第2章 素顔
学園生活の二日目は、朝の鐘の音と共に始まった。
寮の窓から差し込む光に、私は目を覚ます。窓硝子の向こうには、すでに身支度を整えた生徒たちが中庭を歩いていた。
今日からは、本格的な学園生活が動き出す。
シャルが、世間から「冷たい令嬢」として見られ続ける日々が始まる。
でも、それを変えるために私はここにいる。
一般学科の教室は、思ったよりも広かった。
磨かれた長机がいくつも並び、生徒たちはそれぞれの席に着いていく。私とシャルは、入口側から三列目、廊下側の二席に並んで腰を下ろした。事前に手配しておいた席だ。
周囲の生徒たちが、ちらちらとこちらを見る。視線は、シャルに集まる。
「ヴァイセンベルク公爵令嬢……本当にいらっしゃるんだ」
「殿下の婚約者って、本当にあんなにお美しいのね」
「でも、近寄りがたい雰囲気」
「あの方の隣にいる方は、ラインフェルト侯爵令嬢だそうよ」
「お知り合いなのかしら」
「殿下の婚約者って、もっと冷たい方かと思っていたわ」
「いいえ、あの目を見て。誰のことも見ていないみたい」
囁き声の波が、静かに教室を満たしていく。聞こえているはずだ、と私は思う。シャルの聴覚は鋭い。一語一語、銀色の耳に届いているはずだ。
それでも、シャルは姿勢を崩さない。背筋をまっすぐに伸ばし、机の上で軽く指を組み、視線は前方の黒板に注ぐ。誰とも目を合わせず、誰にも話しかけない。
誇り高い令嬢の所作。完璧で、隙がなく、そして、近寄りがたい。
シャル、これがあなたが十二歳の頃から鍛え続けた振る舞いね。誰もあなたに踏み込ませないための盾。
でも、その盾は同時に、誰もあなたを見つけられなくしてしまう。
私だけが、その盾の内側にいる。
最初の講義は、貴族としての歴史。
白髪混じりの老教師が、教鞭を片手に王国の建国史を語り始める。声は朗々として、内容は誇りに満ちていた。
シャルはノートを取らない。すべて頭に入っているのだろう。公爵令嬢として、こうした内容は幼少期から徹底的に仕込まれてきたはずだ。
私も軽く頷きながら聞き流す。決められた未来でこの講義を見たわけではないけれど、貴族令嬢としての教養はこの十一年で積み上げてきた。
講義の途中、教師がふと、生徒たちを見渡して問いを投げた。
「では、王国の三公爵家のうち、最古の家門はどこか。答えられる者は」
数人の生徒が小さく挙手する。教師は、その中の一人を指した。
「では、そちらの方」
指されたのは、平民出身らしい、地味な髪色の少女だった。少し緊張した様子で立ち上がる。
「あ、あの……ヴァイセンベルク公爵家、です」
「正解だ」
教師が頷く。平民の少女がほっとした表情で席に座ろうとした、その時、シャルの肩がほんのわずかに動いた。誰にも気づかれないほどの微かな動き。
私だけが、それを察する。
シャル、あなた、今、何かを言いたかったのね。
たぶん「ありがとう」とか、そんな短い言葉を。自分の家門の名を、平民の少女が正しく口にしてくれたことへの、純粋な感謝。
でも、あなたは何も言えない。「公爵令嬢たる者、軽々しく口を開いてはなりません」というお父様の声が、十六年間ずっとあなたの中に響いているから。
シャルは姿勢を崩さず、まっすぐ前を向いたままだった。
午前の講義が終わり、昼休みに入る。
教室を出る生徒たちが、廊下に流れ出ていく。私とシャルも、自然な歩調で立ち上がった。
「シャルロッテ様、中庭でご一緒に」
「ええ、ティータ嬢」
公的な口調を交わしながら、私たちは廊下を歩いていく。周囲には他の生徒が大勢いる。シャルの仮面は外せない。
中庭に出ると、春の日差しが石畳を温めていた。生徒たちは思い思いに散らばっていく。私たちは少し離れたベンチに腰を下ろした。
その時、視線の先に、銀髪の青年が現れた。
レオンハルト・ヴェルテンベルク殿下。
白い制服の上に、王太子の証である紺色の肩章をつけている。その半歩後ろに、白銀の制服のヴィルマール・ファルケンハインが控えていた。
シャルの背筋が、また一段、伸びる。
仮面が、より深くなる。
「シャルロッテ嬢、ご機嫌麗しゅう」
