第18章 出発点
翌日の夕刻、私は学園の剣術場の脇の小径を歩いていた。
訓練場の白い砂が、夕日を浴びて、薄い橙に染まり始めている。剣術場の引き戸が半分だけ開いていて、その隙間から藍色の制服の肩が見えた。素振りの音はもうしていなかった。剣を一度床に置いたあとの、独特の静けさ。
昨日の夕方、私の胸の奥で聞いた藍色の制服の足音。いつもより、ほんの少しだけ短い歩幅。あれは私の聞き違いではなかった。あの足音の方角に、今日、私は自分の足で歩いていた。
訓練場の砂の脇で、私は一度だけ立ち止まった。
介入者として乱入する時の、迷いのない歩み方ではなかった。観察者として遠くから見守る時の、足を止めて呼吸を整える歩み方でもなかった。シャル以外の誰かに会いに行く時の足の運び方を、私の十一年の地図はまだ一度も書いていなかった。地図にない歩み方を、私はいま自分の足で書いていた。
昨夜、寮室の机の上に置いてあった短い書状の文字を、私はもう一度頭の中で読み返した。
ラインフェルト嬢、明日の夕刻、剣術場まで足を運んでもらえますか。藍色のインクの簡潔な一行。報告の符号ではない、私的な依頼の温度だった。
引き戸の前で、私は一度だけ息を整えた。
誇り高い令嬢の所作ではなかった。介入者として乱入する時の覚悟の整え方でもなかった。もっと別の、私の地図にこれまで一行も書かれてこなかった種類の、息の整え方だった。
* * *
引き戸を内側へ押し開けると、夕日が剣術場の床の半分まで斜めに差し込んでいた。
訓練場の砂を踏まないように敷かれた木の床。壁際の剣立てに、藍色の鞘がきれいに並んでいる。その壁を背にして、ヴィルが立っていた。
いつもの簡潔な姿勢ではなかった。
左手は剣の柄に添えるのではなく、体の脇でただ垂れていた。右手も同じ。手をどこに置くべきか、ほんのわずか、決めかねている人の立ち方だった。
「ティータ嬢」
お声の最初の音が、いつもより半呼吸ぶん遅れた。
「ご足労、感謝する」
「いいえ」
私は引き戸を内側へ閉めた。木の引き戸の閉まる音が、剣術場の高い天井の梁の下で、薄く反響した。
二人きり。
ヴィルが腰に下げていた剣を、ゆっくり外した。剣立ての一番手前に立てて、それから私の方へ正面から向き直った。
「お話があります」
お声は低かった。報告の声の低さではなく、別の方向の低さだった。
「何かしら」
私は少し笑おうとした。
「いつもより、堅い口調ね」
ヴィルが少しだけ、首を傾けた。報告を続けるためのいつもの仕草ではなかった。傾けたまま、しばらく動かなかった。
ヴィルが、深く息を吸った。
「俺は、十一年前のあの日、あなたを見た」
私の頭の中で、何かが、止まった。
十一年前。あなたを、見た?
十一年。
私が「あの日」と呼ぶ日は一つしかない。私がこの未来を目覚めたあの日。五歳の春。シャルの五歳の誕生日の昼下がりの社交場。
私の十一年の地図のなかに、私自身を見ていた人の頁は、一行もなかった。
「あの庭で銀色の少女の手を、指の付け根のあたりで半分だけ受けていたあなたの姿が忘れられなかった」
ヴィルのお声が続いた。
「あの時、俺は二階の客間の窓辺にいた。父が連れてきた社交場の場違いさに、五歳の俺は耐えられずに、窓辺に逃げ込んでいた」
窓辺。
二階の客間。
社交場の階段の途中の、北側の客間の、確か西向きの大きな窓。
「窓の下の庭で、銀色の髪の少女と栗色の髪の少女が、手を取り合っていた」
「銀の少女は誇り高い令嬢のドレスのまま、けれど一人で泣いていた」
「栗色の少女がその隣に膝を折って、銀の少女の指を、下から包むのでもなく上から握るのでもなく、指の付け根のあたりで半分だけ受けていた」
ヴィルのお声が、一度、低く揺れた。
「あの握り方を、俺は十一年、忘れたことがなかった」
私は息を呑んだ。
私が観察者で、介入者で、シャルの親友。それで、十分だと思っていた。
私の地図は、ずっと、私が誰かを見る側の地図だった。
けれどあの庭の私を、別の窓から見ていた人が、いた。
私の十一年の出発点が、誰かの十一年の出発点にも、なっていた。
夕日が剣術場の床の上で、半歩ぶん、傾いた。
