第19章 窓辺
学園を卒業してから、三週間が過ぎていた。
ヴェルテンベルクの王都の春は、空の色をひと段、明るい方へ動かしていた。雪解けの最後の冷たさが王立教会の石畳の隙間からまだうっすら立ち昇っていたけれど、その上を歩く人々の足取りは、もう冬のものではなかった。
王立教会の大聖堂の高い天井の下で、私は参列席の一角に座っていた。
胸の奥が、静かに鳴っている。緊張ではない。十一年待ってきた光景の最後の一頁を、目で受け止めるための呼吸の整え方だった。
大聖堂の中央の通路の先、祭壇の前にシャルが立っていた。
純白のドレス。銀色の髪を高く結い上げ、頭の上には公爵家の紋を縫い取った白いベール。ベールの裾は祭壇の段の上まで長く伸びていて、白百合の花びらの色とほとんど見分けがつかない。
その隣にレオンハルト殿下が並んでいらした。
王太子の正装の濃い藍色。胸の勲章が朝の光を一度跳ね返した。
* * *
上位の神官が、二人の前で祝福の口上を述べていた。
穏やかで、低く、よく通るお声。神官の手が二人の頭の上で静かに祈りの形を結んだ。
「ヴェルテンベルク王国第一王子レオンハルト殿下と、ヴァイセンベルク公爵令嬢シャルロッテ・アデルハイト殿との縁を、神々の前にて、ここに正式に宣する」
神官の朗誦が、高い天井の梁の下で薄く反響した。
レオン殿下が、シャルの方へ正面から向き直られた。
「シャルロッテ・アデルハイト・フォン・ヴァイセンベルクを、私の妃として迎える」
お声がはっきり、大聖堂の隅まで届いた。
シャルが一度、深く呼吸をした。
純白のベールの下で、シャルの肩がほんのわずかに揺れた。誇り高い令嬢の所作の揺れではない。私の親友としての、十六歳の少女の揺れだった。
「殿下、わたくし、生涯、あなたのお側に」
シャルのお声は澄んでいた。
学年末舞踏会の夜の謁見の間で殿下に膝を折ったあの時のシャルのお声よりも、今日のお声は一段、地に届いていた。誇り高い令嬢の声ではなく、自分の意思で並ぶことを選んだ女性の声だった。
二人が手を取り合った。
参列席で拍手が静かに広がっていった。
私の頬が熱くなって、目の縁に水が浮いた。
シャル、おめでとう。本当に、本当に、良かった。
学園入学の最初の朝、寮室の小机の上で誇り高い令嬢の仮面を一度だけ脱いだシャルが私の手を取って言った絶望の声。あの声を、私は十一年の地図の頁の最初の一行に書きつけたまま、ずっと持ち歩いてきた。その頁が、いま、別の頁に書き換えられていた。書き換えたのはシャル自身だった。私ではなかった。私はただ、その頁の余白に小さな枠を一つ用意しただけ。書き込んだのはシャルご自身のお声と、レオン殿下のお声と、二人の手の重なりだった。
* * *
同じ刻、王立教会の小聖堂では、もう一つの祝福が行われていた。
大聖堂と回廊で繋がれた一回り小さな祈りの間。深い色の木組みの天井と、東向きの細い縦長の窓。窓の硝子越しに春の光が床の石の上に長い縞を落としていた。
石造りの祈祷台の前に、テオドール様が立っていらした。
深い焦げ茶色の司祭の祭服。胸元に小さな銀の十字。ご就任の祝福を受けていらっしゃる最中だった。お顔は穏やかで、いつもの説教の時とお変わりがなかった。
その隣にセラフィータさんが立っていた。
白い祈り手のローブ。両手を胸の前で静かに結んで、目を伏せていた。耳に届かない誰かの息遣いを聴く時の、彼女の十六歳の祈りの姿勢だった。
司祭就任の祝福が結ばれた後、テオドール様がセラフィータさんの方へ静かに向き直られた。
「セラフィータ嬢」
お声は穏やかだった。
「これからの教会の祈りの務めを、私と共に、ここでお願いできますか」
セラフィータさんが、ゆっくりと目を開けた。
午後の窓の光が、彼女の薄い金色の睫毛の上で一度だけ光った。
「はい、テオドール様」
短い、けれど確かなお声だった。
二人が並んで祈祷台の前に膝を折った。
石造りの小聖堂の中で、二つの祈りが、同じ高さで、ゆっくり結ばれていった。
* * *
大聖堂の儀式が終わって、私は馬車でラインフェルト侯爵家の屋敷へ戻った。
屋敷の応接間は、いつもより念入りに整えられていた。
