第7章 接近
学園生活が、一月を過ぎた。
春が初夏に傾きかけて、廊下に差し込む光が日に日に高くなる。シャルの公的口調が他の生徒たちにも少しずつ通じ始めて、セラフィータさんの祈祷台の冷たさへの慣れも、ほんの少しずつ進んでいた。三人で並んで歩く時間が、ようやく日常の一部になりかけていた。
そんな日の午後、私は図書館の奥の書庫にいた。
神学科の課題を手伝うために、セラフィータさんに頼まれた古い詩集を探していた。書庫の最奥、北側の壁に沿った高い棚。空気が少しひんやりとして、革と紙の匂いが厚く重なっている。背の高い棚は天井までいっぱいに本を抱え込んでいて、目的の一冊は最上段から二段目あたりに収まっていた。
爪先を立てる。
指が背表紙の縁にかすめる。
もう少し。
もう一段、爪先を伸ばした瞬間、背後から長い腕がすっと頭上を越えていった。
目当ての本が、私の手の上で、ふっと持ち上げられる。
「これか」
低い、短い声だった。
振り向くと、ヴィルマール様が立っていた。深い藍色の騎士見習いの制服、襟元の白い詰め襟。視線は本の背表紙に落ちていて、私の顔を直接見ない。
「あ……ヴィルマール様」
「これだろう」
短い確認の声。
私が頷くと、彼は本を私の手のひらにそっと載せた。革の表紙、金箔の押された詩集。本の重みが移る一瞬、ヴィルマール様の指先と私の指先が、ほんの薄く触れた。
指先の温度が、一瞬だけ、高くなった気がした。
ヴィルマール様の方は、自分の指先になど一切意識を向けていない様子で、もう半歩後ろに引いていた。
「ありがとうございます」
私が頭を下げる。
「失礼」
短い一言。
それだけ言って、ヴィルマール様は身を翻し、書庫の奥へ歩き去ろうとした。
あの騎士、無表情のくせに、なんで親切なのよ。普通、声もかけずに通り過ぎるでしょう。
私は本を抱えたまま、その背中を見送ろうとして、つい呼び止めてしまった。
「あの、ヴィルマール様」
ヴィルマール様の足が止まる。
半身だけ振り向く。藍色の瞳が、書庫の暗がりのなかで一度だけ私の目を捉えて、すぐに棚の方へ流れた。
「ありがとうございました」
もう一度、私はちゃんと言った。
ヴィルマール様が、微かに頷く。表情はほとんど動かない。けれど視線の温度だけが、最初に私を見つけた時よりも、少しだけ柔らかかった。
その視線を、私は知っている気がした。
入学式の日、講堂の壁際で、彼が私を見ていた時とよく似ている。観察している、品定めしている、というのとも違う。確かめている、というのが一番近い。
ヴィルマール様が書庫の奥へ消える。
革と紙の匂いのなかで、私は詩集を胸に抱えたまま、しばらく動けないでいた。
観察される観察者、というのは少し変な言葉だ。けれど、いま自分に当てはまる言葉を探すと、それしか出てこなかった。
* * *
翌週、剣術授業の見学日だった。
学園では年に四回、武芸の習得状況を貴族の家に見せる日が設けられている。騎士科の訓練場に貴族令嬢たちが連れ立って見学にやってきて、息子や兄、婚約者の試合を観覧する。私とシャルも、ヴァイセンベルク家の名代として見学席に座っていた。
訓練場の砂が、午後の日差しを白く跳ね返している。
「ヴィルマール様が、最初の組ですわ」
シャルが、扇を畳んだまま小さく言う。
誇り高い令嬢の口調、いつもの公的な温度。けれど、隣に座る私だけにかろうじて聞こえる音量だった。
「ええ、注目していますわ」
私も公的口調で返す。
訓練場の中央で、ヴィルマール様が剣を構えた。手にしているのは木剣。相手の騎士見習いと向き合って、礼をかわす。
動きが、堅い。
いい意味で、ということだ。無駄が一つもない。踏み込みの幅、剣先の角度、肩の落とし方、すべてに迷いがない。観衆を意識した派手な動きはまったくしない。ただ、目の前の相手だけを見ている。
一礼の後、二人が動いた。
ヴィルマール様の踏み込みが速い。
相手の剣を木剣の腹で受け止め、半歩沈み、相手の懐に入る。次の一手で、相手の木剣を払いのける。流れる連続技、ではない。一手ずつが完結している。崩れる前提のある、丁寧な剣だった。
