第3章 温度
学園生活が始まって、四日が経った。
朝の鐘で目を覚まし、寮の食堂で軽い朝食をとり、シャルと連れ立って一般学科の教室へ向かう。同じ流れを四度繰り返すと、もう何年もそうしてきたような気持ちになる。
決められた未来のなかで、この四日間の景色を私は見たことがない。物語の中心は別の場所で動いていたからだ。けれど今は、私自身がこの景色のなかにいる。シャルと並んで歩く石畳。磨かれた長机。廊下の窓から差し込む春の光。全部、私が組み替えていく未来の一部だ。
その朝、教室に入ると、いつもより少し早い時間だった。
まだ生徒たちはまばらで、シャルもまだ来ていない。私は窓側の自分の席にゆっくりと腰を下ろした。
廊下側の入口から、小さな足音が聞こえてくる。
明るい栗色の髪の少女が、両手で本を抱えて、おずおずと教室に入ってきた。私と目が合うと、ぴたりと足が止まる。
セラフィータだった。
「あの、ティータさん。おはようございます」
声は柔らかく、丁寧だった。入学式の壇上で聞いたあの温度のまま、まっすぐに私に届いてくる。
「セラフィータさん、おはよう」
私が応じると、彼女はほっとしたように小さく息を吐いた。それから、抱えていた本を机の上にそっと置いて、私のそばまで歩み寄ってくる。
「あの……ティータさんに、お礼を申し上げたかったのです」
「お礼?」
「はい」
セラフィータは、両手を前で軽く重ねた。少し落ち着かない様子で、視線が一度だけ床に落ちる。
「初日の入学式で、わたしが講堂で緊張していたとき、温かい視線を感じたんです。一瞬だけでしたけれど、確かに、わたしを案じてくださる温度の視線でした」
「……」
「振り返って探したわけではないので、確証はなかったのです。けれど、講堂で出会った方々のなかで、あの温度をくださりそうなのは、きっとティータさんだと思っていて」
私は息を呑んだ。
あの瞬間。教師がセラフィータを紹介して、彼女が深く頭を下げたあの瞬間、私は確かに彼女のことを見ていた。決められた未来でなら物語の中心になっていたはずの少女。けれど私はあなたを陥れる存在とは見ない。あなたも救うべき一人だ。そう心のなかで誓いながら。
その温度を、この子はただの視線で受け取っていた。
「視線で、わかるの」
私は静かに尋ねた。詰問にならないように、ただ知りたいというだけの声で。
セラフィータは、ゆっくりと頷いた。
「はい」
言葉を選ぶように、小さく口を開く。
「わたしは、人の気持ちが、お言葉や表情ではなく、そのまま伝わってくるんです。視線の温度や、お声の奥にある気配や、その場の空気の重さや軽さ。そういうものが、肌に触れてくる感じで、わかってしまうんです」
穏やかな声だった。それでいて、自分の感じ方を語ることにまだ少し慣れていない人の声でもあった。
私は彼女の眼差しを受け止める。
この子は今、自分の内側にあるものを慎重に取り出して見せてくれている。それも、四日前に初めて顔を合わせた相手に対して。それだけ私の視線を信用していいと判断してくれたのだ。
「教えてくれて、ありがとう」
私はできるだけ柔らかく答えた。
「初日の視線が私だったか、もう一度確かめてくれてもよかったのよ。でも、あなたは確信して、お礼を言いに来てくれたのね」
「はい。わたし、視線の温度は、間違えないんです」
セラフィータの口元が、ふんわりと緩んだ。
あなたを「シャルを陥れる存在」とは見ない、という私のあの誓いは、もうこの子に伝わっている。視線という、人がいちばん隠していると思っている経路で、まっすぐに。
この子の感受性は、想像していたよりずっと深い。
* * *
昼休み、私は中庭ではなく図書館へ向かった。
シャルには午後の予習があるからと小声で告げて、教室で別れた。本当は、セラフィータともう少しゆっくり話してみたかったのだ。彼女がさっき教室で見せたあの感受性を、もう少しだけ私の目で確かめてみたかった。
誘うのは、自然な口実があった。
「セラフィータさん、よかったら昼休み、図書館に一緒に行きませんか。新入生用の祈祷文集を、確か三階で配架しているはずなの」
