を見ているだけで、誰一人、シャルの側に立とうとはしない。

 シャルの中で、長年抱えてきた声が、一気に蘇った。

 ――お父様にも、お母様にも、いつも「公爵令嬢らしく」と言われ続けてきた。

 ――政略結婚の駒として、心は無視されてきた。

 ――やっと、ティーが、セラフィータさんが殿下までもがわたくしを少しずつ見てくれるようになったのに。

 ――またひとりに戻るの?

 昨日まで雨の渡り廊下で殿下の上着を肩にかけられた少女が、いまここで、机を挟んで殿下に証拠を突きつけられている。半歩の距離の意味が、机の幅一つで上書きされようとしていた。

 シャルの膝が、ほんの一瞬、力を失った。

「殿下……」

 お声が初めて震えた。

「わたくし……」

 その先の言葉が、出てこない。

 誇り高い令嬢として育てられたシャルは、絶望のなかで自分を弁護する言葉の作り方を教わってこなかった。「公爵令嬢らしく」立っていることだけを、十六年間訓練されてきた。だからいま、立っていることしかできない。立っていることができなくなりかけている。

 謁見の間の蝋燭の炎が、シャルの背中の壁に、震える影を一つだけ伸ばした。

 シャルの膝がもう一度、ぐらりと揺れた。

 その時――


 * * *


 謁見の間の扉が、内側へ強く押し開けられた。

 ろうそくの炎が、扉から流れ込んだ夜気で、すべて一度に大きく揺れた。

 深い緑のドレスの裾が、敷石の上を一歩進む。

 腰のあたりで、紐で結んだ十二通の手紙の束が、布の鞄のなかで一度だけ硬く揺れた。

「殿下、失礼いたします」

 私は扉の内側で一礼した。

 顔を上げて、まっすぐに殿下を見る。

「お話を、聞かせていただきたく存じます」

「ラインフェルト嬢、これは内密の話だ」

 殿下が低く制された。

「シャルロッテ様の名誉に関わるお話なら、わたくしにも関係がございます」

 私は視線を一度だけ、シャルへ向けた。

 シャルが顔を上げる。揺れていた膝が、私の視線で半分だけ立て直された。

 誇り高い令嬢の仮面の内側にいる、私だけが知っている十六歳の少女が、私の方を見ている。

「シャル、大丈夫よ」

 私は低く言った。

 公的な口調ではなかった。シャルだけに届く、私的な温度の声。

「私が、いるから」

 シャルの瞳に、一筋、安堵の薄い光が走った。

「ティー……」

 誰の前でも、本当ならこの呼び方は出ない。けれどシャルはいまそれを抑える余裕がなかった。

 私は殿下の方へ向き直る。

「殿下、その手紙、本当にシャルロッテ様がお書きになったものでしょうか」

 深い緑のドレスの腰から、十二通の束を布の鞄ごと取り出す。

「筆跡を、ご確認いただけますか」


 * * *


 私は十二通の手紙を、紐をほどいて、机の上に並べた。

 日付の古い順に。

 二年前の春の便り、夏の暑中見舞い、秋の収穫祭の招待状、冬の年越しの挨拶。十二の便箋が、机の半分を埋めて広がった。

「これは、過去三年間にわたくしがシャルロッテ様から頂いた手紙のすべてです」

 私は自分の声を一段下げた。

「すべて、シャルロッテ様ご本人の筆跡」