「お強いのね」
シャルが、ぽつりと言った。
扇の縁が、シャルの口元を半分隠している。誇り高い令嬢の口調は崩れていない。けれど語尾の音が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
「シャル」
「なに」
「あなた、ヴィルマール様のこと、ちゃんと観てるのね」
「お役目ですわ。殿下の側近候補の方々を、把握しておくのも」
扇の陰で、シャルが小さく唇を尖らせた。
私は、その横顔を見ないふりをして、訓練場へ視線を戻した。
試合のあと、見学席を立ち上がる。
次の組の試合が始まる前に、貴族令嬢たちが廊下へ移動する時間だった。シャルは別の令嬢たちに挨拶を求められて足を止め、私が先に廊下へ出た。窓の外に訓練場の砂が広がる、長い廊下の手すりに、藍色の制服が一つだけ立っていた。
ヴィルマール様。
試合の汗を拭った直後らしく、襟元の白がほんの少しだけ崩れている。
「ラインフェルト侯爵令嬢」
「ヴィルマール様。先ほどの試合、見事でしたわ」
公的口調で、深く頭を下げる。
「お言葉、痛み入る」
短い返し。
それから、ヴィルマール様は手すりから半歩離れて、廊下の壁際へ移動した。次の見学者が通る道を空けるための、まったく自然な所作だった。
「少し、時間を」
「はい」
「警備上の質問だ」
警備上、と来た。
絶対に違うでしょ。
心の中だけでそう思って、私は公的口調を保ったまま頷いた。
「お聞きいたします」
ヴィルマール様が、廊下の窓の外、訓練場の方へ視線を流した。横顔の輪郭が、午後の光のなかで微かに陰る。
「ヴァイセンベルク公爵令嬢に、随分と尽くされている」
「親友ですから」
「公爵令嬢の評判は、必ずしも良くない」
「ええ、存じております」
「なぜ、信じる」
ヴィルマール様が、ようやく私の方へ目を戻した。
藍色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
* * *
ここで一拍、廊下の音が引いた。
訓練場の砂を踏む音、別の組の試合の掛け声、見学席のざわめき。すべての音が一段遠くに退いて、ヴィルマール様の沈黙だけがその場に残った。
俺は、なぜこの令嬢にこんなことを聞いているのか。
ヴィルマール・ファルケンハイン伯爵子息は、自分自身に対して、その問いの答えをまだ持っていなかった。
藍色の瞳の奥で、彼は別の景色を見ていた。
十一年前。
貴族子弟の社交場。五歳の自分は、両親に連れられて初めて社交の場に出ていた。広間の喧騒に圧倒されて、二階の客間の窓辺に逃げ込んだ。窓の下には、屋敷の庭が広がっていた。春の桜が満開で、白に近い淡い花が地面に薄く散っていた。
その桜の下で、銀色の髪の少女が泣いていた。
まだ幼い、彼と同じくらいの年の、誇り高い顔がついに崩れた瞬間の少女だった。
その少女の前に、栗色の髪の別の少女が立っていた。栗色の少女は、銀の少女の手を握って、何かを話していた。声は窓の上までは届かない。
ただ、栗色の少女の表情だけが、はっきりと見えた。
迷いがなかった。
身分も、社交場の見栄も、なにひとつ気にしていない表情だった。目の前の銀の少女の手だけを、しっかりと握っていた。
五歳のヴィルマールは、その光景から目を離せなかった。
窓越しに、一秒、二秒、それからもっと長く。
あの日から、彼は剣を振ることを選んだ。誰かを身分や見栄ではなく、ただその人として支える人間が、この世界には確かにいる。そういう人を、自分は守る側に回りたいと思った。それが、騎士見習いとしての自分の出発点だった。
いまも、彼は確信を持てずにいた。
目の前の栗色の髪の侯爵令嬢が、あの日の少女と同じ人物かどうか。
顔の輪郭は、たしかに重なる。
ただ、十一年は長い。少女の輪郭は変わるし、目の色も髪の艶も成熟する。一致を確かめる手立てを、ヴィルマールは持っていなかった。
* * *
ヴィルマール様が、ようやく口を開いた。
