第4章 視線
入学から一週間が経った頃、廊下で小さな事件が起きた。
午前の講義が終わって、生徒たちが教室から廊下に流れ出る時間。私はシャルと並んで歩いていたが、シャルが教師に呼び止められて、立ち話が始まった。一足先に行ってちょうだい、というシャルの目配せに頷いて、私は数歩先を歩く。
その先で、平民出身らしい女子生徒が、両手で抱えていた本を廊下に取り落とした。
乾いた音が三つ、四つ、廊下に転がる。
ちょうど後ろから歩いてきていたシャルが、足を止めた。私は数歩離れた位置から、その瞬間を見た。
シャルが、屈もうとしたのが分かった。膝が、ほんのわずかに沈んだ。
でも、すぐに止まった。
代わりに、屈みかけた背筋を立て直して、誇り高い令嬢の声で短く言う。
「失礼」
そして、何事もなかったかのように、女子生徒の脇を通り過ぎていった。
女子生徒は、本に伸ばしていた手を引っ込めて、その場に固まっている。顔色が、ふっと白くなっていた。
「公爵令嬢様、わたし、何か粗相を……」
声が震えていた。
周囲を歩いていた生徒たちが、目配せを交わす。
「あの方、本当に冷たいよね」
「平民出身の私たちのことなんて、見下してるんでしょ」
「殿下の婚約者になるような方は、やっぱり……」
囁き声が、廊下の空気に薄く広がっていく。シャルはもう何歩か先を歩いていて、背中はこちらを向いていない。気づいていないわけではない。あの聴覚で、全部届いている。それでも振り返らないのは、振り返ってしまえば仮面が崩れることを、本人が一番よく知っているからだ。
シャル、と私は心のなかで呼ぶ。
あなたが屈みかけたあの動き、私だけが見ていた。あなたは助けたかった。けれど、声のかけ方が分からなくて、立ち止まることもできなかった。
私は早足で歩み寄った。
「あら、本を落としたの。手伝いましょう」
屈んで、廊下に転がった本を一冊ずつ拾い上げていく。表紙の汚れを軽く払って、女子生徒の腕に積み上げる。
「ありがとうございます、ティータ様」
女子生徒の声は、まだ震えていた。
「シャルロッテ様は、お急ぎだったのよ。気にしないで」
私は、わざと少し声を張った。周りで囁いていた生徒たちにも届く音量で。
「あの方ね、人と接するのが少し不器用なだけ。本当は優しい方なの。ただ、お声のかけ方を、ご存知ないだけ」
囁いていた生徒たちが、互いに顔を見合わせる。納得した、というほどでもない。でも、一秒前まで彼女たちの口にあった「冷たい」「見下している」という温度が、ほんの少しだけ薄められたのは分かった。
女子生徒が、本を抱え直して頭を下げた。
「ティータ様、ありがとうございました」
「いいのよ。気をつけて」
彼女が立ち去ったあと、私は廊下の先を見る。
シャルの後ろ姿は、もう次の角を曲がろうとしていた。背筋は、何ひとつ変わっていない。誇り高い令嬢として、まっすぐに。
でも、肩がほんのわずかに強張っている。
あなたの不器用さを、私が言葉に変えるから。
あなたが声をかけられなかった一秒のあいだに、私が、人々の見ている温度を変える。
それが、私の十一年だ。
* * *
昼休み、カフェテリア。
窓際の二人席で、シャルと向かい合って軽い食事を取る。サンドイッチと、紅茶と、季節の果実が一切れ。学園のカフェテリアは貴族令嬢たちが多く出入りする場なので、二人とも公的口調を崩せない。
「ティータ嬢」
シャルが、紅茶のカップを置いた。
「さきほど、廊下で。あなたが助けてくださったと、お聞きしました」
声は誇り高い。けれど、瞳の奥が、いつもより少し揺れている。
「ええ、シャルロッテ様。ほんの小さなことですわ」
私も公的口調で応じる。
それから、声を少しだけ落として、続けた。
「あなたが手伝いたかったの、わかってますわよ」
シャルが、紅茶のカップに伸ばしかけた指を、止めた。
青い瞳が、私を見る。
「……どうして分かるの」
「ずっと見ているからですわ」
私が微笑むと、シャルの口元がほんのわずかに緩んだ。仮面の表面のままで、奥だけが、私にだけ分かるように動く。十一年で身につけた、私たちの会話の作法だった。
