第20章 方角
婚礼の宣下から二月が過ぎていた。
ヴェルテンベルク王都の街路樹は、季節の真ん中の濃い緑をすでにまとっていた。王宮の塔の高い窓硝子が午後の光を遠くまで跳ね返している。
その王宮の北棟の応接の間で、シャルが穏やかに笑っていた。
淡い水色の昼間用のドレス。銀色の髪を高く結い上げ、額の上で銀の細い髪飾りを一つ控えめに留めている。シャルの周りに数人の宮廷の女性が囲んでいた。位の高い夫人方の中にはシャルの伯母にあたる方もいらした。
夫人方が一斉にお声をかけられても、シャルは一人ずつ丁寧にお声を返していた。誇り高い令嬢の鋭さはお声の奥にもうなかった。代わりに相手のお声の高さに合わせる柔らかさが、シャルの返事の中に静かに置かれていた。
応接の間の入口にレオン殿下が立っていらした。
藍色の上衣の肩を扉の柱に半分だけ寄せて、シャルの様子を遠くから見ていらした。婚約者のシャルが王宮の女性方の輪の中で自分の声を立てる場面を、殿下は急いて遮らずに、ただ柱の脇で見守っていらした。
「シャル」
夫人方が部屋を辞された後、殿下がシャルに歩み寄られた。
「君の今日の表情、とても美しい」
お声は短かった。
「ありがとう、レオン」
シャルが殿下の方へ振り向いた。
応接の間の高い窓から午後の光が二人の肩の上に斜めに差していた。
シャルの右手が、殿下の上衣の袖の縁を、指先で軽く受けた。誇り高い令嬢の所作の指先の動きではなくて、夫となる方の隣にいることを確かめるだけの、十六歳の少女の動きだった。
わたくし、変わったわ。
シャルは胸の奥でその一行をそっと結んだ。
ティーとセラフィータさんがわたくしを変えてくださった。
* * *
同じ刻、王立教会の小聖堂の長椅子に、テオドール様とセラフィータさんが座っていらした。
午前の祈り手の務めが、ちょうど結ばれたところだった。
石造りの小聖堂の長椅子に身を寄せて、セラフィータさんは両手の指を胸の前で静かに重ねていた。彼女のローブの裾が、長椅子の脚の脇で静かに膨らんで、また落ち着いた。
石の床に午前の鐘の音の最後の余韻が、薄く残っていた。
テオドール様が、隣のセラフィータさんの手の上に、ご自身の手をそっと重ねられた。
司祭の手だった。けれど祝福の形ではなくて、十六歳の彼女の手をただ受け止めるだけの形だった。
「お疲れになりましたか」
お声は穏やかだった。
「いいえ、テオドール様」
セラフィータさんが、ゆっくり目を開けた。
「今朝の祈りの時、ある奥様のお気配が、少しずつ温度を取り戻していくのを感じました」
彼女のお声の奥に、祈り手としての静かな喜びがあった。
テオドール様のお気配、いつも温かい。
彼女は胸の奥でそう結んで、もう一度静かに目を伏せた。
わたしは、幸せです。
* * *
同じ日の午後、ラインフェルト侯爵家の領地の街道を一台の馬車がゆっくり進んでいた。
馬車の窓の外で、領地の麦畑の若い葉が、風で一斉に同じ方向へ揺れていた。
馬車の中で、私はヴィルと向かい合わせに座っていた。
ヴィルが私の左手を、自分の右手で軽く受けていた。指を絡める形ではなくて、手のひらの下からだけ半分だけ受ける形。学園の薔薇の生垣の脇から、ヴィルの手の置き方は変わっていなかった。
「ティー、これからも、よろしく頼む」
お声は短かった。
「ヴィル、こちらこそ」
私もお声を短く返した。
馬車の中で長い時間、私たちは黙っていた。
気まずさではなかった。話さない時間を二人で並んで過ごせる関係が、私たちの間にもう成立していた。
領地の村の入口を通る時、村の女の人たちが私の馬車を見つけて頭を下げて挨拶してくれた。
私は窓を少し開けて、丁寧に手を振り返した。