 殿下が偽の手紙を一通、手に取られる。

 別の手に、私の並べた便箋の一通を取られる。

 二通を机の上で並べて、目を細められた。

 しばらく、誰も、何も言わなかった。

 謁見の間の蝋燭の炎の音だけが、机の上で薄く揺れていた。

「……ラインフェルト嬢」

 殿下のお声が低く、ゆっくりと出た。

「右払いの、跡」

「はい」

「君の並べた十二通すべてで、右払いが最後にほんの少しだけ跳ね上がっている」

「シャルロッテ様の癖でございます。三年間、変わっておりません」

「だが、この告発の手紙では、跳ね上がっていない」

 殿下がもう一通の本物を取られて、偽の手紙と並べられる。

「結びの閉じ方も、違う。シャルロッテ嬢の文字は、最後の結びの位置がもう少しだけ内側に来る」

 殿下の指先が、二通の便箋の上で、文字のかたちを順番に追っていく。

 その指先の動きを、私はじっと見ていた。婚約者として隣に立ってこられたあいだに、おそらく、殿下はシャルの便箋を何通も受け取っていらした。受け取っていながら、彼女の文字をきちんと見るのは、たぶん今夜が初めて。その初めての夜に、見比べる二通のうちの一通が偽物だった。

「……これは、別人の手によるものだ」

 殿下が低く断じられた。

「シャルロッテ嬢の筆跡を、似せて書いたものだ」

「はい」

 私はそれだけ答えた。

 シャルの肩から、ほんの少しだけ力が抜けかけている。けれど、まだ緩みきってはいない。第一の証拠だけでは、足りない。


 * * *


 謁見の間の扉が、もう一度外側から控えめに叩かれた。

「殿下、近衛騎士見習い、ヴィルマール・ファルケンハインにございます。緊急の追加情報があります」

「入れ」

 ヴィルが入ってきた。

 藍色の制服、剣は扉の外で侍従に預けてある。机の前まで歩き、殿下に一礼してから、薄い書類束を取り出した。

「殿下、モルゲンシュタイン公爵令嬢エヴェリン様の侍女ベッキーが、本日も含めて、不審な動きをしておりました」

 ヴィルの声はいつも通り、簡潔だった。報告の言葉の量を、必要最小限に削ぎ落としている。

「ベッキーが、王都郊外の筆跡屋『シュタイン工房』の主と接触した記録、計四回」

 書類の一枚目を、机の上に置く。

「最後の接触は、本日の朝。工房から大きな封筒を受け取り、寮へ戻っております」

 二枚目を重ねる。

「工房の主からも、証言を取りました。『公爵令嬢の侍女から、特定の筆跡を真似た文書を作成するよう依頼を受けた』と認めております」

 三枚目を重ねる。工房の主の署名入りの聞き取り書だった。

「以上、三点」

 ヴィルはそれだけ言って、一歩下がった。けれど、その三枚の書類の重みは、机の上で薄い湯気のように立ち上がっていた。

 殿下が眉をひそめられる。

「では、この偽の手紙は、エヴェリン令嬢の指示によるもの、ということか」

「そう判断する根拠は、揃っております」

 ヴィルが低く答えた。

 殿下がヴィルの方をしばらく見ていらした。近衛騎士見習いの十九歳の青年が、警備の側からここまでの証拠を組み立てた事実が、殿下のなかで一段ずつ整理されていく。私は黙って、その時間を待った。


