第1章 地図
私には、決められた未来が見えている。
五歳のあの日に目覚めて以来、十一年。今日でようやく、その未来が動き出す。
物語の主役ではない、誰の物語の中心人物でもない、ただの脇役だ。私の名前はティータ・ラインフェルト。
けれど、私には目的がある。
親友のシャルロッテ・アデルハイト・フォン・ヴァイセンベルク公爵令嬢を救うこと。
決められた未来では、彼女は学園卒業前に処刑される。五歳のあの日から十一年、私はずっと見守ってきた。
未来に関わる人物が、全員、今日この学園に集まる。
私の仕事は、シャルを救うこと。それと同時に、全員のハッピーエンドを用意すること。
決められた未来が、今日から動き出す。
* * *
ラインフェルト侯爵家の屋敷は、朝の光に満ちていた。
春先の空気はまだ少し冷たくて、磨き上げられた窓硝子に薄く露が残っている。私は窓辺に立って、空を見上げた。雲のない、澄んだ青。十一年間ずっと待ってきた今日にふさわしい朝だ。
胸の奥が静かに鳴っている。緊張ではない。覚悟、と呼ぶのが一番近い。
「お嬢様、お時間です。朝食の支度が整いましてございます」
扉の向こうから、侍女の控えめな声が聞こえる。
「ええ、すぐに行くわ」
鏡の前に立って、自分の姿を最後に確認する。栗色の髪を肩のあたりで揃え、髪飾りは控えめに。派手すぎず、地味すぎず。今日の私は侯爵令嬢としてのティータであって、それ以上でもそれ以下でもない。
大丈夫。やれる。十一年、ずっとそのつもりで生きてきたのだから。
食堂に入ると、両親はすでに席についていた。
父――ラインフェルト侯爵は、新聞から顔を上げて私を見る。穏やかな目元の人だ。地方派寄りの穏健派、というのが社交界での評判で、これは私にとって都合がいい。中央の権力争いに巻き込まれず、純粋に友情で動けるポジション。シャルを支えるためには、これ以上ない家柄だった。
「ティータ、よく眠れたか」
「はい、お父様。とてもよく」
「結構。今日からお前は学園生だ」
父は新聞を畳みながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「学園では身分の違いを忘れず、それでいて誠実な友を作りなさい」
矛盾しているようで、矛盾していない言葉。身分を忘れろではなく、忘れず、と言うところに父の慎重さがある。私は小さく頷いた。
「肝に銘じます」
母が穏やかに微笑む。
「あなたなら大丈夫よ。あなたはわたくしたちの自慢の娘ですから」
控えめだけれど芯のある人だ。父の隣で、いつも一歩下がりながら、けれど言うべきことは静かに言う。私が五歳で目覚めてからの十一年、母には何度も助けられてきた。シャルとの友情も、母が「身分を超えた友は、人生の宝です」と最初に背中を押してくれたから、ここまで来た。
「お父様、お母様、ありがとうございます。行ってまいります」
紅茶を一口だけ飲んで、私は立ち上がった。
今日は時間が少し早い。シャルの迎えの馬車が、もうすぐ屋敷に着く。
* * *
屋敷の前に、黒塗りの馬車が静かに停まった。
車体に刻まれた紋章――ヴァイセンベルク公爵家の紋。盾と剣、その上に冠を抱く意匠。誰が見ても一目で分かる、王国第一の名家の証だ。
使用人たちが整列して見送るなか、私は一礼して馬車に乗り込む。
扉が閉まると、薄暗い車内に、銀色の髪が浮かび上がった。
「ティータ嬢、本日もよろしく頼みますわ」
シャルロッテ・アデルハイト・フォン・ヴァイセンベルク。
絶世の美貌を誇る公爵令嬢は、青い瞳を伏せて、誇り高く微笑んだ。完璧な仮面。誰が見ても非の打ち所のない、王太子の婚約者にふさわしい所作。
「シャルロッテ様、お任せくださいませ」
私も公的な口調で応じる。御者が外にいるあいだは、これが私たちの作法だった。
馬車が動き出した。
石畳を蹴る蹄の音、車輪のゆるやかな振動。窓の外を、王都の街並みがゆっくりと流れていく。御者の足音が遠ざかったのを確認してから、私はようやく息を吐いた。
「シャル」
「……ティー」
仮面が、ゆっくりと外れていく。
誇り高い公爵令嬢の表情が崩れて、ただの十六歳の少女が、私の隣に座っていた。指先がかすかに震えている。
「ティー、わたし……今日、上手くやれるかしら」
「シャル、いつも通りで大丈夫よ。私が見てるから」