殿下が、まず声をかける。声は低く、整っていて、義務的だった。
「殿下、ご機嫌麗しゅう」
シャルも応じる。誇り高く、けれど無感情に。
「学園生活、何か不便はないか」
「ございません。ご心配なく」
「結構」
たった三往復の会話。情報の交換だけがあって、温度はなかった。婚約者同士が、義務として果たすべき挨拶を済ませた、それだけの数十秒。
殿下が小さく頷いて、立ち去っていく。
その時、護衛として控えていたヴィルマールが、私の方を見た。
昨日と同じ。視線が交わる、というほどでもない、かすめる程度の長さ。けれど確かに、彼の眼差しが一瞬私を捉えた。
ヴィルマール様。また、私を。
私は小さく会釈する。彼は無言で頭を下げて、殿下の後を追っていった。
白銀の制服の背中が遠ざかっていく。その背中は、護衛としての職務をきちんと果たすための、訓練された歩幅で動いている。
でも、その歩幅の中に、ほんのわずかこちらを気にする間がある。私の地図にない人。決められた未来に、彼の名前はなかった。
なぜ、私を見るのだろう。シャルを見るのなら分かる。シャルは殿下の婚約者で、警備対象だ。けれど彼の眼差しは、シャルではなく私を捉える。
考えるべきことが、また一つ増えた。
二人の姿が中庭の角を曲がって消えた瞬間、シャルが小さく息を吐いた。
「シャル」
「……ティー」
ベンチの上で、シャルの手がそっと膝の上に置かれている。指先が、わずかに震えていた。
私は何も言わずに、その手の上に自分の手を重ねた。冷たい。緊張で血の気が引いている。
「今日も、よく頑張ったわね」
「……ティータ嬢、ありがとうございます」
周囲には他の生徒もいる。シャルは公的口調を崩せない。
でも、その「ありがとうございます」の温度が、誰にも見せない柔らかさを含んでいることを、私だけが知っている。
午後の講義も滞りなく終わり、私たちは寮へと戻った。
ヴァイセンベルク公爵家の寮室は、廊下の突き当たり、独立した一画にある。シャルが扉を開け、私を招き入れる。重い扉が静かに閉まった。
その音と共に、シャルの仮面が、ふっと外れた。
「ティー」
彼女がソファに腰を落とす。背筋を伸ばしていた誇り高い令嬢が、十六歳の少女の姿に戻る。
「今日も、上手くできなかったわ」
私は隣に座って、彼女の手を取った。
「何が」
「殿下と話すたびに、わたくしの言葉が冷たくなるの。本当はもっと、上手く話したいのに。何か温かい言葉を返したいのに、口を開くと、いつも『ございません』とか『ご心配なく』とか、そういう言葉しか出てこない」
「シャル、あなた、いつも完璧だったわ」
「完璧じゃない」
シャルが首を横に振る。銀髪が揺れて、青い瞳が伏せられた。
「わたくしは、ただ、誰にもどう接していいか分からないだけよ。だから、公爵令嬢らしく振る舞うことに、ずっと逃げ込んできた」
その声が、少しずつ、震えていく。
私はシャルの手を、もう少し強く握った。
「ティー」
「うん」
「お父様にも、お母様にも、いつも『公爵令嬢らしく』と言われ続けてきたの」
シャルがゆっくりと語り始める。誰にも話したことのない、彼女の十六年。
「幼い頃、わたくしが泣くと、お父様は『公爵令嬢たる者、人前で涙を見せてはなりません』とおっしゃった。お母様は毎日のように『殿下にふさわしい振る舞いを』と」
私は静かに聞く。十一年、ずっと知っていた話。それでも、シャル自身の口から語られると、また違う重さで胸に届く。
「兄は家督を継ぐの。だからお兄様は、家のために学ぶ義務がある。でもわたくしは……家を継ぐ責任もない。ただ、誰かのもとへ嫁ぐために、磨かれてきた」
「お兄様とは、お話しなさるの」
私は静かに尋ねた。シャルが首を、ゆっくりと振る。
「子供の頃から、別の塔で育てられたの。お兄様は跡継ぎとして、わたくしは婚約候補として。一緒に食事をしたのは、年に数えるほど」
シャルの声が、わずかに掠れる。
「同じ家にいるのに、別の人生を歩んでいるみたいだった」
「シャル」
「政略結婚の駒。それが、わたくしの役割なのよ」
シャルが小さく笑った。乾いた、自嘲気味の笑い。
