2
地下室は、白いタイルと白い扉で埋め尽くされているようだった。
同じような部屋が並んでいて、どこがどこに繋がっているのかさっぱり分からない。この中のどれかひとつは六畳ほどの小さな部屋で、私はそこで十二年間を過ごしたはずだった。けれど今となっては、部屋の中の様子は思いだせても、どこの部屋だったのかまでは覚えていない。
息が詰まりそうだった。
赤井先生に誘導されて、一室に入る。私の予想を裏切って、そこには大きな空間があった。ベッドの代わりに白い長机がある。見た限り、会議室のようだ。
そしてそこに、
「やあ。久しぶりだね」
堺さんが、いた。
彼は相変わらず、イエス・キリストをリスペクトしているようなもじゃもじゃ頭で、けれどイエスのような心を持っているわけではなかった。断じて違う。まったく違う。むしろ逆だと言ってもいいかもしれない。聖書の中から選ぶのなら、旧約になってしまうけれどエデンの園にいた蛇に一番似ているんじゃないだろうか。
「いやあ、随分と素敵な女性になったねえ」
彼は眼鏡の下で、くまの隠せていない目を細め、私に右手を差し出してきた。はい握手。
するはずがない。その右手を右手で払って、あいている左手で平手打ちしてやりたい気分だった。しないけれど。この男はどういう思考回路を経由したら、私と握手したいと思うのだろう。あるいは、握手できると思うのだろうか。
三十歳になった私は流石に、握手を求められたら返すのが礼儀だと知っていた。けれど、決して返そうとはしなかった。その代りに、言葉をプレゼントする。
「堺さんも、随分老け込みましたね。その老け顔でかっこつけても、不気味なだけですよ」
堺さんは右手をひっこめ、肩をすくめた。
「もしかして少し攻撃的になったのかな? だとしたら、君の実験は中止しないと危険だなあ」
「ああ、攻撃的だと思いました? 客観的事実を口にしただけなんですけど」
「口が達者になったようだ。子供のころはあんなにオドオドした人間だったのに。まあとりあえず、君は元気だったということかな?」
私が頷くと、堺さんは嬉しそうに笑った。
「それはなによりだ。じゃなきゃ、彼があそこまでした……いや、ここまでしている意味がないもんねえ」
私は俯く。それも事実だ。言い返せない。
堺さんはへらへらと笑って(本当に腹立たしい笑い方をしてくれる)、私の肩を気安く叩いた。
「安心すればいいよ。これは、彼が望んだことだ。いまごろ喜んでいるだろう。喜ぶことができれば、の話だけどね」
じゃあ僕は仕事があるからこれで、と堺さんは会議室から出ていった。
「……大丈夫?」
終始無言で私の背後にいた赤井先生が、声をかけてきてくれた。私は首を縦に振る。
赤井先生は会議室にあったノートパソコンを開いて、USBを差し込んだ。ファイルの名前は日付になっていて、赤井先生が選択したのは――私と彼が海に行った日付だった。
海から帰り、寮で別れたあの日から。山田君は私たちの前に一度たりとも姿を見せなかった。
海に行ったのは土曜日で、彼と二度と会えないと判明したのは月曜日だった。教員から、彼は退学したとだけ伝えられたのだ。情報はたったのそれだけで、様々な憶測が飛び交った。どこかの大企業に引き抜かれたんじゃないかとか、自分で会社を立ち上げるつもりなんじゃないかとか。
どこかの国で爆弾を作るつもりなんじゃないかという妙な噂まであった。というか、それを言ったのは司君だった。
私は地下研究所で、赤井先生や堺さんに問い詰めた。彼らなら事情を知っているに違いないと思ったからだ。それは間違っていなかったのだけれど、彼らが私に真実を教えてくれることはなかった。
彼のテストが終わってしまったのかもしれないし、故障したのかもしれないし、何か他の理由があったのかもしれなかった。
とにかく彼は、ある日突然、私たちの前から忽然と姿を消したのだ。
実は私は、彼の最後の言葉を聞いていた。