彼女の手を握る。冷たい。緊張で血の気が引いているのが、握っただけで分かった。
「あなたなら、できる。あの正門をくぐる瞬間も、講堂で殿下のお顔を見る瞬間も、全部、私が見てるから」
シャルが小さく頷く。銀髪が揺れて、青い瞳が私を見上げた。
「……うん」
たった一言。けれどその一言に、彼女の十六年分の不器用さが詰まっている。
誰にも本音を言えなかった少女が、私の前でだけは、ただの「シャル」になれる。これだけは、十一年かけて私が確かに掴んだものだった。
私が見てきた未来では、この子は誰にも本心を明かせないまま、誇り高い令嬢の仮面のままで処刑される。誰一人、その仮面の奥にいる本当のシャルを知らないまま。
そんな未来は、絶対に来させない。
馬車が学園の正門に近づくにつれて、シャルの背筋が静かに伸びていく。
仮面が、また少しずつ戻っていく。私はそれを見守りながら、自分の側でも気持ちを切り替える。馬車を降りた瞬間から、私もティータ・ラインフェルト侯爵令嬢として振る舞わなければならない。
「シャル」
「なに、ティー」
「行きましょう」
馬車が停まる。御者が扉を開ける。
差し込んだ朝の光のなかへ、私たちは並んで足を踏み出した。
* * *
王立ヴェルテンベルク学園。
国内最高位の教育機関であり、貴族子弟の社交の場であり、そして決められた未来が動き出す舞台。
正門をくぐった瞬間、周囲のざわめきが微妙に変わった。
「あれが、ヴァイセンベルク公爵令嬢」
「ええ、殿下の婚約者の方ね」
「噂通り、お美しいわ……」
「でも、なんだか冷たい印象」
囁き声が、空気の隙間を縫って耳に届く。
シャルは何の表情も見せない。誇り高い令嬢の歩き方を崩さず、まっすぐに正面を見て歩いていく。
シャル、その顔。あなたが十二歳の頃から練習し続けてきた、誇り高い令嬢の仮面。誰もあなたの中身を知らない。
誰もあなたの中身を知らないから、決められた未来では、誰もあなたを庇わないのだ。
私は内心でだけ拳を握る。表面では、彼女の半歩後ろを、新入生らしい控えめな歩調で進んだ。
講堂の入口で、私たちは一旦離れる。シャルは公爵家の令嬢として、より前方の席へ。私は侯爵家の娘として、その後方へ。役者の立ち位置が、こうして自然に決まっていく。
席に着いて、私はゆっくりと講堂を見渡した。
ここからが、本番だ。
まずは、壇上。
白い祭壇のような演台に、銀髪の青年が立っている。
第一王子にして王太子、レオンハルト・ヴェルテンベルク殿下。
十七歳。シャルの婚約者であり、決められた未来でシャルに処刑を行うお方。整った顔立ちと、纏う気配の重さが、すでに王太子そのものだった。
「諸君、入学おめでとう。ヴェルテンベルク王立学園は、我が国の未来を担う者たちの学び舎である」
声が講堂に響く。低く、よく通る、威厳のある声。
シャルの方をちらりと見る。彼女もちょうど、視線をそっと壇上に向けていた。レオンハルト殿下とシャルの目が、一瞬だけ合う。婚約者同士の、義務的な礼儀の交換。それ以上の温度はない。
シャルの背筋が、また一段、伸びる。
あなたの中で何が起きているか、全部わかる。緊張と、義務感と、ほんの少しの淋しさ。だってあなたは、十二歳のときに婚約を結んでから一度も、あの方からまっすぐな言葉をもらったことがないもの。
でも大丈夫。それも、私が変えていく。
次に、講堂の隅。
白銀の制服が、警備の姿勢でまっすぐに立っている。
近衛騎士見習い、ヴィルマール・ファルケンハイン。
十九歳。ファルケンハイン伯爵家の次男で、騎士団長候補。寡黙な堅物騎士、と聞いている。
その彼が、なぜか、私の方を見た。
ほんの一瞬。視線が交わる、というほどでもない、かすめる程度の長さ。けれどその一瞬、彼の眉がかすかに動いたのを、私は見逃さなかった。
……気のせい、よね。私は脇役の侯爵令嬢、彼の警備の対象でもない。
とりあえず、頭の隅に置いておく。
続いて、式典の冒頭の祈り。
壇上に、白い神官服の青年が進み出てくる。
聖職者見習いテオドール・ベルガー。十八歳、ベルガー子爵家の三男で、王立教会所属。穏やかで温和な聖職者、と聞いている。
「神の祝福が、新たな学び舎に集う皆様の上にありますように」
穏やかな声が、講堂を満たす。怒鳴らず、押し付けず、ただ静かに広がっていく祈りの言葉。
テオドール様。お声の温度が、聞いていた通り。