「あの時、俺はまだ五歳で、何も言葉にできなかった」
ヴィルのお声が、もう一段、低くなった。
「だが、あの庭で銀の少女を支えていた栗色の少女の姿が、俺の心の奥にずっと残っていた」
ヴィルが一度、視線を床の方へ落とした。
「剣の道に進むと決めたのは、その春のことだ」
「身分や社交場の見栄ではなく、その人をその人として支える側に回りたい。そう、五歳の俺は決めた」
「あなたの握り方が、俺の出発点だった」
ヴィルのお声が、そこで一拍、止まった。
「そして入学の日の講堂であなたを見た瞬間、俺は、あの庭の少女だと分かった」
「分かった、と言うより、思い出した」
「十一年前から、俺は、あなたを知っていた」
ヴィルが、もう一歩、私の方へ進んだ。
半歩ではなかった。
今までの薔薇の生垣の脇でも、警備の符号を送り合う廊下でも、ヴィルが私との間に置き続けてきた半歩の距離。その距離をヴィルがいま、自分の足で超えてきた。
「ティータ・ラインフェルト嬢」
お声がはっきりした。
「俺は、あなたを愛しています」
「あなたを、一生、守らせてください」
* * *
私は、しばらく、お声を出せなかった。
言葉が、出てこなかったのではない。
言葉を、私はずっと、私自身のためには持っていなかった。
十一年、私はシャルを救うために生きてきた。私の地図のすべての頁の上に、シャルの未来が書かれていた。私自身の頁は、いつも空白だった。空白の頁を空白のまま閉じる。それで終わるはずだった。昨日まで、そのつもりだった。
その空白の頁の上に、いまヴィルの声が一行、書かれた。
書いたのはヴィル自身だった。
私ではなかった。
私の頁の上に、私以外の人が、十一年前から一行を書き続けていてくれた。
そのことを、私はいま、初めて知った。
観察者で介入者でシャルの親友。それは私が私自身に与えてきた肩書きだった。十一年、私はその肩書きの下でだけ動いてきた。シャルを見る側、未来を組み替える側、誰かを救う側。私が誰かに見られる側に回るという発想は、私の地図にも、私の言葉にも、なかった。
けれど、いまヴィルが言った「あなたの握り方が、俺の出発点だった」は、私の十一年の地図の出発点の頁を、ヴィルの十一年の地図の出発点の頁と、同じ場所で結びつけている。
私の出発点が、誰かの出発点でもあった。
その「誰か」が、いま、私の目の前に立っている。
私は一度、目を伏せた。
頬が、熱くなっていた。
誇り高い令嬢の所作で隠せる温度ではなかった。
私はゆっくりと、目を上げた。
「ヴィルマール様」
お声を出した。
お声の最初の音が、私の喉の奥でも揺れた。
「私も、あなたを愛しています」
ヴィルが息を呑んだ。
「私、自分の幸せなんて、考えたことがなかったの」
私はそのまま続けた。
「シャルを救うことが、私の全てだと思っていた」
「シャルの未来を書き換えれば、私の役目は終わると思っていた」
「でも、あなたといると私も幸せになっていいんだ、と思えるの」
私の頬の温度が、一段、上がった。
ヴィルが、ほんの少しだけ、微笑んだ。
彼にしては珍しい笑い方だった。報告の符号でも、警備の硬さでもない、ただの十九歳の青年の笑い方。
「ありがとう、ティータ嬢」
お声が、いつもの簡潔さに、確かな温度を載せていた。
「あなたを、必ず、幸せにします」
私は涙が一筋、流れるのを感じた。
拭うかわりに、私は笑った。
「ヴィルマール様、これからはティー、と呼んで」
ヴィルが少しだけ驚いた顔をした。
「ティー、と呼ぶのは、シャルロッテ様だけと聞いたが」
「シャルだけ。だから、あなたにも、特別に許可するの」
「光栄だ」
ヴィルが、その名を、口の中で一度だけ受けとめた。
「……ティー」
ヴィルが私の手を取った。
昨夜まで警備の符号を送り合う手だった右手がいま、騎士の礼の形で私の手を持ち上げた。手の甲の上で、ヴィルが唇を一度だけ寄せた。
私の心臓が、大きく跳ねた。
* * *
剣術場を出て、二人で学園の庭園を並んで歩いた。
夕日が薔薇の生垣の上で、長く伸びていた。
半歩の距離は、もう、半歩ではなかった。並んで歩く距離。同じ歩幅で、同じ速度で、夕日の方へ進む距離。