 * * *


 謁見の間の扉が、三度目に開いた。

 白い祭服の少女が、控えめに入ってきた。

 セラフィータさん。

「殿下、わたしから申し上げたいことがございます」

 セラフィータさんは扉の内側で一度だけ深く一礼してから、机の方へ進んだ。両手を膝の前で重ねて、まっすぐに殿下を見上げる。

「君は……平民の特待生、セラフィータか」

「はい、セラフィータと申します」

 お声は柔らかく、けれどぶれていなかった。誰の前でもいつも同じ温度を持っている、彼女の声だった。

「わたしは、シャルロッテ様に虐げられたことは一度もございません」

 セラフィータさんはそれを最初に言い切った。

「むしろシャルロッテ様は、わたしのこの感受性のとても高い気質を、最初から優しく受け止めてくださいました」

 シャルが顔を上げられた。

「シャルロッテ様のお声は誇り高くて、少し寂しそうで、でも、わたしと話す時にはとても温かいんです。お気配にも、温かさが流れ込んできます」

「お気配……」

「はい。わたしは人の本心を、お声と気配で感じています」

 セラフィータさんが両手を膝の前でゆっくり重ね直された。

「シャルロッテ様のお気配の中に、わたしへの悪意は一度も感じたことがございません」

 セラフィータさんはそこで一拍、息を整えられた。

「逆に、エヴェリン様のお気配の奥には、シャルロッテ様への強い悪意を何度も感じました」

 謁見の間の空気が、その一言で半音下がった。

「お言葉ではなく、お気配で、それが分かります」

 殿下が息を呑まれた。

「君は、人の感情を直接、感じ取るのか」

「はい。生まれつき、そういう感受性なのです」

 セラフィータさんはそれを、誇りも卑下も混ぜずに、ただの事実として言われた。貴族と王太子の前で、感受性の言葉を引っ込めない。「お声」「お気配」を、彼女の倫理の言葉のまま貫く。

 殿下がしばらくセラフィータさんの顔を見ていらした。

「……分かった」

 殿下のお声が低く、けれど確かに、一段下がった。

「君の証言を、信頼する」


 * * *


 謁見の間の扉が、最後にもう一度開いた。

 黒い祭服のテオドール様が入っていらした。

「殿下、私からも申し上げたいことがございます」

 テオドール様は机の手前で一礼してから、両手を体の前で軽く重ねた。

「セラフィータさんの感受性は、神に誓って真実でございます」

 お声はいつもの穏やかな温度のままだった。

「私は、彼女の祈りを誰よりも近くで見てまいりました。彼女の感じ取るお気配は、嘘や偽りを含みません」

 テオドール様がシャルの方をほんの一度だけ見られた。

「私自身も、シャルロッテ様にお会いしたことがございます。シャルロッテ様のお気配は、誇り高さの奥に、深い優しさを宿していらっしゃる」

 その一言で、シャルの肩からもう半分の力が、ふっと抜けた。

「セラフィータさんの証言は、神の前でも真実でございます」

 テオドール様はそれだけ言って、また一歩下がられた。教会の側からの裏付けを、過不足なく差し出す。それ以上の言葉を、付け足さない。

 殿下が机の上の証拠をもう一度、順番に目で追われた。

 第一に、十二通の本物の手紙と偽の手紙の筆跡の差。

 第二に、侍女ベッキーの動きの記録と、筆跡屋の主の証言。

 第三に、セラフィータさんの感受性による証言。

 第四に、教会側からの裏付け。

 四つの方向から、机の上に置かれた四つの重み。

 殿下が長い息をひとつ吐かれた。

「……分かった」

 お声は低く。けれど、はっきりしていた。

「これは、何者かによる謀略だ」


 * * *


 殿下がシャルの方に向き直られた。

「シャルロッテ嬢、君を疑ったことを、深く謝罪する」

 深く一礼される。王太子のなさり方ではなく、一人の男のなさり方で。

「殿下……」

 シャルのお声がようやく震えるのを取り戻した。さっきまでの絶望の震えではなく、別の方向の震えだった。

「ヴィルマール」

 殿下がヴィルの方を見られた。

「エヴェリン令嬢を、ここへ呼べ」

「は」

 ヴィルが扉の外の侍従に符号を送る。

 数分後、扉が静かに開いた。

 黒髪を高く結い上げた美貌の少女が、優美な所作で謁見の間へ入ってきた。

 モルゲンシュタイン公爵令嬢、エヴェリン様。

 扉の内側で一礼されて顔を上げた瞬間、エヴェリン様の優美な微笑みが、ほんの半秒だけ遅れた。机の上に並ぶ十二通の本物の手紙、ヴィルの三枚の書類、セラフィータさんとテオドール様の立ち位置、シャルの顔色。室内の空気を、エヴェリン様は半秒で読み取られた。