壁際の銀の燭台が午後の光を受けて、深紅の長椅子の生地の上に小さな模様を落としていた。父と母が長椅子の手前側に並んで座っていて、その向かい側の長椅子には誰も座っていなかった。お客様のためにあけてある席だった。
私は父の隣に腰を下ろした。
「お父様、ご機嫌よう」
「ティータ。今日のシャルロッテ嬢の婚礼の宣下、よかったね」
父のお声は穏やかだった。
母が私の方を見て、一度だけ静かに微笑んだ。
屋敷の家令が応接間の扉のところでお辞儀をした。
「ファルケンハイン伯爵家ご子息、ヴィルマール様、ご到着でございます」
私は背筋を整えた。
誇り高い令嬢の所作ではない。私自身の十六歳の所作で、私はヴィルを迎える準備をした。
扉が静かに開いて、ヴィルが応接間に入ってきた。
深い藍色の正装。ファルケンハイン家の家紋の小さな銀の留め金が胸元で光った。
左手は剣の柄に添えるためではなく、まっすぐ体の脇に下りていた。右手も同じだった。私の前に立つ時のヴィルの手の置き方を、彼はもう迷っていなかった。
「ラインフェルト侯爵閣下、奥様」
ヴィルが父と母に深いお辞儀をした。
「ご挨拶に伺いました」
お声は低く、けれど揺れがなかった。
「ヴィルマール殿、よくいらっしゃった」
父がお声を返された。
ヴィルが体の向きを変えずに、もう一言続けた。
「私の父、ファルケンハイン伯爵からも、近日中に正式なご挨拶を、と申しつかっております」
父が一度、ゆっくり頷かれた。
「ファルケンハイン伯爵殿には、以前、社交場でお目にかかったことがある」
父の言葉は短かった。
「寡黙だが、まっすぐな方だ」
寡黙だが、まっすぐな方。
その一言を、私は父の隣の長椅子の上で受け止めた。
訓練場の砂の脇でヴィルが私に開示してくださった、藍色のインクの短い一行。「相手のお方のいまの戦いを、まずは見極めよ」とお書きになった人。私の戦いの中身を知らずに、けれど誰かの戦いを軽々しく扱わない人の慎重さで、息子の進路を遠くから支えていらした人。父が「寡黙だが、まっすぐ」と評するその静かな筆跡の主が、近日中にこの屋敷の応接間にいらっしゃる。
ヴィルが、もう一度、父の方を向いた。
「父も、貴家との縁を、心から望んでおります」
ヴィルのお声に揺れはなかった。
「私自身は、ティータ嬢を、一生、お守りいたします」
父が短く頷かれた。
「結構。娘のことを、よろしく頼む」
母が手のひらを軽く膝の上で重ねて、私とヴィルの方を見比べた。
「あなた、本当に頼もしい騎士ね」
母のお声に、私は少しだけ笑った。
応接間の長椅子の上で、私の十一年の地図の頁の上に、また新しい一行が増えていく音がした。
学園入学の春の朝、私はこの屋敷の窓辺から、十一年見守ってきた未来の動き出しを一人で受け止めていた。あの朝のティータが今日のこの応接間を見たら、自分の隣にどなたが座っていらっしゃるかを、おそらく一行も予想できなかった。私の地図の余白の一番外側に、ヴィルマール・ファルケンハインというお名前は、たった三週間前まで一文字も書かれていなかった。
ヴィルが、私の方を一度だけ見た。
報告の符号でも、警備の硬さでもない、私的な視線。学年末舞踏会の夜、謁見の間の入口の脇から私の方へ向けてくださった、あの私的な頷きと同じ角度の視線だった。
私はその視線を、誇り高い令嬢の所作ではなく、十六歳の少女の頬で受け止めた。
* * *
翌日の昼下がり、私はヴァイセンベルク家の屋敷を訪ねていた。
公爵家の本邸の中庭に面した談話室。窓辺に三人分の長椅子が低く並べられていて、磨き上げられた小机の上に薄い茶色の紅茶が湯気を立てていた。
シャルが中央の長椅子に座っていた。
今日のシャルは公爵令嬢の正装ではなくて、淡い水色の昼間用のドレス。銀色の髪を緩く結っただけの、私的な姿だった。
その隣にセラフィータさんが座っていた。
白い祈り手のローブの上に、薄い羽織りもの。両手で紅茶のカップをそっと受けていた。
私は二人の向かい側ではなく、シャルの反対側の長椅子に腰を下ろした。三人が三角形の頂点を作るのではなくて、横に並ぶ形に近かった。
「ティー、セラフィータさん」
シャルが私とセラフィータさんを順に見た。
「二人がいてくれて、わたくし、本当に幸せ」
シャルのお声は静かだった。
「シャル」
私は紅茶のカップを小机に置いた。