――またね、と言った私に、彼はじゃあなと返した。またな、ではなく。
あの時から、彼はきっと自分の今後を知っていた。私が、気づかなかっただけだ。
赤井先生がファイルを開くと、この会議室を斜め上から映した映像が現れた。思わずそちらを見上げると、監視カメラらしきものが確かに設置されていた。堺さんは画面に背中を見せていて、山田君がこちらを向いた形になっている。
「音声も画質もちょっと悪いけれど、見れないほどでもないから。……いい?」
赤井先生はやっぱり心配そうに、私の顔を見た。私はできる限り笑って、頷く。
「お願いします」
画面の中で、山田君は信じられないくらいに怒っていた。机を叩いたり、語気を荒げたり。私から見ても彼はひどく不安定で、そしてとにかく怒りをあらわにしていた。
私の、ためだった。
やがて彼は、自分の前に置かれた資料を見て、言った。
『提案と相談があります。皆さんも聞いてください』
『……聞くだけならね。なんだい?』
太田さんに話しかけていたはずなのに、何故か堺さんが言葉を返した。けれど彼は意に介す様子もなく、発言を続けた。一言目で、結論を出した。
『俺ならば、この疾病を完治させることができます』
――この時彼は、資料を見たうえでそう判断したのだろうか。それとも、ただのハッタリだったのだろうか。分かるのは、その口調がとてもはっきりしていたということだけだ。
山田君の言葉を聞いた堺さんは、両手を広げて肩をすくめた。外人のするジェスチャーだ。
『君はいつからそんな冗談を言うようになったのかな』
『冗談ではありません。必ず治します。それも、三か月以内に』
私はハッとした。三か月というのは、あの時私が彼に教えたタイムリミットだった。
『――いいかい山田君。そこにいるプロフェッショナルをもってしても、この疾病はまだほとんど何も分かっていない状態なんだよ。それを三か月で治す? 馬鹿なことを言ってくれるね。怒りの感情が強すぎて、どこかショートしたのかな』
『俺はどこも異常ありませんよ。なんならスキャンでもすればいい』
『治せるという根拠は?』
『俺が、自身で思考し、作り出すことのできるアンドロイドだからです』
山田君は言い切った。そこには一切の迷いがなかった。
『普通のコンピューターならば不可能でしょう。自分で考えることができないからです。しかし俺は、自分で考察・発案し、行動し、作る力まで持っている。治療法は絶対に見つけ出せます。――なんなら、はっきり言いましょうか? 俺はそこにいる、二人の学者よりも優れている。何故なら俺は、コンピューターの頭脳を持った人間だからです』
『……驚いたね。自分のことを人間だと言うのか』
『分かりやすく言っただけです。――俺はただのアンドロイドですよ。人間ではない。ただ、コンピューターの頭脳を持った人間、というのが一番分かりやすい比喩だと判断しただけのこと。深い意味はありません』
彼は自嘲気味に笑った。ように見えた。
『どうでもいい情報を付け加えるのであれば、俺は睡眠も食事も必要としません。そこの学者は、一日何時間寝て、食事や風呂などにどれだけの時間をかけるのでしょう? 俺はそのすべてを必要としない。一日二十四時間、研究することができます。人間が研究するよりも、よほど効率的です。――どうですか? この疾病の研究に、俺を加えるというのは』
その言葉を訊いて、学者二人は肩幅を小さくした。堺さんは首を傾げる。
『それじゃあ訊くけれども。その資料を読んだ君の所見は? それで何か、分かったことはあるのか?』
山田君は黙り込んだ。堺さんが声をあげて笑う。
『君は自分を買い被りすぎているようだ。そりゃあ確かに、君は優秀だよ。そこら辺にいる人間よりかはね。けれど、君の知識は広い分、浅い。しょせん、プロには敵わない。どうせその資料に書いてあるデータも、ほとんど分析できなかったのだろう?』
『ええ』
彼は否定しなかった。そして、赤井先生の横にいる、ぽっちゃりとした男性を見た。
