第8章 祈り
神学科の合同講義の日だった。
学園には学科ごとの専門講義のほかに月に一度、全学科合同で行われる神学の公開講義がある。学園の生徒であれば誰でも聴講できる教義の入門編のような時間だった。私は午後の課業を一つ繰り上げてもらって、講堂の後ろの席に滑り込んだ。
目当ては、聴講ではない。
神学科の最前列、白い詰め襟の祭服を着た少女の小さな背中だった。
セラフィータさんはたぶん、講義のために神経を擦り減らしているはずだ。神学の場には祈りと教義と、それから祈祷者たちのいろいろな感情が、空気のなかにぎっしりと詰まっている。
その隣に、もう一人、私の目当てがいた。
神学科の三回生、テオドール・ベルガー様。
黒い祭服、丁寧に切り揃えられた前髪。背筋がまっすぐで肩の力がほどよく抜けている。先輩聖職者見習いとして、後輩の指導も担っているのだとセラフィータさんから聞いていた。
その彼が今日、初めての公開講義で、補佐席に控えている。
「次回の祈祷文の解釈について、後輩諸君と少し時間を取りたいと思います」
壇上の老教授が、終わりにそう告げた。
補佐席のテオドール様が、生徒たちにゆっくりと一礼する。
その所作が、講堂の天井から差す陽光のなかに、静かに収まった。
* * *
セラフィータの席は、最前列の左端だった。
講義のあいだ、彼女は背筋をまっすぐに伸ばして教授の言葉をひとつひとつ聴いていた。けれど聴いていたのは、教授の声だけではなかった。
講堂のうしろの方の席で、誰かが小さく咳をする。その咳の奥にある、苛立ち。
隣の席の先輩が、祈祷文の頁を捲る。指先のかすかな迷いと、教義への純粋な熱。
壇上の教授の声の奥には、長年祈り続けてきた人の静かな疲労。
声が気配が感情が、ぜんぶ、セラフィータの背筋のあいだから入って胸の奥に沈んでくる。
いつものことだった。
神学の場は特に強い。だから講義が終わる頃には、いつもセラフィータは少しだけ呼吸が浅くなる。
今日、その息苦しさのなかに、一つだけ違う声があった。
壇上の教授の補佐席。
テオドール様の祈りの声だった。
講義のあいだ、テオドール様は二度ほど教授に促されて短い祈祷文を唱えた。澄んだ声、無理のない発声。一語一語を丁寧に置く読み方。声の奥に流れているお気配は温かくて静かだった。
その声を聴いていると、セラフィータの胸の奥に詰まっていた他の感情たちが、少しだけ薄まる。
あの方のお声、温かい。
お声の奥にも、無理のない静けさが、流れている。
セラフィータは、自分の手を膝の上で軽く重ねながら、その声の余韻を心の中に留めようとしていた。
* * *
講義のあと、講堂の出口で、セラフィータさんはテオドール様に呼び止められた。
私は少し離れた廊下の柱の陰から、その様子を見ていた。野次馬ではないと自分に言い聞かせながらも、視線だけはしっかりと向けていた。
「セラフィータさん」
テオドール様の声。
「今日の講義はいかがでしたか」
「はい、勉強になりました」
「お祈りの形が、とてもお美しい。生まれつき、強い力をお持ちのようですね」
セラフィータさんが、頬を染めて頭を下げる。
テオドール様は、その様子を穏やかに見守っていた。視線が上から品定めするような重さを持たない。誰かを見てただその誰かであることを認めている、という種類の視線だった。
「もし宜しければ、王立教会の小聖堂をご案内しましょうか」
「ぜひ、お願いします」
二人の声が、午後の廊下のなかに、静かに重なる。
私は柱の陰で小さく息を吐いた。私の方からはもう、何もしない方がいい場面だった。あの二人は私の地図のなかでは出会うはずがなかった二人だ。出会わせたのは私の介入ではない。セラフィータさん自身が神学科を選んだという、彼女自身の選択の結果だった。
ノートには、後で書き込めばいい。
私は柱の陰から離れ、別の用事を作って、廊下の反対側へ歩き始めた。
* * *
王立教会・小聖堂。
小聖堂は学園の敷地の端、王立教会の本堂から少し外れたところに建つ小ぶりの礼拝堂だった。中央に簡素な祈祷台、両脇に長椅子が並び、奥の壁にはステンドグラスが嵌め込まれている。午後の光が、青と白と金の色を床に長く落としていた。
テオドール様が、セラフィータの一歩先を歩いていく。
道々、教会の歴史を簡潔に話してくれた。建てられたのが二百年前であること、初代の司祭が学園の創設にも関わっていたこと、ステンドグラスの図柄の意味。一つ一つの説明が押しつけがましくなかった。