「ティータ嬢、ありがとうございます」
「礼には及びません」
形式上のやり取りが、二人の机のあいだで、温かい温度を持つ。
近くの卓で、令嬢たちがこちらをちらちらと見ているのが分かる。「ヴァイセンベルク公爵令嬢に話しかけてもらえるなんて、ラインフェルト侯爵令嬢は特別なのね」というふうに。
それでいい。
シャルの周りに、私が話しかけられる人だという事実が一つでも積み重なれば、その先で、シャルに話しかけてみようと思う人が一人ずつ増えていく。
シャルが、紅茶のカップを置く。視線を窓の外に逃がしたまま、声だけが、ほんの少しだけこちらに向く。
「ティータ嬢」
「はい」
「わたくし……あの平民の生徒に、どんなふうに声をかけていいか、分からなかったのですわ」
囁くような小さな声だった。公的口調を保ったまま、私にだけ届く音量で。
「『大丈夫ですか』と言えば、上から物を言うように聞こえる気がして。『お手伝いいたしますわ』と言えば、それはそれで嘘くさい気がして。何も思いつかないうちに、足が、勝手に先に進んでしまったの」
「シャルロッテ様」
「わたくしの足は、いつも、わたくしの気持ちの一歩先にあるのです」
その一言が、十六歳の少女の本音だった。
私は紅茶のカップに手を伸ばしながら、見えない角度で、彼女の指先に自分の小指を触れさせた。一瞬だけ。誰にも気づかれない触れ方で。
シャルの瞳が、ふっと和らぐ。
「気持ちは、ちゃんと、私が見ていますから」
「ええ。それで、十分ですわ」
* * *
ヴィルマール・ファルケンハインはその日、騎士見習いの巡回任務で別棟の廊下を歩いていた。
日課の経路を進んでいると、一般学科の棟の角で、目の前の景色が一瞬止まった。
銀髪の公爵令嬢が、平民出身の生徒の脇を、無言で通り過ぎていく。残された生徒が立ち尽くす。周囲の生徒たちが囁き出す。そこに、栗色の髪の侯爵令嬢が、迷いのない歩調で歩み寄っていく。
彼女は、声を張った。周囲に聞こえる音量で。
「あの方ね、人と接するのが少し不器用なだけ。本当は優しい方なの」
ヴィルマールは、廊下の柱の陰で足を止めた。
あの令嬢は、何かを知っている。
ヴァイセンベルク公爵令嬢の冷たい所作が、表面的なものに過ぎないと、まったく迷いのない確信を持って動いている。あの確信は、今日や昨日に得たものではない。もっとずっと前から、あの公爵令嬢の内側を知っている人間の動き方だ。
俺は、なぜ、こんなことを気にしている。
巡回任務に支障の出る観察ではない。むしろ、警備上、不審な動きを把握するのは仕事の範囲だ。けれど、自分の目が、栗色の髪のあの令嬢に何度も戻ってしまうのは、警備の範囲を超えている。
あの少女。どこかで、見たことがある気がする。
ヴィルマールは、目を細める。
俺の幼い記憶のなかの、誰かに似ている。
庭で、銀髪の少女を支えていた、栗色の髪の少女。あの遠い夏の社交場、別室の窓から、俺は確かに見ていた。父に連れられて、退屈な大人たちの集まりから一人だけ外れて、別室の二階の窓から庭を眺めていたあの日。誇り高い公爵家の少女が、庭の隅で泣くのを必死にこらえていた。それに歩み寄って、ただ名前で呼んだ、もう一人の少女。
あれが、ラインフェルト侯爵令嬢、だったのか。
いや、まだ、確信は持てない。
ヴィルマールは、柱の陰から廊下に出る。何事もなかったように、巡回の経路を再開する。
観察を続けよう。
俺が見ているのが、本当にあの夏の少女なのか、それとも別人なのか、自分の目で確かめるまで。
* * *
同じ夜、寮の別棟。
モルゲンシュタイン公爵家の寮室で、エヴェリンは鏡の前に座っていた。
黒髪を結っていた留め具を、一つずつ抜いていく。長い髪が肩に落ちる。鏡のなかで、自分の顔が、いつもよりずっと冷たく見えた。
今日も、シャルロッテはあの誇り高い顔のままだった。
平民出身の生徒に「失礼」と一言だけ言って通り過ぎたあの姿。あれが、王太子妃に選ばれた女の振る舞いというものなのね。誰にも踏み込ませない、誰の目も気にしない、自分が一番だと信じきっている、あの顔。
シャルロッテ。
あなたはなぜ、わたくしではなく王太子妃に選ばれたの。
