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 赤井先生が案内してくれたのは、やっぱり白い扉の前だった。


「ここが、彼の部屋」


 赤井先生はそれだけ言って、扉から離れた。私はそれを見て、首を傾げる。


「先生は一緒に入らないんですか?」

「邪魔しちゃ悪いからね。あ、でもこれ堺先生には内緒だから」


 赤井先生との間で内緒の話が増えるなあ、と私は笑った。


「彼には、あなたが来ることを伝えてあるから。今日は研究をやめて、時間を作るように言ってある。ゆっくりしてね」

「伝えてあるって……。私のこと、なんて説明したんですか?」

「説明なんて簡単だよ。斎藤さん、今や有名人じゃない。後でサインくれたら嬉しいな」


 私は苦笑した。少し気恥ずかしかったというのもある。赤井先生は右方向を指さした。


「じゃ、私、ここからみっつ先の扉の中にいるから。終わったら声かけて」

「ありがとうございます」


 私は赤井先生を見送り、それから何度か深呼吸をした。そして、白い扉をノックする。手が震えていたせいか、弱々しい音だった。

 これで聞こえただろうか。もう一度ノックした方がいいかもしれない。

 そう思ったけれど、


「――開いています。どうぞ」


 中から、懐かしい声が、した。

 ゆっくりと扉を開けて、中を窺う。白いデスク。白いベッド。昔、私の住んでいた部屋にそっくりだ。違うのは、床に乱雑に積み上げられた資料の山。


 その中央に、山田君が立っていた。


 彼の容姿は、ちっとも変わっていなかった。十五歳のまま。身長も体型も、声の高さも変わっていない。ジャニーズにでも入れそうな、つるつるの肌と、どこか中性的だけどクールな顔。セットしてないのに、何故か整えられたように見える黒髪。すらりとした手足。茶色の、瞳。

 何も、変わっていなかった。唯一違うのは、彼が白衣を着ているということだけ。

 呆然と立ち尽くす私に、彼は言う。仏頂面ではないけれど、笑っているとも言えない顔で。


「――はじめまして、斎藤さん」


 私は笑った。きっとそれは、奇妙な笑顔に違いなかった。


「……はじめまして」


 口先だけの返事は、やっぱり薄っぺらかった。それに気づいているのかいないのか、山田君はワークチェアを指さした。


「雑然とした部屋で申し訳ありません。応接用のソファもなくて。よければそこにお座りください」

「ありがとう、……ございます」


 彼に敬語を使うべきなのかどうか、悩んだ。そんな私に山田君は微笑んだ。ような表情を作った。


「敬語でなくて結構です。私のこれは単なる癖なので、お構いなく」

「……『俺』でいいよ」

「はい?」

「普段、俺って言ってるんじゃないの? だから、私じゃなくて俺でいいよ」


 山田君は少し意外そうな顔をして、「では、俺と言います」と宣言した。

 私はワークチェアに座る。安物らしいそれは固くて、座り心地もよくなかった。けれど、彼にはそこまで分からないのだろう。私が腰掛けたのを確認して、彼はベッドに腰を下ろした。


「斎藤さんは、ここを卒業してから一年後、小説家としてデビューされたんですよね」


 山田君は興味深そうに言った。


「この施設は天才育成学校とは言っていますが、どちらかと言えば理数に特化している学校です。プロの小説家はあなたが初めてだと耳にしました。しかも、今やベストセラー作家として活躍していらっしゃる。素晴らしいと思います」

「……ありがとう」

「今日は、取材か何かで?」


 私は山田君に向かって微笑んだ。


「あなたに、会いにきたの」


 山田君はまた、意外そうな顔をした。彼からすれば、私とは初対面だ。なのにいきなり押しかけられたら、それはおかしいと思うだろう。山田君は瞬時に、考えられる話を導き出したようだった。


「もしや、次回作はSFで、アンドロイドか何か登場させるご予定ですか」

「……そんなところかな」


 私は曖昧に笑った。そんな予定は全くなかった。


「ねえ、山田君って呼んでいい?」

「はい。なんでしょうか」

「――澪は、科学者になったよ。私が聞いてもさっぱり分からない研究をしてる。司君は行方不明なんだけど、どこかで爆弾でも作ってるんじゃないかって噂。牧乃ちゃんはプロのピアニスト。全国を飛び回るような有名人なんだよ。ヒカル君は……結局お母さんは迎えに来なかったけれど、施設に引き取られて、今でも毎日街の絵を描いてるって」