手を振り返す右手の感覚を、私はまだ慣らしている途中だった。学園の三年間、私の右手はずっとシャルの手を受ける側だった。誰かに振る側の右手の動かし方を、私はいま、領地の若い葉の揺れる方向を見ながら一つずつ覚え始めていた。
領地の見習い令嬢としての私の頁が、ゆっくり書き始められていた。
* * *
同じ刻、王都から遠く離れた東方の山あいに、モルゲンシュタイン伯爵家の領地の屋敷があった。
屋敷の小さな応接の間で、エヴェリン様が長椅子に腰を下ろしていらした。
窓の外は夏の盛りの緑だった。
午後の光が、薄い水色のドレスの肩の縫い目の上を、ゆっくり横切っていく。
エヴェリン様の前の小机の上に紅茶のカップが一つ。隣の椅子にエヴェリン様のお母様がお座りになっていた。長椅子の脚の脇に侍女のベッキーが両手で銀の紅茶ポットを受けて立っていた。
お母様がエヴェリン様の右の肩の上にそっと手のひらを置かれた。
二月。
謹慎の地で、お母様のその手のひらがエヴェリン様の肩に置かれていた二月。
ベッキーがエヴェリン様の紅茶のカップに、ポットの先からゆっくりお湯気を注ぎ足した。お湯気の白い筋が午後の光のなかで一度だけ膨らんで、それから消えた。
「エヴェリン」
お母様のお声は静かだった。
「これからもわたくしたちは、あなたを支えるわ」
手のひらの温度が、薄い水色のドレスの肩の縫い目の上から、エヴェリン様の中へゆっくり染み込んでいった。
ベッキーが紅茶のカップを小机の上にそっと戻した。
「お嬢様、わたくしも、ずっとお側に」
ベッキーのお声は低くて、けれどはっきりしていた。
エヴェリン様の右の肩に置かれたお母様の手のひら。
左の小机の上のベッキーの紅茶のカップ。
二つの温度が、エヴェリン様の身体の両側から、彼女のなかへ同時に届いていた。
学園の社交場の華やかな夜会の階段の上で、誰一人としてご自身の右の手のひらに触れてこなかった令嬢のお肩に、いま、お母様の手のひらがあった。
誰の腕の下にも掴まらずに上った夜会の階段。誰の手のひらにも触れずに下りた夜会の階段。あの夜会の階段の冷たさをずっとお身体の片側に抱えていらした令嬢の身体の同じ側に、いま、温度があった。
エヴェリン様の頬を、涙が一筋流れた。
「お母様」
エヴェリン様のお声は震えていた。
「ありがとう」
もう一筋、涙が流れた。
「ベッキー、ありがとう」
お母様がエヴェリン様の肩の手のひらを、ほんの少しだけ強く置き直された。
わたくしを、見ていてくださる人がいる。
エヴェリン様は胸の奥でその一行を結ばれた。
わたくしは、一人ではなかった。
涙の上にもう一行が静かに重なった。
シャルロッテ様、わたくしは、間違っていました。
エヴェリン様が、窓辺の方へゆっくり視線を向けられた。
夏の盛りの空を、東方の山の稜線が長く支えていた。
いつかもう一度お会いできるなら、その時は本当の心で、お話しさせてください。
お声には出さなかった一行だった。
午後の窓辺で空の青が、その一行を静かに受け止めていた。
* * *
夕刻、私はラインフェルト侯爵家領地の屋敷の二階の窓辺に立っていた。
領地の野が、夕陽の橙色のなかで、長く広がっていた。
西の地平線のすぐ手前に、麦の若い葉が一斉に同じ方向へ揺れる帯があった。その帯の上で、夕陽が一度だけ大きく息を吸って、ゆっくり地平線の方へ降りていく。
私の隣にヴィルが立っていた。
半歩の距離は、もう、半歩ではなかった。並んで立つ距離。同じ歩幅で、同じ速度で、夕陽の方を見る距離。
私は十一年、決められた未来を知ったまま、シャルを救うために生きてきた。
胸の奥で、その一行を、私は静かに置き直した。