二人とも、しばらく、お声を出さなかった。
気まずさではなかった。お互いがお互いの隣にいることを、お声を出さずに確かめている時間だった。
「ティー」
ヴィルが、ようやく、その名を呼んだ。
「君は、シャルロッテ様を救うために、ずっと一人で戦ってきた」
お声が低かった。
「これからは、俺が、君の盾になる」
盾。
その一言の意味を、私は薔薇の生垣の濃い緑の上で、しばらく受け止めていた。
十一年、私はシャルの盾だった。シャルの未来の前に自分の体を置いて、決められた未来から彼女を守る役。盾の側に立ち続けてきた人間は、自分が誰かの盾の内側に入る感覚を、ほとんど忘れている。
いま、ヴィルが、私の盾になる、と言った。
誇り高い令嬢の所作で受け流せる言葉ではなかった。
観察者の構えで聞き流せる言葉でもなかった。
私は少しだけ、笑った。
「ヴィル」
その愛称が、私の口から、初めて出た。
ヴィルが、ほんの一度だけ、嬉しそうに頷いた。学年末舞踏会の夜、謁見の間の入口の脇から私の方へ向けた、あの私的な頷き方と同じ角度。あの夜、私の十一年地図のなかでまだ書き切られていなかったヴィルの頁の最初の一行が、いま二行目になった。
夕日が二人の影を、庭園の小径の上で長く一つに伸ばしていた。
* * *
夜、寮室に戻って、私は机の前に座った。
机の上に、便箋を一枚、置く。
シャル宛て。
私が書く手紙のほとんどはシャル宛てだ。けれど今夜の手紙は、いつもの内容ではなかった。
シャル、わたくし、見つけたわ。
書き出しの一行を書いてから、私は手を止めて、最初の三文字を丁寧に消した。
シャル、私も、見つけたわ。
書き直した。
私の隣にいてくれる人を。
ヴィルマール・ファルケンハイン様。彼が、私の騎士。
十一年前のあの庭の私を、二階の窓辺から見ていた人。私が銀の少女の指を半分だけ受けていたあの姿を、彼は十一年、忘れずにいてくれた。
私の地図の頁の上に、十一年前から一行を書き続けていてくれた人だった。
便箋の上で、私の文字が、いつもより少しだけ揺れた。誇り高い令嬢の筆跡ではなかった。観察者の筆跡でもなかった。私自身の、十六歳の少女の筆跡だった。
私は便箋を畳んで、封筒に入れた。
封筒の宛名を書く時に、私は一度だけ、笑った。
翌朝、シャルから返事が届いた。
深い藍色のインクの、いつもの筆跡。けれど一行目から、もうシャルの誇り高い令嬢の口調ではなかった。
ティー、本当に良かった、と最初の一行に書かれていた。シャルが感嘆符を一つ添えていた。シャルが感嘆符を使った手紙を、私は十一年、受け取ったことがなかった。わたくしも心から喜んでいるわ。これからは、二人で幸せになりましょうね。あなたがわたくしのためにずっと一人で戦ってくれたこと、わたくしは生涯忘れないわ。
私は便箋を一度、胸に当てた。
* * *
その夜、寮室の窓辺で、私は夕暮れの最後の光を見ていた。
頬がまだ、少しだけ熱かった。
机の上には、シャルからの返事と、もう一通別の封書が置かれていた。
藍色のインクの簡潔な筆跡。ファルケンハイン家の家紋の蝋印。
ヴィルから今日届いた短い書状で、伯爵家のお父様が近いうちにラインフェルト侯爵家のお屋敷まで挨拶に来てくださるという内容だった。ファルケンハイン伯爵閣下が、ヴィルの進路をずっと見守っていらしたこと。「相手のお方のいまの戦いを、まずは見極めよ」と、ヴィルへの手紙にお書きになっていらしたこと。
私はその一行を、もう一度、目で追った。
いまの戦い。
ファルケンハイン伯爵閣下は、私の戦いを、遠くから見ていてくださった。私の戦いの中身を知らずに、けれど誰かの戦いを軽々しく扱わない人の慎重さで、息子の進路を支えていてくださった。
私の十一年の地図の、私自身の頁の上に、新しい一行が増えた。
ヴィルだけではなかった。
ヴィルのお父様も、私の地図の外から、私のことを見ていてくださった人だった。
決められた未来は、もう、私を縛らない。
これから書かれていくのは、私たちの物語。
私の地図の頁の上に、私が一人で書く頁はもう一頁もなかった。




