第5章 微笑
学園のサロンに、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
貴族令嬢たちのお茶会が開かれているこの一室は、白い円卓が三つ並び、それぞれに四、五人の令嬢が腰を下ろしている。磨き上げられた銀器、生けられた春の花、薄く立ち上る紅茶の湯気。学園というよりは社交界の延長、というのが正しい場所だった。
私は窓側の卓で、別の侯爵家令嬢たちと当たり障りのない会話を交わしていた。今日のドレスの色合い、先日の音楽会の評判、来月の慈善舞踏会の話題。社交界の作法を学園内で再演しているような時間。
視線の半分は会話の相手に向けながら、残りの半分は、奥の卓のシャルを追っていた。
シャルは、上座の卓で、四人の令嬢に囲まれていた。
誇り高い令嬢の顔。背筋を伸ばし、誰にも踏み込ませない微笑みを浮かべて、相手の言葉に礼節を尽くして応じている。完璧な公爵令嬢。誰が見ても、王太子の婚約者にふさわしい所作。
その完璧さの奥に、私だけは、わずかな疲れを見ていた。
シャルが好きな時間ではないのだ、こういう場は。あの子はほんとうは一人で本を読んでいたいタイプの少女で、社交の場では仮面が一番厚くなる。十一年ずっと隣にいた私には、彼女の指先の置き方一つでそれが分かる。
その時だった。
サロンの入口から、新しい一人の令嬢が入ってきた。
黒髪を高く結い上げ、深い紫のドレスをまとい、優美な所作で歩を運ぶ。背筋の伸び方も、視線の置き方も、申し分のない公爵家の令嬢だった。
エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン。
私の喉が、わずかに乾いた。
私の地図にない人だった。
決められた未来のなかで、この人の名前を聞いたことは一度もない。シャルの周りに現れる令嬢たちの顔ぶれも、社交場の構図も、私はほとんど暗記していたはずだ。それなのに、この黒髪の令嬢は、私の十一年のなかに一度も登場していない。
モルゲンシュタイン公爵家。
たしかシャル以前に王太子妃候補に名前が挙がっていた家系だ。最終的にヴァイセンベルク家の格と父君の政治力に届かず、候補から外された。それだけの情報なら私の頭にも入っている。けれどその公爵家の令嬢が、いまここで、シャルに歩み寄ろうとしている。
エヴェリンは、シャルの卓の前で足を止めた。
「シャルロッテ様、ご機嫌麗しゅう」
優美な声だった。
シャルがゆっくりと顔を上げる。
「エヴェリン様、ご機嫌麗しゅう」
「最近、お話しする機会が少なくて寂しいですわ。ご一緒してもよろしいですか」
「もちろんですわ」
シャルが空いた席に手のひらを向ける。エヴェリンが優美に腰を下ろし、二人の間に、薄く新しい紅茶が注がれる。
私は、自分の卓の令嬢たちの言葉に相づちを返しながら、奥の卓を観察していた。
* * *
エヴェリンとシャルの会話は、表面上、何ひとつ問題のないものだった。
「シャルロッテ様、王太子殿下とは順調でいらっしゃいますか」
「お役目を果たしているだけですわ」
「あら、ご謙遜を。婚約者として、わたくし、本当に羨ましいですわ」
シャルは、内心の動揺を顔に出さない。誇り高い令嬢の顔のまま、紅茶のカップに口をつける。
「エヴェリン様こそ、社交界で頼られているとお聞きしておりますわ」
「とんでもないことですわ。わたくしなど、まだまだ未熟ですもの」
エヴェリンの口元の微笑みは、申し分なく優美だった。
申し分がなさすぎる、と私は思った。
優美な所作には必ず、息の抜き方がある。長く保てば、肩や指先のどこかに小さな疲れが出る。完璧な仮面というものは存在しないのだ。シャルの仮面でさえ、十一年見続けてきた私にはほころびる瞬間が分かる。
なのにエヴェリンの微笑みは、ほころばない。
まるで、長年、毎日その微笑みで何かに耐えてきた人のように、隙間がない。
「お茶会、また開きませんか。わたくしも、シャルロッテ様ともっと親しくなりたいですわ」
「機会がありましたら」
シャルの返事は、礼節としては満点だった。けれど招きを受けたわけでも断ったわけでもない、慎重な距離の置き方。シャル自身もこの令嬢に何かを感じている。完璧な仮面の奥で、わずかに身構えている。
やがてエヴェリンが立ち上がり、優美に一礼して、別の卓へ移っていった。
残されたシャルが、紅茶のカップを置く。指先が、ほんのわずか、強張っていた。私だけが見える強張り。
シャル、あの令嬢には気をつけて。
私は心のなかで囁いた。
あの優美さは、私たちが知っている誇り高さとは違う種類のものだ。
* * *
サロンが散会したあと、私は一人で廊下を歩いていた。
