第6章 声
翌日の朝、私は教室の自分の席に着くなり、シャルに小声で切り出した。
「シャル、お願いがあるの」
窓側の隣席で、シャルが顔を上げる。銀色の髪が朝の光に淡く透けて、青い瞳がまっすぐ私を見た。
「ティーのお願いなら、聞くわ」
即答だった。
誇り高い令嬢の口調を最小限まで崩した、私たちの間でだけ通じる温度の声。教室にはまだ生徒がまばらで、私たちの席の周りは空いている。今のうちなら、この温度で話せた。
「会わせたい子がいるの。神学科のセラフィータさん」
シャルが、わずかに首を傾げる。
「先日、講堂で紹介された、平民出身の方ね」
「うん」
「ティーが会わせたいと思う方なら、わたくしも、お会いしたいわ」
シャルの言い方には、迷いがなかった。
平民出身、という言葉をシャルは身分のラベルとして使わない。誰のことかを特定するための言葉として、まっすぐに使う。私が十一年で見続けてきたシャルの素顔は、こういうところにある。誇り高い令嬢の仮面の奥で、彼女はいつも、人を身分ではなく顔で覚えている人だった。
「放課後、ヴァイセンベルク家の寮室で、お茶でも」
「ええ。お茶の支度はわたくしの方でしておくわ」
短い相談で、その日の予定が決まった。
私はシャルに小さく微笑んで、机の上の教科書を開く。胸の奥が少しだけ温かくなっていた。シャルが初めて自分から「お茶の支度」と言った相手。それが、ティー以外の人だ。
* * *
放課後。
ヴァイセンベルク家の寮室は、本館とは少し離れた一角にある特別寮の最上階だった。広い居間と寝室、続きの書斎、専属の侍女が控える小部屋まで備えられている。私はもう何度も訪れているけれど、初めて訪れる人にはやはり気後れする場所だ。
私はセラフィータさんを連れて、扉の前で一度足を止めた。
「セラフィータさん、緊張してる?」
「はい」
素直な答えだった。栗色の髪を肩のあたりで揃え、両手で軽く本を抱え、視線は床に落ちている。
「シャルの誇り高い顔、最初に見ると、少し怖く感じるかもしれない」
「はい、覚悟しております」
「でも、その奥は、私が知っている。あなたなら、その奥に届く声を持っている」
セラフィータさんが、ゆっくりと顔を上げた。
「ティータさんの、温かいお気配を信じます」
扉が、内側から開いた。
* * *
居間の中央に置かれた低い円卓に、白いクロスが敷かれていた。
二段の銀の盆に、薄い菓子が並ぶ。湯気の立つ紅茶のポット、磨かれた三客のカップ。シャルが、窓を背にした上座に立っていた。
誇り高い令嬢の顔。
「ようこそ、セラフィータさん。歓迎いたしますわ」
澄んだ声だった。社交場で使うのと同じ温度の声。
セラフィータさんが、深く頭を下げる。
「お招きありがとうございます、シャルロッテ様」
「どうぞ、おかけになって」
シャルが、円卓の脇の椅子に手のひらを向ける。セラフィータさんが、所作にやや慎重さを残しながら、腰を下ろした。
最初の数分、空気はわずかに張りつめていた。
シャルが紅茶を注ぐ。湯気が三人のあいだに薄く立ち上る。セラフィータさんがカップを両手で支え、私はその様子を、円卓の角度から見ていた。
シャルは身構えている。
誇り高い令嬢の顔を崩さず、礼節の限りを尽くし、しかしどこまで開いていいか、その目盛りをまだ決めかねている。新しい人に出会った時にシャルがいつも見せる態度だった。
セラフィータさんも緊張している。けれど、その緊張には、過剰な萎縮がなかった。
貴族と平民の身分差を頭で理解はしていても、感覚としては前に押し出さない。シャルの公爵令嬢としての顔より、シャルの内側にある何かをもう感じ取っているのだろう。私の知っているこの子の感受性は、そういう種類のものだった。
沈黙を破ったのは、セラフィータさんだった。
紅茶を一口含んで、カップをそっと置き、ゆっくりと顔を上げる。
「シャルロッテ様」
「はい」
「お声が、とても綺麗ですね」
シャルの指先が、紅茶のカップに伸びかけたまま止まった。
「……お声、ですか」
「はい。澄んでいて、誇り高くて、それから」
セラフィータさんが、少し言葉を選ぶ。
「お声の奥に、少しだけ、寂しさのようなものを感じます」
シャルが、息を呑んだ。