「あなたが幸せそうで、私も嬉しいわ」
セラフィータさんが、両手で紅茶のカップを胸の前まで持ち上げて、少しだけお辞儀をした。
「お二人とも、本当におめでとうございます」
彼女のお声は穏やかで、誰の耳の奥にも届く高さだった。
しばらく、三人は紅茶を飲んでいた。
窓の外で午後の鳥がひと声鳴いて、すぐに静かになった。シャルの右手の指先が、紅茶のカップの縁を一度、軽く撫でた。
シャルが、ゆっくりと顔を上げた。
私の方を見て、それからセラフィータさんの方を見た。
二人の顔を、シャルが一度ずつ、丁寧に見比べた。
誇り高い令嬢の視線の動かし方ではなかった。自分の言葉をこれから二人に向けて言うために、誰の顔も飛ばさないようにする、十六歳の少女の見比べ方だった。
「わたくし」
シャルのお声が、応接間の窓辺で、はっきり結ばれた。
「王太子妃となっても、二人を忘れません」
その一言が、午後の光のなかで、まっすぐ届いた。
私は息を一度、深く吸った。
政略結婚の駒。それが、わたくしの役割。
学園入学の最初の春に、寮室で誇り高い令嬢の仮面を脱いだシャルが私に零した、あの絶望の一言。あの少女が、いま自分の意思で、忘れない、と言える人になっていた。
「もちろん」
私は紅茶のカップを取り上げて、シャルの方を見た。
「これからも、私たちは親友よ」
セラフィータさんが、白いローブの胸元で両手を一度、静かに重ねた。
「わたしも、お二人のお気配を、ずっと感じています」
彼女のお声は祈りの高さだった。
シャルが両手を私とセラフィータさんの方へ、それぞれ伸ばした。
私の手とセラフィータさんの手が、シャルの両手のなかで一度、結ばれた。
三人分の手の温度が、午後の窓辺の光のなかで、ゆっくり一つになっていった。
全員、幸せになった。
誰も犠牲にしなかった。
決められた未来を、私たちは、組み替えた。
* * *
手を結んだまま、しばらくの間、三人は何も話さなかった。
窓の外で別の鳥がもう一度鳴いた。
シャルが、紅茶のカップに視線を落とした。
「エヴェリン様」
その一言を、シャルが口に出した。
私は背筋をほんの少しだけ、整え直した。
「領地で謹慎中だそうね」
シャルのお声には、棘がなかった。
「お元気だといいけれど」
午後の窓の光のなかで、シャルがその名を呼んだことの重さを、私はゆっくり受け止めていた。
「家族の方々が、彼女を支えていらっしゃるそうよ」
私はそのまま続けた。
お父様の手紙では、エヴェリン様のお母様が領地の屋敷で、エヴェリン様のお側に毎日いらっしゃるという内容だった。
シャルが小さく頷いた。
「いつか」
シャルがゆっくり、お声を結んだ。
「もう一度、お会いできる日が、来るかもしれないわね」
午後の窓の光が、シャルの薄水色のドレスの上で、一度だけ揺れた。
私は紅茶のカップを置いた。
「そうね」
お声を返した。
「その時は、もう一度、お話ししましょう」
セラフィータさんが、両手の指を胸の前で結び直した。
「エヴェリン様のお気配にも、本当は、寂しさがありました」
彼女のお声は穏やかだった。
「いつか、その寂しさが癒える日が来ますように」
彼女が静かに目を伏せた。
祈りの形ではなかった。祈りよりも近い、人としての願いの形だった。
* * *
午後の光が一段、傾き始めていた。
三人は窓辺へ場所を移した。
ヴァイセンベルク家の中庭に面した大きな縦長の窓。窓硝子の向こうで、夕陽が公爵家の樫の木の梢を、深い橙色に染めていた。
シャルが中央。
私が右側。
セラフィータさんが左側。
窓辺に三人が並んだ。
三人分の影が、磨き上げられた寄木の床の上で、横に長く一つに伸びていた。
誰も、しばらくお声を出さなかった。
窓硝子の冷たさが、肩のあたりにほんのわずか伝わってきていた。冬の終わりの最後の冷たさ。けれどその冷たさの上に、これから始まる季節の予感の方が、もう一段、上に乗っていた。
窓の向こうの夕陽が、樫の木の梢から、屋敷の屋根の縁へ、そして三人の影の長さの中へ、ゆっくり降りてきていた。
三人で組み替えた未来。
これは、誰かに決められた物語の続きではない。
私たちが選んだ、私たちの物語。
夕陽が、窓辺の三人を、長く、長く照らしていた。