そして、新入生紹介。
教師が、一人の少女を前に促した。
「こちらの少女は、教会から聖名を授かった、平民出身の祈り手です。セラフィータと申します」
明るい栗色の髪。控えめで清楚な、温かい雰囲気の少女。
平民出身ながら、祈りの力で教会から聖名を授けられて、特待生として召し上げられた少女。決められた未来では、彼女は物語の中心になる。三人の青年たちが彼女に惹かれていく。
セラフィータが頭を下げる。
「皆様、よろしくお願いいたします」
声は柔らかく、丁寧で、誰にでも同じ温度を持っている。視線がほんの少し定まらないのは、緊張だけではないだろう。あの感受性ゆえに、講堂中の感情が一度に流れ込んできているのが、私にも想像がつく。
セラフィータ。教会授与の聖名で来たのね。
でも、決められた未来のように、私はあなたを「シャルを陥れる存在」とは見ない。あなたもまた、救うべき一人だ。三人で並ぶ未来の、三人目になる子だ。
最後に、講堂の対角。
黒髪を結い上げた、美貌の少女が立っていた。
すらりと伸びた背筋、優美な所作。一見すれば、完璧な公爵令嬢。けれど、その視線が、まっすぐにシャルの背中に注がれていた。冷たい、というより、刺すような視線。
エヴェリン・フォン・モルゲンシュタイン公爵令嬢。
私が見てきた未来には、登場しないはずの人物。十一年かけて積み上げた未来の地図のなかに、彼女の名前は存在しない。けれど現実のこの世界には、彼女がいる。そしてシャルへの視線が、明らかに異常だった。
あの方……私の地図にない人。けれどシャルへの視線が、決められた未来のどの場面よりも危うい。
私は心のなかで線を引く。要警戒。誰よりも目を離してはいけない人。
決められた未来の知識だけじゃ、足りない。私自身の目で、判断していかないと。
そして、私自身。
観察者として、講堂の七人目の席に座っている、ティータ・ラインフェルト。
壇上のレオンハルト殿下、前方のシャル、警備のヴィルマール、祈りのテオドール、新入生のセラフィータ、対角のエヴェリン、そしてそれを見ている私。
全員揃った。
決められた未来を組み替えるための、登場人物は揃った。
今日から、十一年の準備が動き出す。
* * *
入学式が終わって、生徒たちは寮へと案内された。
貴族の子女には個別の寮室が与えられる。シャルは公爵家令嬢用の独立した部屋、私は侯爵家の娘として、それに準じた部屋。同じ棟の、同じ階。これは私が事前に手を回して取り付けた配置だった。
寮の廊下を、私たちは並んで歩く。他の生徒たちもまばらにいるので、まだ公的な口調を崩せない。
「シャルロッテ様、お部屋まで、ご一緒してもよろしいかしら」
「ティータ嬢、もちろんですわ」
形式上の会話を交わしながら、シャルの部屋の前まで来た。
扉を開けて、二人で中に入る。広い居間と、奥に寝室。窓からは中庭を見下ろせる、最上の部屋。シャルが扉を閉めて、ようやく息を吐いた。
仮面が、また外れる。
「ティー」
「うん」
「今日、立っていられたのは、あなたのおかげよ」
シャルが私の手を取る。さっきよりは少し、温度が戻っていた。
「……ティー、今日からよ。学園生活が、始まるわ」
「うん、シャル」
私は彼女の手を握り返す。
「今日から、私が全部見ているから」
窓辺に立って、私は学園を見下ろした。
石畳の中庭、花壇、その向こうに広がる王都の街並み。これからの一年、ここで全部が動き出す。シャルとレオンハルト殿下の関係、セラフィータの居場所、エヴェリンの動き、そして決められた未来との対決。
筋書きは、私の頭のなかに全部入っている。
でも、私の地図にない人が、今日、確かにいた。
準備は整った。あとは、組み替えるだけ。
窓硝子に映る、自分の姿を見る。栗色の髪、整っているけれど派手ではない、ただの侯爵令嬢の顔。
うん、それでいい。
物語の中心人物はシャル、決められた未来で輝くはずだったのはセラフィータ。私は脇役だ。観察者で、介入者で、シャルの親友。それで、十分。
誰かに見られる側ではなく、見守る側として、私はここに立つ。
「シャル」
「なに、ティー」
振り向いた銀髪の少女に、私は微笑む。
「これから一年、よろしくね」
シャルが、ふわりと笑った。
誰にも見せない、私だけが知っている、十六歳の少女の笑顔。
その笑顔を、私は絶対に守る。
誰にも、奪わせない。