私の隣で、彼女の背筋がほんのわずか強張る。誰にも気づかれない揺らぎ。けれど、十一年見続けてきた私にははっきりと見えた。
「ごめんなさい、変なことを」
セラフィータさんが慌てて頭を下げる。
「いいえ」
シャルの声が、ふっと低くなった。
「いいえ。誰にも、そう言われたことはなかったから、驚いただけですわ」
誇り高い令嬢の口調のまま、しかしその下で、何かが動いている。シャルが青い瞳をゆっくりと持ち上げて、セラフィータさんを見た。
私は、紅茶のカップを口元に運びながら、口を開いた。
「セラフィータさんは、人の感情を、お声や気配で感じ取るの」
「……お声で」
「言葉の表面じゃなくて、その奥にある気持ちを」
シャルが、しばらく沈黙した。
紅茶のカップを置き、両手を膝の上に揃え、視線を窓の外に逃がす。庭の桜の枝が、午後の風に薄く揺れている。
「あなたは」
シャルが、ようやく口を開いた。
「あなたは、わたくしの誇り高い顔の奥にある本当の気持ちを、感じ取っているということですか」
「はい」
セラフィータさんが、両手を前で軽く重ねる。
「ご無礼を、お許しください」
「無礼ではありませんわ」
シャルの声に、わずかに揺れが交じった。
「無礼ではありません。むしろ……」
その先を、シャルは続けなかった。
代わりに、青い瞳をもう一度セラフィータさんに戻した。誇り高い令嬢の表情のままで、しかし瞳の奥だけが今までと違う温度を帯びている。
私の隣で、シャルがゆっくり息を吐いた。
* * *
お茶の時間が、少しずつ柔らかくなっていった。
セラフィータさんが、神学科での祈りの稽古の話をする。最初は朝の鐘で起きるのが大変だったこと、祈祷台の冷たさにまだ慣れないこと、礼拝堂のステンドグラスから差す光が好きなこと。何でもない日常の話を丁寧な声で運んでくれる。
私は過去の社交界の小さな思い出をいくつか出した。シャルが八歳の頃、初めての社交場で踊ったワルツの時に踏むはずだったステップを一つ飛ばしてしまった話。シャルが頬を赤らめて、「ティー、その話は」と公的口調の隙間からつい本音を漏らす。セラフィータさんが、ふふ、と小さく笑った。
シャルが、少しずつ素を出し始めた。
最初は短い相づち、それから少し長い返事、やがて自分から話題を運ぶ言葉。誇り高い令嬢の口調は崩さない。けれどその口調のなかに、いつもより柔らかい呼吸が混じる。
「セラフィータさんは、お本を読むのは、お好きですか」
「はい、好きです。神学の書はまだ難しいですけれど、詩集なら」
「詩集」
シャルの青い瞳が、わずかに輝いた。
「わたくしも、詩集は好きですわ。最近、書斎に新しく入ってきた一冊がありますの」
「お聞きしてもよろしいですか」
シャルが書斎に立っていって、薄い本を一冊持って戻ってくる。革表紙に小さく金箔の押された詩集。シャルがそれを開いて、栞の挟まれたページを、セラフィータさんに見せた。
二人が、しばらく一つの本に頭を寄せている。
その様子を、私は紅茶のカップを傾けながら、円卓の向こうから見ていた。
シャルが、私以外の人と本を見ている。
その単純な絵が、私の胸を、深く温めていた。
* * *
お茶の時間の終わり際、セラフィータさんが立ち上がった。
「シャルロッテ様、今日は本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
「セラフィータさん」
シャルが、椅子から立ち上がる。
「また、お話ししましょう」
「はい、ぜひ」
セラフィータさんが、少し顔を赤らめて頷く。
シャルが、ふと視線を伏せた。それから、自分でも信じられないものを差し出すように、小さな声で続けた。
「あなたのお声、わたくし、好きですわ」
居間の空気が、一瞬、静止した。
シャルが、自分の言葉に自分で驚いている。誇り高い令嬢の口調のまま、しかしその一言だけが、シャル自身から零れた本音だった。
その本音を、私は聞き逃さなかった。誇り高い令嬢の口調を保とうとして、しかし「好きですわ」の語尾だけがふっと音楽的に揺れていた。本物の心が本物の音で零れた瞬間の揺れ方だった。
セラフィータさんが、頬を染める。
「ありがとうございます」
声が、わずかに震えていた。
