第17章 朝
学年末舞踏会の翌朝、空が浅い水色に明けていた。
昨夜の月の光は窓の外でとっくに薄れて、学園の庭園の芝の上に朝露が冷たく光っている。
私は寮室の窓辺で、その光を見ていた。
昨夜、シャルの肩の骨はいつもより少し冷たかった。けれどその冷たさの内側で彼女の心臓がゆっくり温度を取り戻していくのを、私の胸ははっきり覚えている。今朝、その温度がどこまで戻っているか。それを私は遠くから感じている気がした。
昨夜の敷石の冷たさの上で、シャルとエヴェリン様の手が一度だけ重なった。誇り高い令嬢同士の手が、十一年の冷たさをほどく形で重なった。あの重なりが今朝のシャルの寮室にまで届いているかどうか。それを確かめる権利は、本当はもう私のものではない気がした。私が見届けるのではなく、シャル自身が誰かと一緒に確かめる場面のはずだった。
* * *
同じ朝、シャルは寮室の鏡の前にいた。
いつもより薄い色の朝のドレス。銀色の髪をゆるく結い上げて、最後に小さな白い花の髪飾りを一輪、左の耳のすぐ上に挿す。誇り高い公爵令嬢の正装ではなかった。今朝の自分のために選んだ、もっと柔らかい姿だった。
鏡のなかの自分の顔色を、シャルは一度だけ確かめた。
昨夜まで青白かった頬に、ほんのわずか、血の温度が戻っている。誇り高い令嬢の仮面のための白さではない。十六歳の少女としての血の色だった。
扉が控えめに叩かれた。
「シャルロッテ嬢、よろしいだろうか」
レオンハルト殿下のお声。
シャルが鏡の前で一拍、息を整えた。
「殿下、おはようございます」
扉の向こうから殿下がお声を続けられた。
「庭園を、少し歩かないか」
* * *
庭園に出ると、朝露がドレスの裾を薄く濡らした。
春先の冷たさと、これから昇る陽の予感が空気のなかで半分ずつ混じっている。シャルと殿下の二人は薔薇の生垣の小径を並んで歩き始めた。誰もいない朝の庭園。昨夜の謁見の間の重さがまだ二人の肩のあたりに薄く残っている。
小径の中ほどで、殿下が立ち止まられた。
シャルに正面から向き直られる。
「シャルロッテ嬢」
お声は王太子のお声ではなかった。
「昨夜、君を疑ったことを改めて謝罪する」
「殿下、もう、大丈夫ですわ」
シャルが小さく首を振られた。
ご自分の指先でドレスの裾を一度、軽く整えられる。誇り高い令嬢の癖だった。けれど今朝はその癖の先に、もっと別の言葉が控えていた。
「いや、もう一つ、伝えなければならないことがある」
殿下が一度、深く息を吸われた。
「私は、君を『婚約者』として、義務として見ていた」
お声が低くなった。
「だが、雨の渡り廊下で、君の青い瞳が雨の光に潤むのを見た」
シャルの肩がほんのわずか動いた。
「あの時、私はもう君を一人の人間として愛していたのだと、いま分かる」
殿下のお声がそこで一拍止まった。
「シャルロッテ嬢、私は、君自身を愛している」
シャルが息を呑まれた。
誇り高い令嬢の仮面がお顔の上でゆっくり、半分だけ外れていく。十六年積み上げてきた「公爵令嬢らしく」の所作が、いま殿下の言葉の前で行き場を失っていた。
「殿下……本当に?」
お声の終わりがふっと震えた。
「ああ、本当だ」
殿下がもう一歩、近づかれた。
「君の誇り高さも、不器用さも、本当の優しさも、私はもっと知りたい」
「シャル、と呼んでもいいか」
その呼び名で、シャルの仮面の残り半分もほどけた。
シャルが一度、息を呑まれた。
誇り高い令嬢の仮面がお顔の上で完全に外れる。
「殿下、わたくしも、あなたを、ずっと……」
お声がご自分でも止められないまま続いた。
「『お役目』と言いながら、本当は、あなたに愛されたいと思っていました」
「でも、自分から望むことが、許されないと思っていました」
政略結婚の駒として教えられてきた十六年が、その一言の内側でゆっくり溶けていく。
殿下がシャルの手を取られた。
シャルの指先はまだ少し冷たかった。けれどその冷たさは、誇り高い令嬢の仮面の冷たさではもう、なかった。
「シャル、これからは、君自身として生きてくれ」