 優美な微笑みが、すぐにまた、整えられる。

 けれど、その整え方が、いつもより半呼吸ぶん、遅かった。

「殿下、お呼びでございますか」

「エヴェリン令嬢」

 殿下のお声が低く据えられた。

「これらの偽の手紙、君が用意したのか」

「殿下、わたくしは……何も存じませんわ」

 優美な微笑みの内側で、お声の温度はまだ保たれている。

 ヴィルが机の前へ、一歩進んだ。

「侍女ベッキーは、別室で、すでに事の経緯をすべて話しております」

 その一言を、ヴィルは最小限の音量で言った。

 エヴェリン様の優美な微笑みの口の端が、初めてはっきりと一度だけ揺れた。

「侍女ベッキーの、王都郊外の筆跡屋への往復、四回。最後の受け渡しの時刻、本日の朝。工房の主からの聞き取りの控え、ここに」

 ヴィルが三枚の書類を、一枚ずつ、机の真ん中に並べる。

 その一枚目の書類の上で、エヴェリン様の視線がしばらく止まった。

 二枚目、三枚目。

 優美な微笑みが、急速に、内側から崩れていく。


 * * *


 エヴェリン様の膝が、敷石の上で、ゆっくりと崩れた。

 優美な公爵令嬢のドレスの裾が、敷石の冷たさの上に広がる。

「……はい、わたくしです」

 お声が初めて優美の温度を失った。

 長い間、十一年積み上げてきた何かが、ここで一度に溢れた。

「シャルロッテ様、なぜあなたが王太子妃に選ばれて、わたくしではないの」

 お声が震えた。

「わたくしはずっと、誰もわたくしを見てくれないと思っていた」

 唇のかたちが、優美な微笑みの形を、もう作らなかった。

「あなたが、わたくしを見下していると思っていた」

「あなたの誇り高い顔が、わたくしを蔑んでいると」

 エヴェリン様の瞳に、初めて誰の前でも崩したことのなかった涙が薄く滲んだ。けれどまだ流れ落ちる涙ではなかった。

 シャルが息を呑まれた。

 誇り高い令嬢の仮面が、シャルのお顔の上から、ゆっくりと外れる。

 シャルがエヴェリン様の方へ、一歩、進まれた。

 もう一歩。

 机の脇を抜けて、敷石の上に膝をついたエヴェリン様の真正面まで。

 シャルがその場でご自分も膝を折られた。

「エヴェリン様」

 シャルのお声はいつもより低く。けれど、震えていなかった。

「わたくし、あなたを見下したことなど、一度もございませんわ」

 シャルがエヴェリン様の目をまっすぐに見られた。

「わたくしも、誰にも上手く接することができなかった。『公爵令嬢らしく』『王太子妃たる者』と言われ続けて、本当の自分を出せなかった」

「あなたと、似ているのかもしれません」

 シャルのお声の終わりが、ふっと、柔らかくほどけた。

「わたくしの誇り高い顔は、ただの仮面でした。中身は、ただ、寂しい少女でした」


 その瞬間、エヴェリン様の中で、何かが止まった。

 優美な微笑みのために十一年訓練してきた口の端、誇り高い令嬢の眉の角度、社交場で身に着けてきた身体の隅々の所作。そのすべてが、いま目の前のシャルが言われた言葉の前で、行き場を失った。