「ここで、よろしければ、祈ってみますか」
祈祷台の前で、テオドール様がそう促した。
「はい」
セラフィータは、祭服の裾を整えて、祈祷台の前に膝をついた。
両手を胸の前で合わせる。
目を閉じる。
祈りに入る瞬間に、いつも背筋を一段下ろす癖がある。神学科で教わった作法ではない、自分の身体が自然にそうしてしまう息を整えるための姿勢だった。
祈る。
神様、シャルロッテ様、ティータさん、お父様、お母様。わたしの大切な方々をお守りください。
神様、わたしの感受性が、誰かを救うために使えますように。
神様、わたしのお気配が、誰かに届きますように。
いつもより長く、強く、祈った。
小聖堂の静けさのなかに、これまでの祈祷の場の感情が薄く層になって積み重なっている。何百年分の何千人分の祈り。歓喜と悲しみと感謝と嘆願と罪悪感。それらがぜんぶ、セラフィータの背筋から胸の奥へふっと流れ込んできた。
祈りを終えて、立ち上がろうとして、足元がふらりとした。
* * *
咄嗟に伸びてきた手が、セラフィータの背中を、そっと支えた。
大きな、しかし重くない手だった。
顔を上げると、テオドール様の祭服の黒があった。
「大丈夫ですか」
「あ、はい……すみません、少し」
「祈りの場の感情を、すべて受け取られたのですね」
セラフィータの息が、止まった。
言われた言葉が、自分の中で言葉として整理されないままの感覚を、まっすぐに射抜いてきた。
「お分かりに、なるんですか」
「ええ」
テオドール様の声に、迷いがなかった。
「あなたの感受性は、あなたの宝です。同時に、あなたの負担でもあります」
「テオドール様」
「神の祝福であり、神の試練でもある。両方を、誰よりも近くで受け取っておられる」
セラフィータは、自分の頬が熱くなるのを感じた。
誰かにこうやって名前を付けてもらったことは、これまで一度もなかった。家族はわたしを優しい子だと言い、教会の指導者はわたしを神の祝福を受けた子だと言った。けれど、わたしのお気配の受け取り方そのものに「負担」と「宝」の両方の名前を付けてくれた人はいなかった。
テオドール様の手が、セラフィータの背中から、ゆっくりと離れた。
離れた瞬間に、ステンドグラスの光が二人の足元で、青と金の色を一度だけ揺らした。
テオドール様が、長椅子の端へ手を差し伸べる。
「お座りください」
「はい」
セラフィータは、その長椅子に慎重に腰を下ろした。テオドール様も、少し離れた席に自分も腰を下ろす。
* * *
長椅子に並んで座ったまま、しばらく、二人とも黙っていた。
気まずさはなかった。
ステンドグラスの光のなかで、ただ呼吸を合わせる時間。
セラフィータの呼吸が、徐々に整っていく。胸の奥に詰まっていた他の感情の層が、少しずつ自分の輪郭の外へ戻っていく。
その整いが、半分まで進んだ頃。
セラフィータは、テオドール様のお気配をもう一度丁寧に確かめた。
穏やかな、温かい気配。
けれどその温かさの一番奥に、ほんのわずか別の音が混ざっている。
迷い、ではない。
もう少し静かな、もう少し古い、何かだった。
セラフィータはその気配の正体を自分の中で言葉にしようとして、ためらった。聴かない方がいいのかもしれない。先輩の聖職者見習いにこんなに踏み込んだ問いを初対面の場で投げかける作法は、神学科にはない。
ためらいながら、それでも、セラフィータは口を開いた。
「テオドール様」
「はい」
「お声の奥に、少しだけ、迷いのような気配を、感じます。ご無礼でしたら、お赦しください」
テオドール様が、少し、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、ステンドグラスの方へ視線を流した。
「迷い、ですか」
「はい。古い、静かな迷いのような」
しばらく、テオドール様は何も言わなかった。
ステンドグラスの色が、彼の横顔の上を、ゆっくりと移ろっていく。
「正確に、言い当てておられる」
テオドール様の声が、静かに戻ってきた。
「私は、家の意向で、聖職者の道を選びました」
その一言だけで、セラフィータには、その先のいくつかの形が見えた気がした。
「次男以下の貴族子弟に、よく与えられる道です。神学に深く憧れていたわけではない。家の中に居場所を作る必要があった、それだけのことです」
「テオドール様」
「最初の数年は、義務として、教義を覚えました。祈りの作法を、身体に染み込ませました。神への奉仕の言葉は、ちゃんと唱えられるようになった。けれど、自分の意志で聖職者でいたいと思ったことは、長い間、ありませんでした」