『ここまでは提案です。そしてここからが、相談です』
そこで、少し沈黙した。堺さんが続きを促すと、山田君は口を開いた。
『太田さん。この疾病を研究するために必要な情報をすべて、俺にインプットしてもらえませんか。できる限りの情報を。医学はもちろん、生物学も薬学も化学も数学もすべて』
ぴゅうっと堺さんが口笛を吹いた。太田さんと呼ばれた男性が、首を振る。
『無理だ……』
『時間がないんです。今から俺が資料や本を読んでいたら間に合わない。だから、データをそのまま俺に入れてください。そうすれば俺は、いちいち資料を開いたりすることなく、研究に没頭することができる』
『無理だよ!』
太田さんが叫んだ。
『メモリが、……メモリが足りない。君のメモリには、そんな莫大な情報を一気に保持できる余裕なんてないんだ。無理だよ……』
『安心してください、それも想定内です』
山田君は微笑んだ。そして、言う。
『俺のエピソード記憶を。……すべて削除してください』
その言葉に、赤井先生が顔をあげた。太田さんは首を振っている。信じられないといった様子で、何度も何度も。
『それ……意味を理解して言ってるんだよね?』
訊いたのは、赤井先生だった。
『エピソード記憶を消したらどうなるか。分かってるよね? ……消えちゃうんだよ、個人的な思い出が、ぜんぶ』
『ええ』
『山田君のエピソード記憶は、バックアップができない。削除したら二度と思いだせないんだよ』
『それも承知しています』
『本当に分かってるの? お友達とお話していたことも、一緒に遊んだことも、みんなで授業を受けていたことも。ぜんぶ忘れちゃうんだよ。それに……』
赤井先生は少し悩んでから、半ば叫ぶように言った。
『斎藤さんとの記憶も、彼女に対する感情も。みんな忘れちゃうんだよ……!』
その言葉に、山田君は口角をあげた。
『研究に必要なのは、俺がいま保持しているエピソード記憶よりも、意味記憶――知識です。違いますか』
誰もが黙り込んだ。赤井先生は呆然としている。この中で、私と山田君の両方に一番かかわっていたのは赤井先生だ。――先生はどんな思いで、山田君のこの話を聞いたのだろう。
山田君は再度、太田先生に声をかけた。
『俺からエピソード記憶をすべて消したなら、メモリにかなりの空きができるんじゃないですか? そこに、あらゆる情報をいれてほしいんです。お願い、できませんか』
『けど、君は……』
『――ならば、もうひとつ提案をします。堺さん』
声をかけられた堺さんは、なにかな? と首を傾げた。
『もしも俺がこの疾病の治療法を確立することができたなら。その時はその功績を、すべてあなたたちのものにしてくれて構いません。これならどうです? やってみる価値はあると思いませんか』
『――君はそこまで斎藤卯月にこだわるのかい』
『俺が興味を持っているのは、この疾病の方です。彼女ではない』
画面の中の山田君はさらりとそう言った。私は少しだけ、下を向く。
『もしもこの疾病の治療法ができたら、どれだけ儲かるでしょうね。あるいはどれだけ崇拝されるでしょう。人間は、そういうのが好きなんじゃないですか? しかし、アンドロイドはそういったものに魅力を感じません。――それとも堺さんはまだ、俺の研究にこだわりますか。地震と停電によって偶然できてしまった、金にもならないアンドロイドの研究に。その研究に、なんらかの光明は見えているんですか? 俺が作られてから五年もの歳月が経っていますが、俺と同じようなアンドロイドは開発されていないと聞きました。それでもなお、そこにこだわるつもりですか』
堺さんは黙り込む。会議室は静まり返っていた。その中で、山田君は言う。
『疾病に関する研究か、偶然できたアンドロイドの研究か。どちらの方が有益か、よく考えてください。答えは明白です。それとも、それすら計算できない馬鹿ですか?』
『……山田君』
赤井先生が、振り絞ったような声を出した。