 山田君は首を傾げた。私は笑う。

 ――覚えていないんだ、本当に。何もかも。友達のことも喫茶のことも図書室のことも海のことも、……何もかも。

 彼は困ったような表情をした。


「申し訳ないのですが、今のお話は」

「ごめんね、なんでもないの。言いたかっただけだから気にしないで」


 ――苦しかった。

 彼は私を救うために、多くのものを犠牲にした。それは多すぎた。

 いっそのこと、感情に任せて、すべてをぶちまけたい気分だった。


 どうして私には何も言ってくれなかったの。どうして相談してくれなかったの。どうして誰にも言わずに消えちゃったの。どうしてそこまでしてくれたの。どうして。


 事実に気付くのが遅すぎた。私たちはもう、下手をすれば親子のように見える。時間が経ちすぎた。二人で海に行ったあの時には、もう戻れない。

 どうしようもない。――ああ、また『どうしようもない』だ。そればっかり。


「斎藤さん? 大丈夫ですか」


 山田君が気遣うようにそう言って、私は頷いた。彼のおかげで、私は今ここにいる。大丈夫で、平気で、元気だ。それは確かだった。

 なのに、苦しかった。砂浜に血を吐いた、あの日のように。

 私は体勢を少し変えて、彼と向き合った。


「……取材ということで、いくつか質問してもいいかな」

「ええ。どうぞ」

「――ここ、狭くていやだとは思わない?」


 私の質問に、山田君は何故か頭を下げた。


「申し訳ありません。狭い部屋で」

「あっ、ごめん。そういう意味じゃないの。ただ、地下室に毎日ずっといて、山田君は平気なのかなあって思っただけ」

「ああ、それならまったく問題ありません。研究するためには最適の環境だと思っています」

「……そう」


 私がかつて感じていた息苦しさを、彼は感じていないようだった。それが幸せなのかどうかは、私には分からない。

 質問を変えることにした。今度の質問は、わざとだった。


「……アンドロイドのあなたが、気に入っている物語はある?」

「何度もすみません。俺は、小説を読んでもデータを滅多と残さないようにしているんです。でなければメモリ不足になるので。――しかしひとつだけ、十五年前から保持している作品ならあります」

「……それなに?」

「さむがり猫と雪だるま、という作品です。何かの本で読んだのですが、あれは気に入っているので保持しています。おとぎ話なので、斎藤さんからすれば幼稚だと思われるかもしれませんが」


 ――ああ。私は下を向く。彼が残したいと言ったひとつめの記憶。


『さむがり猫と雪だるまは、消さないでください』


「……私もそのお話、好きなんだ」

「斎藤さんでも、あのようなおとぎ話を読むのですか」

「そうだね。十五年前によく読んでた」

「奇遇ですね、十五年前とは。俺と一緒です。初版が十五年前だったんでしたっけ? そこまでは覚えていないのですが」


 違う。初版はもっと前だ。けれど、山田君が読んだのは確かに十五年前で、私と一緒にその物語の話をした。

 ――泣いてしまいそうだった。けれど彼は何も覚えていない。いきなり私が泣きだしたら、今度こそ困らせるだけだろう。私は涙を抑え込んで、笑った。


「山田君は、その物語のどこが好き?」

「そうですね。そう言われると難しいのですが、あの物語はアンドロイドからすれば興味深いんです。たとえば、俺には温度覚がありません。ですから、冬の寒さで猫の寂しさを描写しているあの物語は、理解するのが難しい。来年また会おうというラストもそうです。雪だるまが来年も猫の前に現れるかどうかは分からないのに、希望的な書き方をされて終わっている。この描写も、理解に苦しみます。けれどだからこそ、気に入っているのかもしれません」

「そう……」


 ――手を繋いだことも。それがあたたかいという感覚なのだということも。

 彼はもう何も覚えていなくて、なのにその話だけはきちんと覚えていた。

 彼の左手首に目をやる。そこにある淡いピンク色を、私は指さした。


「それ」


 私の視線に気づいた山田君が、自分の手首を見やる。


「かわいいね。ローズクォーツかな」

「そうです。――男性がピンク色を身につけているのはおかしいと思われましたか」

「ううん、全然。似合ってるよ」


 彼が残したいと言った記憶のふたつめ。ローズクォーツのブレスレット。けれどこれに関しては、記憶はかなりあやふやなようだった。


「それ、山田君が買ったの?」

「いえ。明確なデータは残っていないのですが、気づいたら手首につけていました。そして何故か分からないのですが、外したくないのです。どこで手に入れたのかも覚えていないのに、大切だと認識している自分がいます。――変でしょうか」

「そんなことない、と思う」


 私が軽くフォローすると、山田君は深刻な顔で言った。


「俺自身、何故これにこだわるのか分からないのです。ローズクォーツは恋愛運をあげる石ですが、俺には好きな人も、好きという感情もないのに」


 ――苦しい。苦しい。胸がぎりぎりと音を立てたのが聞こえた。締め付けられるような。

 私が知った時には、すべてが終わっていた。

 彼は突然姿を消した。それから十五年後、再会することはできた。けれど。


 山田君はここにいるのに、ここにはもういなかった。


 分かっていたのに。赤井先生にも何度も確認されて、頭では分かっていたのに、現実を突きつけられた途端に私の気持ちは行き場を失くしてしまった。

 ねえ、山田君。楽しかったね。短い間だったかもしれないけれど。楽しかったね。

 私は、あなたと会えて、幸せだったよ。


「――……大切にしてね、それ。効果あるから」

「効果? それはローズクォーツの石の意味ですか?」

「うん」


 私はそこまで言って、鞄の中から箱を取り出した。そしてそれを、山田君に差し出す。


「取材のお礼。受け取ってくれる?」


 私に渡されたものを見て、山田君は複雑な表情をした。構わずに私は続ける。


「スターバックス、オリガミ、パーソナルドリップ、コーヒーアソートセット……だったかな。ごめん、名前が長すぎてちゃんと覚えられてるかどうか不安なんだけど。ドリップ式だから、この部屋でも飲めるよ」