セラフィータは、両手を膝の上で重ねたまま、テオドール様の声を受け止めていた。
お声の奥にあったあの古い静けさが、いまようやく言葉の形を取って外に出ている。
「今日、あなたとお話しして」
テオドール様が、ようやくセラフィータの方へ視線を戻した。
「初めて、自分の意志で聖職者でいたいと思いました」
ステンドグラスの光のなかで、テオドール様の目がまっすぐにセラフィータを見ていた。
セラフィータの胸の奥で、何かが、ふっと温かくなった。
「テオドール様、わたし、ご無礼を」
「無礼ではありません」
テオドール様が、わずかに微笑む。
「あなたが、私の長い古さに、名前を付けてくださった。それは、私にとっての祈りの応答です」
長椅子の上で、セラフィータは、自分の両手をそっと握り合わせた。
テオドール様のお気配の奥にあった迷いの音が、いま少しだけ軽くなっている。お声とお気配とお言葉とぜんぶが揃って、ようやく一つの方向を向いた音になっている。
その音は、セラフィータには、聴いていて気持ちのよい音だった。
* * *
夕方、貴族子弟の小さな茶会が、学園の応接間の一つで開かれていた。
学園の正式な行事ではない、ごく内輪の集まりだった。モルゲンシュタイン公爵令嬢エヴェリンが主催する月に一度の親睦会。声をかけられた令嬢が八人ほど集まる淑女の集いだった。
その日の話題が、ふっと、シャルロッテに向いた。
「最近、ヴァイセンベルク公爵令嬢が、平民出身の生徒とも親しくされているそうですわね」
一人の令嬢が、紅茶のカップ越しに小さく言った。
「ええ」
エヴェリンが、優美に微笑む。
「シャルロッテ様は、本当にお優しい方ですわ」
扇子を、軽く開く。
「ただ、わたくし、少しだけ心配しておりますの」
「心配、ですか」
「身分の違う方とお親しくなさるというのは、貴族の責任の取り方として、なかなか難しいことですもの。ご当人にそのおつもりがなくても、相手の方が勘違いなさることが、ございますでしょう」
扇子の縁が、エヴェリンの口元を半分隠した。
「平民の方も、お気の毒ですわ」
令嬢たちの何人かが、小さく頷く。
「お声をかけてくださるシャルロッテ様の善意は、純粋なものですけれど」
エヴェリンの声が、紅茶のなかにそっと溶かすような温度で続いた。
「結果として、平民の方が、ご身分を見失ってしまう。それは、シャルロッテ様の本意ではないはずですわ」
優美な口調、優しい眼差し、誠実な憂い。
応接間の空気の中で、シャルロッテの「親しさ」が、平民への配慮の足りなさへとほんの少しずつ書き換えられていく。
令嬢たちは、エヴェリンの声を一杯の茶のように飲み下した。
その夜、応接間の扉が閉まった後、エヴェリンは廊下の窓辺で夕焼けに沈む学園の中庭を見下ろしていた。
シャルロッテ。
あなたの「親しさ」は、これから、少しずつ別の言葉に書き換わっていく。
あなたの本意ではないところで、あなたの優しさが、誰かを傷つけているという話に。
優美な微笑みが、夕焼けの紅のなかでもう一度唇に乗った。
* * *
寮室、夜。
私は、机の上で、ノートを開いていた。
昼の小聖堂のことと、夕方の茶会のことを、ほとんど同時に書き加えていく。
セラフィータさんと、テオドール様。
お互いに、相手の一番奥にあった音に名前を付け合った一日だった。テオドール様の古い迷いに、セラフィータさんが名前を付けた。セラフィータさんの感受性に、テオドール様が「宝と負担」という名前を付けた。私の地図にもない出会いだった。私の介入ではない。二人がそれぞれの場所で、自分の選択を積み重ねた末に起きたことだった。
ペン先が、ノートの上で、しばらく止まった。
もう一つの方を、書く。
エヴェリン様、第一段階の動きを開始。茶会というごく内輪の場から始まった。直接の悪口ではなく、シャルの「親しさ」を平民への配慮不足という形に書き換える話法。八人の令嬢たちの口から、明日以降、学園のあちこちにこの話の形が漏れ出していく。
ペンを置き、窓辺に立った。
春の夜の風が、薄く吹いていた。
セラフィータさんに、明日から少しだけ気をつけてほしい話があると、朝に伝えなければならない。それが新しい仕事の一つになる。
月が薄く滲んでいる。
私はノートを閉じ、息を一つ整えてから寝台へ向かった。
明日も見るべき人と聴くべき声が、たくさんある。