シャルは学科の予習があるからと先に寮室に戻り、私は気分転換にと言って外回廊を選んだ。けれど、本当は一人で考えたかった。あの黒髪の令嬢のことを、整理する時間が欲しかった。
外回廊の途中、一本の柱の陰で、私はふと足を止めた。
その先、回廊の中庭に面した低い壁ぎわに、エヴェリンが一人で立っていた。
社交場での優美な微笑みは、もうない。
目を伏せ、指先をかすかに白い壁に当てて、何かを耐えているような顔をしていた。誰にも見られないと思ったのだろう、表情の管理が解けていた。
私は息を潜める。
エヴェリンの唇が、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ひとつ言葉を漏らした。
「……お役目を果たしているだけ、ですって」
シャルが先ほど言った言葉だった。
エヴェリンの指先が、白い壁の上で、ほんのわずか、爪を立てた。
「わたくしなら、もっと殿下をお喜ばせできるのに」
声に、低い熱があった。優美な微笑みの下に、これだけのものを溜め込んでいる人なのだ。
その時、エヴェリンの瞳の奥に、何かが過ぎった。
遠い記憶を、立ったままなぞるような、虚ろな眼差し。
五年前。
モルゲンシュタイン家の屋敷。父君がまだ十一歳のエヴェリンに告げた言葉。「王太子妃にはヴァイセンベルク家の長女が選ばれた。お前ではない。我が家の格でも足りなかった。もう諦めなさい」。父君の声には、娘への慰めも誰かを恨む響きもなかった。ただの事実の通知だった。だからこそ、十一歳のエヴェリンの胸にそれは長く刺さった。
その後の社交界。表向きは何ひとつ変わらないお茶会の流れ。けれど令嬢たちの扇の陰で、囁きが落ちる。「あら、エヴェリン様、王太子妃の座は逃しましたのね」「やはりヴァイセンベルク家には敵わなかったということかしら」。エヴェリンは優美な微笑みで応じ続けた。十一歳のうちに身につけた、ほころばない微笑み。
そして、ある社交場の入口。すれ違ったシャル。十二歳のシャルが公爵令嬢として完璧な礼節で挨拶を返した。「エヴェリン様、ご機嫌麗しゅう」。それだけの何の悪意もない一礼。けれどエヴェリンには、別の風景に見えていた。あの澄んだ青い瞳が自分を見下ろしている、と。あの誇り高い背筋が自分を脇に押しのけている、と。
私の地図にこの人がいなかった理由が、いま、わずかに見える気がした。
エヴェリンの瞳が、現在に戻る。誰もいない外回廊の壁ぎわで、彼女は誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「父も、社交界も、誰もわたくしを見ていなかった。ただ一人、見ていたあなたが、わたくしを蔑んだ」
爪が、壁の表面で、もう一度小さく音を立てた。
私は柱の陰から動けなかった。
あの人は苦しんでいる。長く深く、誰にも知られない場所で。けれど、その苦しみの矛先がシャルに向いているのなら、これはもう、ただの社交の話ではなくなる。
エヴェリンが姿勢を立て直す。手のひらを壁から離し、深く息を吸って、優美な微笑みを唇に戻す。何事もなかったかのように、回廊の先へと歩き去っていった。
私は柱の陰で、しばらく動けなかった。
* * *
神学科の祈祷室の前を、私は通り抜けようとしていた。
寮への帰り道、いつもの近道。けれど、祈祷室の扉の手前で、私は足を止めた。
扉が薄く開いていて、そのなかから、二人ぶんの声が聞こえる。
一人は、セラフィータ。
もう一人は、先ほど外回廊で見たばかりの、エヴェリンの優美な声。
「あら、平民の方がこちらに」
「はい、祈りの練習をしておりました」
「素晴らしいですわ。お名前を伺っても」
「セラフィータと申します」
「セラフィータさん、わたくしエヴェリンと申しますわ。何か困ったことがあれば、いつでもお声がけくださいね」
「ありがとうございます」
声だけの場面だった。
けれど私には、扉の向こうの構図が見える気がした。優美な微笑みを唇に乗せたエヴェリンが祈祷室の入口で、栗色の髪のセラフィータに歩み寄っている。声色は申し分なく親しげで、温かい。
数秒の沈黙のあと、エヴェリンの足音が遠ざかっていく。
私は廊下の死角に身を寄せた。エヴェリンがこちらを通り過ぎる、その横顔は、外回廊で見たあの虚ろな眼差しとは別人のように、優美な微笑みに戻っていた。
彼女が角を曲がってから、私は祈祷室の扉に歩み寄る。
「セラフィータさん」
扉を軽く叩いて声をかけると、なかから返事がある。
「ティータさん」
扉を開けると、セラフィータが祈祷台のそばに立っていた。手を胸の前で軽く組み、まだ少し落ち着かない様子で、視線が床に落ちている。