「ぜひ。わたしも探していたんです」
返事は迷いなく返ってきた。
二人で図書館へ歩く廊下は、空気が澄んでいた。中央棟の三階、書架と窓のあいだに、淡い春の光が斜めに差し込んでいる。木の床は古く、足音をふっと吸い込んで、語り合うにはちょうどよい静けさを作っていた。
司書に頷きで挨拶し、三階の祈祷文集の棚を見つける。私は数冊を抜き取って、近くの長机に運んだ。セラフィータも迷いなく数冊を選び取って、向かい側の椅子に静かに腰を下ろす。
しばらく、二人とも黙って頁をめくった。
古い紙の匂い。窓の外で揺れる木立の音。隣の書架で誰かが本を戻すかすかな音。
ふと、セラフィータが顔を上げた。
「ティータさん」
「うん」
「あの、無礼でしたら、お許しください」
いつもの前置きだった。彼女が、自分の感じ取った何かを口に出すまえに必ず置く一言。
「言って」
「ティータさんは、いつも、誰かのために緊張していらっしゃるんですね」
私は頁の上に置いていた指を止めた。
「……」
「ご自分のために緊張なさることが、あまりない。視線の重さの大半が、ご自分の外側に向いていらっしゃる」
ゆっくりと、慎重に。
「シャルロッテ様のお気配をずっと見守っていらっしゃるのも、その一つだと思います。けれど、それだけではなくて、講堂で初めてお会いした方々の一人ひとりにも、温度のある視線を配っていらっしゃった。テオドール様にも、平民の特待生のわたしにも」
言葉が紙の上の祈祷文よりずっと深いところまで届いてくる。
私は何も言えず、ただ頁を一度閉じた。
この子は、私が十一年かけて積み上げてきた構えを、四日と少しで触ってきている。誰の負担も増やさず、誰のハッピーエンドも逃さず、決められた未来を組み替える。そのために、私はずっと自分の外側に視線を配り続けている。
それを視線の重さで感じ取られていた。
「セラフィータ」
私は思わず敬称を抜いてその名を呼んだ。
彼女が小さく目を見開いて、それから、ふっと表情を緩める。許してくれたというよりは、嬉しいという温度の緩み方だった。
「あなたは、人の何を見ているの」
「お顔や、お言葉や、お立場ではなくて」
セラフィータは、机の上で軽く重ねた両手に視線を落とした。
「お声の奥にある温度や、その方の周りの空気の重さや、視線の向け方や、息の小ささや、そういうものを、感じています。わたしには、それが、その方の本当のお気持ちに近いものに思えるんです」
「……」
「人の本質は、お顔や、お身分には、ないと思うんです」
穏やかな声だった。声を張らず、誰かを否定せず、ただ自分が信じていることをまっすぐに置いた。
私の胸の奥が、静かに鳴った。
この子の倫理は、十六歳の少女が一人で組み立てたものではない。きっと教会で多くの人に祈りを捧げ、多くの人の悲しみを浴び、そのなかで擦り切れずに、むしろ磨かれてきたものだ。
決められた未来で、この子は三人の青年たちに惹かれていく中心人物になるはずだった。けれど私の前にいるこの少女は、もう物語の中心になるかどうかなんて、たぶんどうでもいい人だ。誰かのお顔を見ないで、お気配を見る。その倫理だけで、もう十分に強い。
「セラフィータ」
「はい」
「あなたのその力、辛いときはない」
彼女は少しだけ視線を上げて、私を見た。
「ありますよ」
ぽつり、と落ちた声だった。
「人の本当の気持ちを浴びてしまうので、悲しい方のおそばにいると、わたしも一緒に重くなります。優しいふりの奥に冷たいものを隠している方も、わかってしまうので、お顔と気配が違うと、少し疲れます」
私は、彼女の手の上に自分の手を重ねたい衝動をぐっと抑えた。早すぎる。シャルとは違う、まだ四日目の関係だ。
代わりに別の言葉を選んだ。
「あなたが疲れたとき、私のところに来てくれていい」
「ティータさん」
「私のお気配は、たぶん、あなたを疲れさせないと思うから」
セラフィータが、頬をほんの少しだけ染めた。
「はい」
短い返事のなかに、信頼の温度がふっと混ざる。