「殿下にふさわしくあるための、十六年。そのために、わたくしは『公爵令嬢らしく』振る舞うことを、誰よりも上手くなった。誰よりも上手くなりすぎて、もう……自分が本当はどう話したいのか、分からないの」
声が詰まる。
青い瞳に、薄く涙の膜が張った。
私は彼女の手を握ったまま、もう片方の手で、その肩を引き寄せた。シャルの頭が、私の肩に、ふっと預けられる。
「シャル」
「……ん」
「あなたはあなたのままで、いいのよ」
私は、十一年かけて伝え続けてきた言葉を、もう一度ゆっくりと口にする。
「あなたの中身を知ってる人が、ここにいるから」
シャルの肩が、小さく震えた。
誰にも見せない涙が、私の肩を、ほんのわずかに濡らしていく。
しばらく経って、シャルが顔を上げた。
まだ少し赤い目をしながら、彼女は私を見た。そして、ふと何かを思い出したように、微かに笑った。
「ねえ、ティー」
「なに」
「覚えてる? わたくしたちが五歳の頃の、お父様の社交場」
私は頷く。覚えている。十一年前、目覚めて間もない頃のこと。
「あの庭で、わたくしが一人で泣いていたとき」
「うん」
「あなただけが、来てくれたのよ」
シャルが、私の手を握り返す。さっきよりも、少し温度が戻っていた。
「みんな、わたくしを『シャルロッテ様』『公爵令嬢様』って呼んで、近寄ろうとしなかった。でも、あなただけが、わたくしを『シャル』って呼んでくれた、最初の人だった」
「うん」
「わたくし、嬉しくて」
その声が、ほんの少し弾む。
「『シャル』って呼んでもらえるのが、こんなに嬉しいんだって、初めて知った」
私も微笑む。あの日のことは、私も忘れていない。
五歳の春。父に連れられて参加した、公爵家の社交場。大人たちは大広間で歓談し、子供たちは庭に放たれた。私は庭の隅で、銀髪の少女を見つけた。
誰にも声をかけられず、白いドレスの裾を握りしめて、植え込みの陰でうつむいていた。涙は流していなかった。けれど、震えていた。誰にも泣き顔を見せないように、必死で耐えていた。
決められた未来で、その少女が学園卒業前に処刑されることを、私は知っていた。だから、駆け寄った。何をすればいいかなんて、五歳の私には分からなかった。ただ、名前で呼んだ。「シャル」と。短く、近く、誰よりも親しい呼び方で。
その瞬間、銀髪の少女が顔を上げて、こちらを見た。あの目を、私は今でも覚えている。
「だからね」
シャルが続ける。
「わたくしも、あなたを、あなたの一番近い名前で呼びたかったの。『ティータ様』ではなく、もっと近くで」
「シャル」
「『ティーって、呼んでもいい?』って、わたくしから、お願いしたわよね」
私は、ゆっくり頷く。あの瞬間。五歳のシャルが、涙の跡をまだ残したまま、銀色のまつ毛を上げて、おずおずと差し出してきた言葉。
「うん。私、すごく嬉しかった」
私の返事を聞いて、シャルがふわりと微笑む。
誰にも見せない、私だけが知っている、十六歳の少女の笑顔。
「ティー、ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「シャル、これからも、私はずっと一緒よ」
窓の外で、夕陽が傾き始めていた。
西の空が、緋色から、淡い金色へと変わっていく。寮室の壁に、長い影が伸びていた。
シャルは、私の肩にもたれたまま、目を閉じている。さっきまで張り詰めていた肩の力が、少しずつ抜けていくのが、隣にいる私には分かった。
私は、その横顔を見つめながら、静かに心の中で誓う。
シャル。
あなたのこの素顔を、もっと多くの人に知ってもらえる未来を、私が作るから。
あなたが「公爵令嬢らしく」という言葉から、いつか自由になれる未来を。
あなたを家のための駒としてしか見なかった人たちの代わりに、あなた自身を、まっすぐに見てくれる人を、用意するから。
誰にも本心を明かせないまま処刑される未来ではなく、誰かにあなた自身を愛してもらえる未来を。
絶対に、用意するから。
そのために、決められた未来を、十一年かけて組み替えてきた。今日は、その十一年の続き。明日も、その続き。
夕陽が、シャルの銀髪を、淡く金に染めていた。