 エヴェリン様の中の「シャルロッテ様は、わたくしを見下している誇り高い令嬢」という像が、いまシャル自身の言葉で、内側から崩された。

 エヴェリン様の肩から、力が、ゆっくり抜けていく。

 唇のかたちが、優美な微笑みを作るための形から、ほどけていった。

 十一年積み上げてきた何かが、エヴェリン様の中でひとつ、音もなく崩れた。


 一拍、誰も、何も言わなかった。


 エヴェリン様の唇が、震えた。

「……シャルロッテ様、わたくしは、何という愚かなことを」

 その瞬間、エヴェリン様の瞳から、本物の涙が、初めて流れ落ちた。

 誰にも見せたことのなかった涙だった。誇り高い令嬢の仮面の内側で、長いあいだ、流すことを許されてこなかった涙だった。

 シャルがご自分の手で、エヴェリン様の手を取られた。

 敷石の冷たさの上で、二人の手が、震えながら、一度だけ重なった。


 * * *


 殿下が机の前から、ゆっくりと一歩、前へ進まれた。

「エヴェリン令嬢、君は学園を退学し、領地で半年の謹慎とせよ」

 お声は王太子のお声に戻っていた。

「家による私的な処分とする。表立った刑罰は、課さない」

「……はい」

 エヴェリン様が敷石の上で、深く一礼された。

 涙はまだ流れていた。

 侍従が二人、エヴェリン様の脇に進み出る。一人がエヴェリン様の腕にそっと手を添え、もう一人がドレスの裾を支えた。優美な公爵令嬢の所作のまま。けれど、その所作の内側がもう空っぽになっていることを、室内の全員が知っていた。

 エヴェリン様が退出される間際、もう一度だけシャルの方を見られた。

 シャルが頷かれた。

 それだけだった。

 言葉は、まだ要らなかった。

 扉が、閉まる。


 謁見の間に、残った者たちが、息を吐いた。

 シャルが膝を折ったまま、私の方を見られた。

 私は机の脇から歩み寄って、シャルの前で同じように膝を折った。

 シャルが私の方へ両手を伸ばされた。

「ティー……ありがとう……ありがとう」

 私はシャルの手を取って、抱きしめた。

 シャルの肩の骨は、いつもより、少し冷たかった。けれど、その冷たさの内側で、十六歳の少女の心臓が、ゆっくりと温度を取り戻していくのが、私の胸に伝わってきた。

「シャル、あなたを救えてよかった」

 シャルが私の肩で、一度だけ、声を出さずに頷いた。

 その頷きを、私は十一年、待っていた。

 十一年地図のなかで私が見てきた未来のシャルは誰の肩でも、こんな頷き方をしたことがなかった。


 殿下が私たちのほうを見ていらした。

 深い後悔と、それから何か別の決意が、お顔のなかで一段ずつ整理されていく。お声は出されなかった。けれどその沈黙のなかで、殿下がシャルに向ける視線が、雨の渡り廊下の半歩の続きを、机一つの幅の向こうから取り戻そうとしているのが、私にも見えた。

 ヴィルが入口の脇から、私のほうを一度だけ見た。

 目が合った瞬間、ヴィルがほんの一度だけ、頷いた。

 報告の符号の頷き方ではなかった。

 別の、もっと私的な頷き方だった。

 私は視線をすぐにシャルの肩へ戻した。私の十一年地図のなかで、ヴィルの頁はまだ書き切られていない。けれど、いまの頷き方は、たぶん、その頁の最初の一行になる。

 セラフィータさんとテオドール様が扉の脇で、寄り添って立っていらした。

 二人の白と黒の祭服の裾が、敷石の上で、ほんの少しだけ触れていた。


 * * *


 謁見の間の窓の外で、月が、雲の薄い縁を抜けていた。

 舞踏会前夜の月よりも、ほんのわずか、満ちていた。

 月光が窓硝子を通って、謁見の間の敷石に薄く落ちる。

 光のなかで、五人の影が、それぞれ別の方向に伸びていた。

 シャルの影は、私の肩を抜けて、扉のほうへ。

 殿下の影は、机を超えて、シャルの影のほうへ、半歩。

 ヴィルの影は、入口の脇から、まっすぐ、私の足元へ届いていた。

 セラフィータさんとテオドール様の影は、扉の脇で、互いに重なって、一つになっていた。

 五つの影が、それぞれ別の方向に、夜の続きを指していた。

 明日の朝、五つの影はそれぞれ別の場所で、新しい言葉を持って動き出す。

 その夜は、まだ終わっていなかった。

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