 山田君は反応に困っているようだった。


「失礼ですが、俺は」

「味覚がないんだよね? ごめんね、……ここに来るまでそれを知らなくて。でも、山田君に受け取ってほしいな。香りだけでも堪能してもらえるといいんだけど。飲まないようだったら、誰かほかの人にあげて。あ、できれば堺さん以外の人に」

「堺先生以外?」

「あの人には私怨がありまして。一杯のコーヒーですら渡したくないの」


 私は笑う。山田君は「それでは遠慮なく」と、オリガミなんとかを膝の上に乗せた。それを見ながら、私は決意する。


「山田君、もうひとついい?」

「はい。なんでしょうか」

「――抱きしめてもいい?」


 山田君は流石に、訳が分からないといった顔をした。それはそうだ。初対面の人間に抱きしめてもいいかなんて言われる方がおかしい。下手なアマチュア作家の書いた小説じゃあるまいし。

 山田君は無表情に近い、けれど少し困惑した様子で言った。


「そう、ですね。それも、取材で必要なのでしょうか。アンドロイドの抱き心地を描写するシーンがあるのですか?」

「それは、書くかもしれないし書かないかもしれない。ただ、私があなたを抱きしめたいだけ。いやだったら、いやって言ってくれていいから」


 三秒ほど間があった。それから、彼も決意したように頷く。


「構いませんが、」


 続きが簡単に予測できて、私は微笑んだ。


「山田君、触覚もないんだよね。なのにごめんね、変な注文ばっかりして」


 彼は微笑む動作をした。私は椅子から立ち上がって、彼の隣に腰掛ける。それから無言で、彼の背中に腕を回した。衣服がこすれる音だけが、部屋に残る。

 十五年前のあの日のように、彼は声をあげたりしなかった。けれど十五年前のあの日のように、彼の身体はとてもあたたかった。成長していないけれど、それでも彼の肩幅は私よりも広い。私はゆっくりと目を閉じた。

 そして心の中で、さきほど言った「ごめん」よりも多くの「ありがとう」を繰り返した。精一杯、心を込めて。

 口に出さなくても、彼に届けばいい。

 今、抱きしめている彼に。そして、私と海を見た彼に。


「――あの」


 耳元で彼の声がして、私はそのままの体勢で「なに」と訊き返した。


「ムードをぶち破るであろう事を言ってもいいでしょうか」


 それは、いつか聞いたのとほとんど同じフレーズだった。

 ――山田君はやっぱり、山田君だ。

 私は平然を装って、再度「なに」と繰り返した。


「俺も、斎藤さんの背中に腕を回した方がいいのでしょうか」


 言われてみれば私が一方的に抱きしめていて、彼は両手を太ももの上に乗せたまま背筋を伸ばしているだけだった。客観的に見たらかなりおかしい。私は笑った。


「どっちでもいいよ」


 フラペチーノのホイップクリームは好きに食べなさい、と同じくらいに困らせる返事だったと思う。

 彼は少し考えて、けれどやがておずおずと、私の背中に腕を回してきた。

 ――ねえ、山田君。実はこれ、四回目なんだよ。山田君は忘れちゃったかもしれないけれど、私はちゃんと覚えてるよ。

 そんなことを言えるわけもなくて、私はしばらく彼のあたたかさに包まれた。

 

 私はもう、ひとりぼっちではない。



「――最後にひとついい?」


 帰る支度を始めた私は、相変わらず姿勢よくベッドに腰掛けている山田君の方を見た。


「はい、なんでしょうか」

「山田君はどこか、行きたいところってある?」


 山田君は小首をかしげ、直後それを横に振った。


「特にありません」

「……そう」

「ああでも、そうですね」


 強いていうなら、と山田君は付け加えた。


「海を、見てみたいかもしれません」


 私は笑った。


「それって、沖縄の波照間島にあるニシ浜?」

「驚きました。どうして分かったのですか」

「……私も行ってみたいと思ってたから」


 ねえ。私は山田君に呼びかけた。


「二人で行こうか。そこ」

「え?」

「見に行こうよ。海を」


 ――ねえ。山田君はもう覚えてないかもしれないけれど。

 今度は私が、あなたを連れ出す番なんだよ。


 おとぎ話は未来をくれない。

 けれど、おとぎ話の登場人物は、未来をくれた。

 私に未来をくれたのは、この世にたった一人しかいない、人間の心を持ったアンドロイドだった。


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