「はい、殿下」
「レオン、と呼んでくれ。二人きりの時は」
シャルが一拍、その名を口の中で受けとめられた。
「……レオン」
お声の終わりが、お名前の音の上で一度、揺れた。十六年「殿下」とだけ呼んできた相手の、もう一つの呼び方。その揺れの音の上で、二人の半歩の距離が、今朝はじめて、半歩のままで温かくなった。
朝露を受けた薔薇の葉が、二人の足元で薄く光っていた。
* * *
同じ時刻、神学科の小聖堂はまだ朝の静けさの中にあった。
白い壁、高い窓、東向きの硝子を通って朝の光が祭壇の手前まで斜めに差し込んでいる。セラフィータさんは祭壇の前で膝を折り、目を閉じて、両手を膝の上で重ねていらした。朝の祈り。誰の目もない時間に彼女が毎日続けてきた所作だった。
石の扉が控えめに開いた。
黒い祭服が光の縁で揺れる。
「セラフィータさん、おはようございます」
テオドール様のお声。
セラフィータさんが膝を折ったまま目を開けられた。
「テオドール様、おはようございます」
お声は柔らかく、いつもと同じ温度だった。
セラフィータさんがゆっくりと立ち上がる。両手を膝の前で重ねて、テオドール様の方へ向き直られた。
「テオドール様、わたし、お伝えしたいことがあります」
テオドール様が一拍、息を整えられた。
「何でしょうか」
セラフィータさんが小さく深呼吸された。
「わたし、あなたのお隣にいたいんです」
テオドール様が息を呑まれた。
高い窓から差し込む朝の光が、白い壁の上で薄く揺れた。
セラフィータさんがその光の中でご自分のお声を続けられる。
「わたし、お顔の細かいところは、はっきり覚えるのが少し苦手なんですけど」
目を、ほんの一拍だけ伏せられた。それから上げられた。
「あなたのお声と、白いお召し物と、祈りの言葉と、お気配」
言葉の一つ一つを丁寧に置かれていく。
「それが、わたしの知っているテオドール様です」
テオドール様が何かを言いかけて止められた。
「それで、十分なんです。それ以上のものは、わたしには必要ありません」
セラフィータさんはそれを、誇りも卑下も混ぜずに、ただの事実として言われた。「お顔がはっきり見えない」ことを欠点として語らない。彼女の世界の見方として、そのまま差し出される。
テオドール様がしばらくお声を出されなかった。
お顔のなかで何かがゆっくり整理されていく。それから、いつもの穏やかな微笑みが戻った。
「セラフィータさん、私も、あなたが他の方と違う感じ方をする方だと、最初から知っていました」
テオドール様が一歩近づかれた。
「私は、ずっと、ここにいます」
「あなたの隣に」
二人が手を取り合われた。
セラフィータさんの感受性が、テオドール様の手のひらの温度を指先から全身でゆっくり受け止めていく。お声で、お気配で、白いお召し物の影で覚えてきた人の輪郭が、いま手のひら一枚の温度で、もう一筋、加わった。
テオドール様のお気配、わたしを安心させてくれる。一生、お隣にいたい。
朝の祈りの場所で、二人の影が敷石の上で薄く重なった。
* * *
昼前、シャルの寮室の扉が、私の前で開いた。
「ティー」
お声がいつもの私的な温度に戻っていた。
私は扉の内側に入って扉を閉めた。シャルが私の方へ歩み寄ってきて、私の両手を取った。
握り返してきた手は、今朝の庭園を出てきた直後のままだった。
冷たさが半分、温度が半分。
「ティー、レオンが……わたくしを愛していると、おっしゃってくださったわ」
お声がほんの少し震えた。今朝の庭園の朝露の冷たさの内側で、まだ温度を取り戻している途中の声だった。
「シャル、本当に良かったわね」
私はシャルの両手をもう一度、しっかり握り直した。
「全部、あなたのおかげよ。ティー、本当にありがとう」
シャルが私の手の中で少し笑われた。誇り高い令嬢の仮面のない、十六歳の素直な笑い方だった。
その笑い方を、私は十一年待っていた。十一年の地図のなかで私が見てきたシャルは、最後まで誰の前でもこんな笑い方をしなかった。地図にない笑い方を、いまシャルが私の手の中でしている。それだけで、十一年の重さが半分ほどけた気がした。