わたくしの方が、あなたよりずっと優れているのに。容姿も、教養も、社交の所作も、何ひとつ劣っているはずがない。それなのに、選ばれたのはあなたで、わたくしではなかった。
あの誇り高い顔。
わたくしを見下している、あの顔。
いつか、思い知らせてあげる。
わたくしを誰だと思っているの。あなたが見下している誇り高い令嬢が、どれほどの傷を負って、それでも微笑み続けてきたのか、あなたには分からない。誰にも、分からない。
机の上に、シャルロッテの顔を写し取った似顔絵が、いくつも散らばっていた。エヴェリンが、社交界で見たシャルロッテを、一枚ずつ思い出しながら写したものだった。そのどれもが、爪で引き裂かれている。
扉が、こんこん、と鳴った。
「お嬢様」
侍女ベッキーの声だった。
エヴェリンは、慌てて似顔絵の紙片を、引き出しに掻き込む。鏡の前で姿勢を整え、唇に優美な微笑みを乗せ、扉を開けるよう声をかけた。
「お休みのお時間ですわ」
ベッキーが、礼儀正しく頭を下げる。
「ありがとう、ベッキー。下がってちょうだい」
扉が閉まる。
エヴェリンは、引き出しから紙片を一枚だけ、また指でつまみ出した。シャルロッテの誇り高い横顔。
爪が、紙の上で、また小さな音を立てた。
* * *
私の寮室、夜。
机の上で、私はノートを広げていた。
決められた未来の地図と並行して書いているもう一冊の、現実の動きの記録帳。今日のページに、私はインクのまだ乾かない文字を書き込んでいく。
「廊下の一件。シャルが手伝いかけて、止まった。本人は気にしていない様子。私が間に入って、周囲の温度を変えた。これからもこういうことは起きる」
「ヴィルマール様、本日も視線を感じた。あの方は、何かを知っている、もしくは、知ろうとしている」
ペンが、一度、止まる。
「視線の意味は、まだ、分からない」
私はペンを置いて、窓の外を見上げた。
雲が、月の縁にかかろうとしている。今夜は半月だ。明るすぎず、暗すぎず、ちょうど考えごとに向く光。
決められた未来のなかで、私は、ヴィルマールという人物のことをほとんど知らない。彼は王太子の護衛として、ずっと脇に控えていた。物語の中心にいる人ではなかった。私の地図のなかで、彼の名前には、印が三つしかついていない。
でも、現実の彼は、印三つで済む人ではないらしい。
あの視線は、警備の視線ではない。
ノートの隣のページを、私はそっと開く。エヴェリン・フォン・モルゲンシュタインの欄。空白。決められた未来には登場しなかった人。今、現実の世界で、シャルに向けて何かを動かしつつある人。
私の地図にない動きが、もう始まっているかもしれない。
私の知識だけでは足りない。私自身の目で、判断していくしかない。
ペンを取って、二つの欄に、それぞれ短く書き足す。
「ヴィルマール様 要観察。十一年前の記憶を、確かめたい」
「エヴェリン様 要警戒。動きを掴むまで、シャルから目を離さない」
ノートを閉じる。
窓辺に立って、もう一度、月を見上げた。雲が、半月の縁を、ゆっくりと通り過ぎていく。
シャル。
あなたを救うために、私はもっと忙しくなる。明日からは、私の地図の外側にも、目を配らなくちゃいけない。
でも、心配しないで。
あなたの不器用さも、あなたの誇り高さも、その奥にある十六歳の少女の優しさも、私は全部知っている。それを知っている人を、もう一人、明日あなたに紹介する。
昨日の夕方、神学科の祈祷室の前で、その人がふわりと微笑んでくれた。「シャルロッテ様にお会いできる日を、楽しみにしております」と。あの言葉に、私は今日一日、ずっと支えられていた。廊下の小さな事件で動いたあの一秒の踏み込みも、カフェテリアで張った声も、その奥にあるシャルへの献身も、全部あの言葉が背中を押してくれた。
明日、シャルとセラフィータを引き合わせる。
三人で並ぶ未来の、最初の一日が、明日から始まる。
ヴィルマール様のことも、エヴェリン様のことも、まだ全部は分からない。でも、明日の一日を、私はちゃんと守れる。それだけは、確かだ。
月の縁が、雲のなかへ、すっと隠れた。