結果的に、シャルだけではなかった。セラフィータさんも、レオン殿下も、ヴィルも、テオドール様も、エヴェリン様も、それぞれの仕方で、それぞれの場所で、ご自身の頁を書き始めていらした。私が組み替えた、というよりも、私が小さな枠を一つずつ用意して、書き込んだのはそれぞれの方ご自身、というのが、いま振り返るとほんとうの順番だった気がする。
地図、と私は呼んできた。
十一年、私の地図の頁の上にはシャルの未来の各場面が書き込まれていた。今日この夕陽の窓辺の頁は、私の地図にはなかった頁だった。明日からのすべての頁が、私の地図にはなかった頁になる。
シャルが王太子妃の友人として私に届ける、銀のインクの便りの文字。
セラフィータさんが小聖堂で結ばれる祈りの声。
ヴィルが朝、領地の馬の様子を見に厩舎の方へ歩いていく、その足音。
全部、私の地図には書かれていなかった、新しい未来。
地図の頁は、もう、私が書く頁ではなくなっていた。私の地図の上にこれから書き込まれていく文字は、シャルの筆跡で、セラフィータさんの祈りの結び目で、ヴィルの剣の柄を受ける右手で、テオドール様の説教の声で、エヴェリン様のお母様の手のひらの温度で、それぞれ書かれていく。書く側にいた私が、書かれる側に回る。十一年の地図の最後の頁が、いまこの窓辺で、ゆっくりめくれていった。
私は窓辺で、軽く息を吸った。
* * *
その朝、王宮から銀のインクの便りが届いていた。
シャルからだった。
ティー、エヴェリン様の様子、お母様から聞いたわ。彼女、少しずつ変わってきていらっしゃるそうよ。いつか、もう一度、お茶会を開きましょうね。あなたとセラフィータさんと、エヴェリン様も交えて。
短い便りだった。
けれどその短さの中に、シャルが学園入学の春に「政略結婚の駒」と零したあの絶望のお声から数ヶ月を経た今のシャルが立てる声の高さの全部が、書き込まれていた。
私はその便りを胸に当てて、笑った。
シャル、あなたは、本当に、お優しいわ。
全員、ハッピーエンド。
これで、完成。
* * *
窓辺で、ヴィルが、ゆっくり東の方角の空を見た。
「ティー」
お声が低かった。
「あの空の方角に、王宮があるな」
「ええ」
私もその方角を見た。
遠くの空の下で、王宮の塔のいちばん高い頂が、夕陽の最後の橙色を、長く受けていた。
「あの塔の向こうに、シャルがいるのね」
お声を返した。
「ああ」
ヴィルが頷いた。
もう一つ、別の音が、領地の屋敷の鐘楼から響いてきた。
夕の鐘の音。
領地の小さな教会の鐘の音だった。けれど私の耳の奥で、その鐘の音は、王立教会の小聖堂の朝の鐘の音と、同じ高さで重なった。
「ヴィル、聞こえる」
「ああ」
「あの鐘の音の向こうに、セラフィータさんがいる」
「ああ。彼女の祈りの場所だな」
ヴィルのお声は短かった。
二人で、東の空をしばらく見ていた。
夕陽が領地の野を、長く照らしていた。
* * *
私は窓辺で深く息を吸った。
私たちの物語は、ここから始まる。
全員ハッピーエンドの、その先へ。
私は半歩、ヴィルの方へ寄った。
ヴィルが私の左の手をご自身の右手で受けた。
指を絡める形ではなかった。
指の付け根のあたりで、半分だけ受ける形。
学園入学の春の社交場の庭で、十一年前の私がシャルの手を受けたあの握り方を、いまヴィル自身が、ご自身の手で、私の手の下に置いていた。
あの庭で五歳の私がシャルに差し出した握り方を、五歳のヴィルが二階の窓辺から見ていた。あの窓辺の五歳の少年が十一年を経て、いま私の隣に立っていらした。あの庭の私の握り方を、ヴィル自身の手のなかで、十一年越しに受けてくださっていた。
私の十一年の出発点が、ヴィルの十一年の出発点と、いま同じ高さで結ばれていた。
夕陽が二人の影を、領地の野の上で、長く一つに伸ばしていた。