「わたしも、シャルロッテ様のお声、大好きです」
シャルが、息を吸う。
その息のしかたを、私は知っている。誇り高い令嬢の仮面が、ほんのわずか浮く瞬間の呼吸だった。十一年で私だけが見てきた呼吸。それを今日、もう一人の少女の前でシャルは自然に零した。
* * *
セラフィータさんが退室したあと、居間に二人だけが残った。
私は円卓の自分の席に戻って、半ば冷めた紅茶を一口含む。シャルは扉の前に立ったまましばらく動かなかった。やがてゆっくりと振り向いて、私のいる円卓まで歩いてくる。
私の正面の椅子に、すとんと腰を下ろす。
誇り高い令嬢の背筋が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
「ティー」
「うん」
「あの子は、不思議な方ね」
「うん」
「わたくしの顔ではなく、わたくしの奥を、見てくれている気がしたの」
シャルの声が、少しだけ揺れていた。
私は紅茶のカップを置いて、シャルの目をまっすぐに見る。
「私たち、きっと友達になれると思う」
シャルが、口を開きかけて、止まった。
「友達」
その言葉を、シャルは小さく繰り返した。まるで初めて口に出す言葉のように、丁寧に。
「友達……わたくしに、ティー以外の友達ができるなんて」
その一言に、十一年の重みがあった。
誇り高い令嬢として育てられて、誰にも踏み込ませない仮面を被って、政略結婚の駒として扱われ続けて、ティーと呼べる相手が私一人しかいなかった少女。その彼女がもう一人、別の人を友達と呼べそうだと感じている。
私は、円卓越しに、シャルの指先にそっと自分の指を重ねた。
「シャル、これからは、もっと色々な人と繋がっていけるわ」
「あなたがいるから、できるのよ、ティー」
シャルの指が、私の指を、握り返してきた。
久しぶりに、思いきり強い力で握ってきた。誇り高い令嬢の握り方ではない、ただの一人の少女の握り方で。
* * *
夜、寮へ戻る道。
私は一人で、学園の庭園を歩いていた。
春先の夜気はまだ少し冷たく、空には半月が滲んでいる。シャルとお別れの挨拶を交わしてから、私はあえてこの遠回りを選んだ。胸の中の温度を、一人でしっかり確かめてから寝たかった。
歩きながら、私はノートを開かずに考える。
今日、シャルが「友達」という言葉を自分の意志で口にした。十一年で初めてのことだ。私の地図のなかでも、シャルがそんな言葉を口にする場面はなかった。決められた未来のシャルは最後まで誇り高い令嬢のままで、誰にも踏み込ませない仮面を被ったまま、処刑の場に立たされていた。
今のシャルは、もうそこへは行かない。
今日の一日が、それを確かにした。
そしてもうひとつ、私の地図のなかになかった景色を、私は今日見た。セラフィータさんがシャルの「お声」を真正面から好きと言って、シャルが「あなたのお声、わたくし、好きですわ」と返した、あの一往復。お互いに相手の一番奥にあるものを「声」という名前で受け取り合った瞬間だった。
決められた未来のなかで、シャルはいつも声を仮面の道具として使っていた。誇り高さを聞かせるための声、礼節を尽くすための声、相手を退けないための声。本人の本音と声が、いつもずれていた。
今日、初めて、シャルの本音と声が一致した。
誰かが、その本音の声を「好きですわ」と言える相手になった。
庭園の中央、噴水のそばで、私は足を止めた。
水面に半月が砕けて映っている。冷たい夜気のなかに、噴水の細い水音だけが立つ。私は、そこに立ったままゆっくりと空を見上げた。
シャル、セラフィータさん、私。
三人で、決められた未来を組み替える。
誰一人犠牲にしない。殿下も、テオドール様も、騎士見習いの彼も、それから、優美な微笑みの奥で長く苦しんできたあの黒髪の令嬢も。
拳を、ゆっくりと握る。
私の地図にない動きが始まっていて、エヴェリン様の計画はすでに走り出していて、シャルの幸せはまだ綱渡りの上にある。けれど今日、三人で並ぶ準備が整った。あとは私が走るだけだ。
半月の縁が、薄い雲のなかへ、ゆっくりと吸い込まれていく。
シャル。
あなたが「友達」と口にしたあの一秒のために、私はこれからもっと忙しくなる。覚悟は、もうできている。