私は微笑んだ。
「シャル、これからは、あなた自身の物語を生きてね」
「……ティー、あなたの物語は?」
その問いに私は一拍、答えを探した。
十一年、シャルを救うために生きてきた。私の地図の頁の上にはずっとシャルの未来が書かれていて、私自身の頁はいつも空白だった。空白の頁を空白のまま閉じる。それで終わるはずだった。今日まではそのつもりだった。
「私の?」
私は少し笑った。
「……まあ、そろそろ考えてもいいかもね」
シャルが私の方をじっと見られた。
昨夜まで誰の前でも自分の本心を出せなかった少女が、今朝はもう、私の答えの先を読もうとしていた。立場が、半分、入れ替わりかけている。
「ティー、わたくし応援するわ」
お声がいつもより低く、優しかった。
「あなたが、あなた自身を選ぶ時を」
私は何も答えなかった。
答えるかわりにシャルの肩を一度だけ軽く抱き寄せた。シャルの肩は今朝、昨夜の謁見の間の冷たさからだいぶ離れた温度になっていた。
* * *
午後、庭園の奥の小径で私はヴィルと落ち合った。
春先の薔薇の生垣の脇、昨日と同じ死角の場所。藍色の制服の肩で、午後の光が薄く伸びていた。
「ティータ嬢」
ヴィルがいつも通り、最小限の音量で名を呼んだ。
「エヴェリン令嬢の処分が決まった」
即答だった。挨拶の代わりの即答。昨夜から数えて半日、ヴィルがこの報告を持ってくるまでの時間。短い、と思った。
「重い処分?」
「学園退学と、領地での半年間の謹慎。家の私的処分の形だ」
私は薔薇の生垣の濃い緑の方へ視線を流した。
「軽いわね。殿下のご判断?」
「ああ。罪は名誉の毀損未遂、ということになった」
ヴィルが一度、首を傾けた。報告を続けるための、いつもの仕草だった。
「家族と侍女が、彼女を支える方針らしい。父君が、自ら領地までお迎えに上がられるそうだ」
その一言で、私の胸のなかの何かが半分だけほどけた。
誇り高い公爵令嬢が領地で半年間、一人で謹慎する。その絵だけなら寒い絵だ。けれどそこに父君の姿と、侍女ベッキーの姿が一緒に置かれる。その絵はもう、寒くない。
「……それで、いいわ」
私は低く言った。
「憎しみだけで終わらせない、というのは私の最初からの願いだったから」
ヴィルが私の方をしばらく見ていた。
「あなたは、本当に、誰も切り捨てないな」
お声がいつもの簡潔さに、ほんのわずかな温度を載せていた。
私は少しだけ笑った。
「切り捨てたら、私の十一年が勿体ないでしょう」
ヴィルが何かを言いかけて止めた。
言いかけたお声の続きを、私は待たなかった。待つには、まだ私の頁が白すぎる気がした。
ヴィルもそれ以上、お声を続けなかった。
薔薇の生垣の濃い緑の上で、午後の光が二人の半歩の距離を薄く照らしていた。
* * *
夕方、私は寮室の窓辺に立っていた。
机の上には、シャルから届いた今朝の感謝の手紙と、セラフィータさんが祈祷の時間の合間に書かれたという短い便りが並んでいる。シャルとレオン殿下のこと、セラフィータさんとテオドール様のこと。今日一日で、二組の物語の頁が確かに書き換わった。
私の地図の上で、新しい頁が二つ増えた。
二人ぶんの新しい頁。
けれど、私自身の頁だけがまだ白いまま、机の上に置かれている。
私はその白さをしばらく見ていた。
十一年、シャルの未来を地図のなかで書き続けてきた。シャルの未来がいま地図の外で、シャル自身の手で書き換えられていく。同じことが私自身の頁の上でもこれから起きるのかもしれない。私の頁を白いまま閉じるのは、たぶん、もう、私の選択にない。
窓の外で、夕暮れの最初の光が寮の壁を薄く染め始めている。
その時、廊下の方から軽い足音が聞こえた気がした。
藍色の制服の足音。
いつもより、ほんの少しだけ短い歩幅。
聞こえた、というよりは、私の胸の奥で私がそう聞いた。
明日、訓練場の方へ私は自分の足で歩いていくのかもしれない。