『それで、……あなたはそれでいいの? だって斎藤さんは、』
『構いません』
山田君は即答した。そうして、口の端を吊り上げた。
『俺はアンドロイドです。斎藤卯月に対して、特別な感情はありません』
「……下手な、嘘でしょう」
赤井さんはここで、動画を止めた。私は無言で頷く。声が、出なかった。
「本当は、あの場にいた全員が理解していた。山田君が斎藤さんのために病気を研究するって言いだしたことも、彼が斎藤さんにどういう感情を持っていたのかも。知っていて、けれど結局、堺さんが結論を出した」
「それで……」
赤井先生は視線を下に落とした。
「――山田君のエピソード記憶をすべて削除し、メモリの空きを作って、病気の研究に必要な知識を詰め込んだの」
山田君はいつか言った。自分は死なないと。
けれど彼は、いなくなった。
私の、ために。
「……彼はその後本当に、一日二十四時間、研究し続けた」
赤井先生は寂しそうに笑った。
「三か月なんて絶対無理だろうっていうのが最初の見解だったの。けれど彼はあっという間に、病気の原因を突き止めた。……そこからはもっと早かった。病気の治療薬も、再発予防のための薬も。あらゆるものを、次々と作りあげた」
「だから」
画面の中の彼に向かって、言った。
「私は、生きてるんですね」
――私は、何も知らなかった。
海に行った一か月後、いきなり病気の原因が分かったと言われて、更には薬まで渡された。延命させるための薬ですかと訊ねたら、病気を治すための薬だと菱木さんに言われ、耳を疑ったのを今でも覚えている。
それが、彼の作った薬だとも知らずに、私は毎日それを飲んだ。
そして、私の症状は徐々に軽くなっていった。吐血することもなくなった。ある程度の運動が許可されるようになった。やがて、普通に運動しても差し支えないようになった。そのうち、病気そのものが、消失した。
三か月経っても一年経っても五年経っても。私は死ななかった。
それがすべて彼のおかげだと、私はずっと知らずに過ごしてきた。彼が、私には事実を教えるなと全員に口止めしていたからだ。
そろそろ時効かしら、と菱木さんが言いだしたのはつい先日。そこで私は、彼がまだこの施設にいることを、そして、私の病気を治したのが彼だということを知った。
慌てて施設に連絡を取った。厳密に言えば、菱木さんを通して連絡した。
彼に会ってもいい。そう言われて、私は今日、ここまで来たのだ。
「……アンドロイドは恋をするのかどうか、というのが山田君に対する本当の実験だった。『人間と生活ができるか』というよりも『アンドロイドの感情には人間らしさがあるか』を重視していたの」
赤井先生は溜息をついた。
「この会議での彼の態度からも分かる通り、実験は成功した。……けれど彼が言っていた通り、彼以外に『人間として』動くアンドロイドはその後一体も作れなかったの。アンドロイドの実験は、実用性がなかった。だから、アンドロイドの実験はそこで打ち切られた。そして山田君の言う通り、『コンピューターの頭脳を持つ人間』に疾病の研究をさせる方に、堺さんは賭けたの」
赤井先生はノートパソコンをいじり、シャットダウンする。暗転する画面から、私に目を移した。
「山田君は今でも、この地下研究所に閉じこもって、あらゆる研究を続けている」
ぱたん、とパソコンを閉じて、赤井先生は言う。
彼は私を救う代わりに、様々な記憶や、空や海を、失った。
「彼はもう、斎藤さんの知っている山田君じゃない。……それでも会う?」
私は迷わず頷いた。赤井先生は微笑み、立ち上がる。それから、ああそういえばとこちらを向いた。
「エピソード記憶を削除する時にね。彼が、どうしても残してほしいと言った記憶がふたつあった」
「……なんですか、それ」
「あのね、」
彼の選んだふたつの記憶は、空の広さでも海の大きさでもなかった。
彼が忘れないようにと選んだのは、もっともっと小さなものだった。