「俺は、人の本質を、見たいと思っている」
短い、しかしまっすぐな言い方だった。
「表面の評判ではなく、その人本人の」
「ええ」
「あなたは、それを見て、彼女のそばにいる。違うか」
私は、少し驚いた。
言葉の選び方が、慎重で、それでいて踏み込んでいる。社交場の挨拶でも、警備上の質問でもなかった。
「ええ、その通りですわ」
公的口調を保ったまま、私は答えた。
「シャルは、世間が思っているような冷たい令嬢ではありませんわ。私は、それを知っております」
「証拠は」
「十一年です」
私の声が、自分でも少し低くなった。
「あの方の隣で、十一年、見続けてきました。それが、私の証拠です」
ヴィルマール様が、藍色の瞳をわずかに細めた。
頷きの代わりに、視線の温度が、ほんの一段、深まる。
「分かった」
「ヴィルマール様」
「俺も、そう信じる」
その一言で、廊下の空気が動いた。
次の組の試合の掛け声が遠くで上がる。シャルがこちらへ歩いてくる足音もする。ヴィルマール様は、それらの音に気づいたように、半歩、私から距離を取った。
立ち去ろうとする寸前、ヴィルマール様がふと振り向いた。
「ラインフェルト嬢」
「はい」
「あなたを、どこかで見たことがある気がする」
藍色の瞳が、もう一度、まっすぐ私を捉えた。
「私を、ですか」
「ああ」
幼少期、どこかで顔を合わせたかしら。
社交場の人混みのなかで、すれ違ったくらいの記憶はあるかもしれない。けれど、ヴィルマール様の方からこちらをはっきり覚えているような接点は、私の方には心当たりがなかった。
「気のせいではないでしょうか」
「そうかもしれん」
ヴィルマール様が、ようやく完全に背を向けた。
藍色の制服が廊下の奥へ消えていく。私はその背中を見送りながら、自分の指先が、書庫で触れた時と同じ温度をもう一度わずかに思い出していた。
* * *
夜。
寮室の机の上で、私はノートを開いていた。
昨日までのページに、新しいページを足す。
ヴィルマール・ファルケンハイン伯爵子息。騎士見習い。試合の動きは丁寧で堅実。剣の踏み込みに迷いがない。
ペン先が、しばらく止まった。
書きながら、廊下の場面が、もう一度頭の中で再生される。
「警備上の質問だ」
あれは、明らかに警備上の質問ではなかった。
「あなたを、どこかで見たことがある気がする」
あの一言の方が、警備上の質問よりずっと核心に近かった。私の方には、彼との明確な接点の記憶はない。社交場の人混みのなかで顔を合わせたくらいなら、有り得るかもしれない。けれど、十一年の時間を超えて私の顔を覚えている、というのは、少し違う種類の話だった。
私を覚えていた人。
地図のなかには、いない。
ペンを置いて、私は窓辺に立った。
春の夜の風がカーテンを薄く揺らす。月は半分だけ姿を見せていて、その縁が滲んでいた。
決められた未来のなかで、ヴィルマール様は王太子殿下の側近候補の一人として登場するはずだった。剣の腕の堅実な騎士で、寡黙で、必要な時にだけ口を開く人。物語の中心にいる相手は、私の知る範囲では誰でもなかった。私の地図に記されていたのは、剣の腕と寡黙さだけだった。
その彼が、いま、私を覚えていると言った。
私の地図にない動きが、また一つ、増えた。
窓辺で、私は小さく息を吐いた。
覚えてくれているのなら、それはそれでいい。いつか彼が自分でその記憶の正体を思い出す日が来るのなら、その時こそ、彼の動きの理由が分かる。それまでは、私のほうも、観察される観察者として、彼を見ていればいい。
ノートに戻り、最後に一行だけ書き加える。
ヴィルマール様、目を離してはいけない人。動きは敵意ではなく、たぶん、別の何か。
ペンを置く。
書庫で触れた指先の温度を、私は最後にもう一度、薄くだけ思い出した。それから、その温度を遠くへ押しやって、ノートを閉じた。
明日からも、見るべき人はたくさんいる。あの藍色の瞳のひとつぶんだけ、私のノートが今夜から少しだけ重くなった。それだけのことだった。