「いま、エヴェリン様とお話ししていた」
「はい」
「どんな印象だった」
私は穏やかに、しかしまっすぐに尋ねた。
セラフィータは、しばらく言葉を選ぶように口を閉ざしてから、ゆっくりと答えた。
「……お声が、とても優しかったです。お言葉も、申し分なく親しげで」
「うん」
「でも」
セラフィータの瞳が、私を見上げた。視線の温度を、間違えない瞳。
「お声の奥に、少し、冷たいものを感じました。優しいお声と、お声の奥の温度が、はっきり違っていました」
私は息を呑む。
この子の感受性は、今日もまた、私が想像していたよりずっと深い。
「セラフィータさん」
「はい」
「あの方の足音と、お声の調子を、覚えておいて」
セラフィータは、こくりと頷いた。
「すでに、覚えました」
穏やかな声だった。
「あの方のお気配は、今日のもので、わたしの中に記録されています。次にお会いした時、すぐ分かります」
私はセラフィータの肩に、そっと手を置いた。
「ありがとう。あなたに、無理をさせたくはないけれど」
「無理ではありません」
セラフィータが小さく首を振る。
「わたしは、感じるだけです。感じたことを、ティータさんにお伝えするだけです」
その素直な確かさに、私は心の底からほっとした。私の地図にない動きが始まっている、その一番奥の場所に、この子の感受性は届く。
* * *
モルゲンシュタイン家の寮室。
鏡の前で、エヴェリンは黒髪を結っていた留め具を、ゆっくりと抜いていた。
長い髪が肩に落ちる。
鏡のなかの自分の顔を、エヴェリンはまっすぐに見つめた。
「あの平民の少女、使えそうね」
声に出して、自分に確かめるように呟く。
「シャルロッテ様が、平民を見下す方だと、あの平民の少女に思わせれば」
鏡のなかの自分が、わずかに微笑む。
「平民を虐げる令嬢として印象付ければ、王太子殿下の心を、シャルロッテ様から遠ざけられる」
扉が、こんこん、と鳴った。
「お嬢様」
侍女ベッキーの声だった。
「お入りなさい」
ベッキーが入室し、礼儀正しく頭を下げる。
「お呼びとは、何か」
「ベッキー、明日からよ。シャルロッテ様の動きを観察しなさい。特に平民出身の生徒との接し方を。一日のうち、いつどこで誰と、どんな言葉を交わしたか。すべて記録なさい」
「かしこまりました」
「あと、王都の筆跡屋に、つなぎをつけておいて。詳しい依頼は、後日改めて」
「畏まりました」
ベッキーが下がる。
鏡のなかのエヴェリンが、もう一度、優美な微笑みを唇に乗せた。鏡の自分に向かって、社交場で見せていたあの微笑みを、確かめるように作り直す。
「お役目を果たしているだけ、ですって」
声に、低い熱がふたたび戻る。
「あなたから、それを奪ってさしあげますわ、シャルロッテ様」
* * *
私の寮室、夜。
机の上で、私はノートを広げていた。
昨日のページの隣に、新しいページを開いて、今日の出来事を書き込んでいく。
エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢。元王太子妃候補。私の地図にない人。シャルへの強い敵意。動機はおそらく、長年の被害妄想。父君の言葉、社交界の嘲笑、シャルの礼節を見下しと誤読した記憶。三層が積み重なって、いまの彼女を作っている。
ペンを置いて、私は深く息を吐いた。
あの人は、ただの敵ではない。
誰にも見られなかった人だ。父にも社交界にも、ほんとうの意味では誰にも見られなかった人。だからシャルに見られた一瞬を、見下しと取り違えた。見られたことのない人にとって、礼節を尽くした視線も自分を品定めする視線に見える。
憐れに思った。
けれど、それと、シャルを守らなくていい理由は、別だ。
私はもう一度ペンを取って、ページの下に書き加える。
エヴェリン様、要警戒。動きを掴むまで、シャルからもセラフィータさんからも、目を離さない。
ノートを閉じ、窓辺に立った。
雲が薄く広がり、月の光が滲んでいる。一人で抱えるには重い夜だった。けれど私は一人ではない。シャルがいて、セラフィータさんがいて、明日からは三人で並んで歩く。それに、まだ顔だけの関わりしかないけれど、視線で何かを確かめている騎士の少年もいる。
シャル。
あなたを蔑んだ覚えなど、あなたには一度もないだろう。
けれど、あなたの礼節を見下しと読んでしまった人が、いま、あなたの隣にもう一つの席を置こうとしている。
その席を、私が引かせる。
あなたの十一年と私の十一年で、あの優美な微笑みの奥にある寂しさにも、いつか別の温度の光を差し込ませる。それが、全員のハッピーエンドというものだ。
月の縁が、薄い雲のなかへ、ゆっくりと滲んでいった。