決められた未来では、この子は自分の感受性ゆえの疲れを誰にも預けることなく抱え続けていたはずだ。物語の中心になるとは、そういうことだ。
その役割を、私は今日、半分だけ引き受けたかもしれない。
* * *
午後の講義が終わって、夕方。
セラフィータと別れ際に、神学科の祈祷室の前まで送った。神学科は、一般学科の棟から少し離れた、礼拝堂に近い別棟にある。古い石造りの建物で、廊下の天井が高く、足音が穏やかに響いた。
祈祷室の重い扉の前で、セラフィータが立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「あの、ティータさん」
「うん」
「シャルロッテ様にも、よろしくお伝えくださいね」
私は少し驚いて、彼女を見つめた。
「シャルに」
「はい。シャルロッテ様のお気配は、講堂で一度しか感じておりませんけれど、誇り高くて、それでいて少し寂しそうで、けれど、その奥に温かいものをお持ちの方だと感じました」
私は息を呑んだ。
四日前、入学式の一瞬の視線で。
あの遠い壇上に近い席で、誇り高い令嬢の仮面を寸分の隙もなく被っていたシャルの、奥にあるものを。
「ティータさんが、シャルロッテ様のおそばで緊張なさっていたのも、ただのご友人だからではないと、わたしには感じられました。あの方の、誰にも見せないお気持ちを、ティータさんだけが知っていらっしゃるのですね」
声は穏やかなままだった。詮索ではなかった。ただ感じ取ったものを、信用できる相手にだけ、そっと置いた。それだけの口調だった。
「……うん」
私は頷くしかなかった。
この子の前で隠す必要なんてなかった。
「セラフィータ」
「はい」
「いつか、あなたをシャルに紹介させて」
言葉が、自分の口から想定よりずっと早く出た。
計画では、シャルとセラフィータを引き合わせるのはもう少し先のはずだった。シャルの心の準備、セラフィータの学園への馴染み、両方を見ながら慎重に。
でも今、この子の眼差しを見て、私はもう待てなかった。シャルの「誰にも見せない優しさ」を見てくれる人が、もう一人ここにいる。それを、シャルにも知ってもらいたい。
セラフィータが、ふわりと微笑む。
「ぜひ。シャルロッテ様にお会いできる日を、楽しみにしております」
ためらいはまったくなかった。
「わたしも、シャルロッテ様の、お声を、もう一度、近くで聞いてみたいです」
祈祷室の扉のなかへ、セラフィータが消えていく。
古い木の扉が静かに閉まる音が、廊下に淡く落ちた。
私はその扉の前で、しばらく動けなかった。
決められた未来では、シャルとセラフィータは決して並ぶことのない二人だった。物語の中心になる少女と、その物語のために退場させられる令嬢。立ち位置が最初から対角線上に置かれていた二人。
でも、私の前にいるこの二人は、もう違う。
誇り高い令嬢の奥にある優しさを、感受性の高い少女が視線一つで感じ取る。そして、もっと近くで知りたいと言ってくれる。
三人で並ぶ未来の、ほんの最初の輪郭が、いま、私の目の前に置かれた。
寮へ戻る石畳の上で、私は空を見上げる。
夕陽が、学園の塔のうしろに沈もうとしていた。淡い橙色が、私の頬を温める。
シャル、と心のなかで呼ぶ。
あなたを救うために、十一年、私はあなたの隣で見守り続けてきた。十一年というのは、子供が大人になるのに必要なだけの時間で、けれどそのあいだ、あなたを「公爵令嬢」ではなく「シャル」として見たのは、私だけだった。それが私の誇りで、同時に、私の重荷でもあった。
でも今日、あなたを「シャル」として見てくれる人が、もう一人ここにいると分かった。
あなたを救うのは、私一人の仕事ではなくなるかもしれない。あなたを「公爵令嬢」ではなく「シャル」として見る人が、私以外にもちゃんといる。
その人を、これから、あなたに会わせる。
胸の奥で、決意がまた一段深くなる。
決められた未来を組み替えるための、二人目の手が見つかった。
明日、シャルにこの話をしよう。何と切り出そうかは、寝る前にもう一度考える。
夕陽が、雲の縁を、ふっと金色に染めた。




