1574:現金。
なんだろう。身体がだるくて目を開けることが凄く面倒だ。
ふいに訪れる冷たいなにかが気持ち良くて、余計に目が開けられない。頭は起きなければいけないと考えているのに、身体が寝ていろと命じているような。どちらの言うことも真実だと、心がせめぎ合っているような。仕事をしなくちゃいけないと強い感情が湧いて、どうにか重く閉じていた瞼をこじ開ける。見慣れたアストライアー侯爵領領主邸の自室の天井がぼやけて映り、ベッドの中にいると自覚する。
いつも一緒に寝ているクロはいるかなと頭の上にあるはずの篭を見ようとするけれど、身体を動かすのが億劫だ。ならベッドの側で寝ているであろうヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちはどうしているのかと思うけれど、寝返りを打つのも面倒である。
どうしようもないと自嘲すれば、そっくり兄妹のぼやけた顔が視界に映った。
「…………っ」
二人の名前を呼ぼうとして、声にならなかった。そういえば喉が枯れて声が出辛い状況に陥っていたなあと他人事のように思い出す。それからエッダさんが介添えのために部屋に顔を出し慌てて引き下がったところまでは覚えている。それ以降、私がどう過ごしたのか記憶から消え去っていた。
あまり時間は経っていないような、物凄く時間が過ぎてしまっているような。側にいてくれるジークとリンに私がどれくらい寝ていたのか聞けば良いことかと納得していれば、ジークとリンのぼやけた顔が徐々に鮮明になっていく。
「目が覚めたか」
「まだ寝てよう、ナイ」
そっくり兄妹のいつも落ち着いている声より更に小さいものになっていた。どうして声を絞るのかと不思議に感じつつ、私は身体を横にして手を支えにして起きようとどうにか踏ん張る。
「……いじょう、ぶ。起きる」
ぐぐっと腕に力を入れるけれど、どうにも上手く身体を動かせない。はっと短く息を吐いて、もう一度腕に力を込めようとすれば、私の視界にクロが飛び込んできた。身体をベッドに付けて私を見上げるようにしているから、クロの視線は随分と可愛らしいものである。
『無理は駄目だよ、ナイ。辛そうだ』
クロの声と同時にリンの腕が私に伸びてきた。やんわりとリンが私の身体に触れてベッドに寝かしつけられる。立場が逆転していないかと抗議の声を上げたいものの、喉が渇いて声を出すのが面倒だ。
むーと顔を顰めて私がリンを見ると、なんとも言えない表情を浮かべている。あの顔は私が無茶と無理をした時の心配しているそっくり兄妹であるが、討伐遠征時のような命を賭けるようなことはしていないのだから過保護ではないだろうか。とはいえ、身体はだるく瞼も重い。抵抗しても寝かしつけられるだけだと判断した私は、黙ってリンの行動を受け入れるのみ。
「どのくらい、ね、てた?」
「丸一日」
私が問えばジークが答えてくれながら、冷やした布をおでこに置いてくれた。冷たさが随分と心地良く、熱があるのかもしれないとはたと気付く。それなら一日寝込んでいたとしても不思議ではない。
不思議ではないのだけれど……途中で目覚めた記憶が一切なかった。とはいえ、屋敷の方たちに心配を掛けたのは事実である。昨日は休みの日ではなく、普通に執務を予定していた。それに神さま方の会合の事後報告や処理であたふたしていたというのに。
「つかれてるのは、みんな、いっしょ。ごめん」
変なタイミングで寝込んでしまうのは私の悪い癖であろうか。生まれ変わってからは気が張っていたのか風邪を引いた記憶はないけれど、前世で風邪を引いた時は夏だったり、どこで感染したのかと不思議な引き方をしたものだ。
そして風邪を引いたと気付くのが遅くて酷くなってから寝込んでいた。私の身体は動けるから動いていて、許容度を超えるとぶっ倒れる仕様のようだった。今世の身体もギリギリまで耐えて倒れてしまう口のようだ。
「謝らなくて良い。ただ、身体の調子を崩してから休むのは駄目だな」
ジークが片眉を上げながら微かに笑う。エッダさんが介添えにきて体調不良に陥っていると報告しに部屋を出て行ったあと、私はベッドの上で意識を失っていたようである。
膝を抱えたまま寝落ちしていたようで、エッダさんには随分と心配を掛けてしまったとか。新しい寝間着に替えることやらはリンが担ってくれ、ジークは関係各所への報告に奔走してくれたようである。話を聞けば聞くほど、私はなにをしているのかと頭を抱えたくなっていれば、リンが小さく笑う。
「少しだけ新鮮」
リンはリンで弱っている私の面倒を見るのが楽しいようだ。普段は私がリンの世話をしていることが多いから、彼女にとって今回のことは本当に稀有な事態ということらしい。でもまあ、私が辛そうにしているのは見たくないと、直ぐに顔を顰めているけれど。
『みんな心配しているよ~ヴァルトルーデさまとジルケさまに元気がないからねえ』
ベッドに寝る私の耳元でクロが小声で呟いた。ヴァルトルーデさまとジルケさまに元気がないのは珍しい。二柱さまは昨日の三食ともにご飯のお代わりをしないから、調理部の皆さまが『ご当主さまが寝込んでいなければ、天変地異が起こる前触れでは? と震えているな!』と片眉を上げながら微妙な顔になっていたとか。
「にはしらさま、が、おかわりしない……想像、できない……」
本当に。私の言葉にそっくり兄妹が微妙な表情を浮かべるも直ぐ真顔に戻った。どうやらヴァルトルーデさまに元気がないことで、聖王国の大聖女さまにある聖痕の色が薄くなっているとか。真意を確かめるためにフィーネさまとウルスラさまが領主邸にやってきているそうだ。エーリヒさまとユルゲンさまも外交員としてヴァルトルーデさまとジルケさまと大聖女さまお二人の話合いの場に立ち会っているとか。
庭でお茶を飲みつつ話をしているそうで私も挨拶に伺いたいところだが、行っても病人がくるなと言われるだけである。顔を出せずに申し訳ないと伝言をお願いするに留めておこうと私が笑えば、ジークとリンも笑い返してくれる。
「早く治さないとな」
「治癒を施して貰う?」
確かに早く治さなければいけないけれど、風邪なら魔術を施して貰う必要はないだろう。もっと高熱にうなされているのであれば考えるけれど。
「寝てれば、治る、よ」
「分かった。寝ていたから食べてないんだ。食欲がなくても持ってきて貰おう」
「食べれる?」
そんな会話をしていると重い瞼が勝手に下がって意識がまた遠くなる。ジークとリンの話をしている声が耳に届くけれど、内容はさっぱり届かないままだった。そうしてはたと目が覚める。
「あれ。今何時?」
ふいに時間が気になって、私は独り言を呟いてしまった。私の頭の横でクロが私の顔を覗き込む。
『もう直ぐ陽が暮れるよ~』
「クロ。ずっと側にいてくれたの?」
どうやらまた随分と寝ていたようだと私が笑うと、クロは顔を顔にすりすりと擦り付ける。
『心配だからねえ。みんな心配だからってナイの様子を見にきていたけれど、ジークとリンが弱っているところを見られるのはあまり好きじゃないからって、なるべく人を寄せ付けないようにしてたよ~』
屋敷の皆さまやフィーネさまとウルスラさまとエーリヒさまとユルゲンさまも部屋を訪れてくれたようだが、早く元気になってくださいという言葉を残して聖王国とアルバトロス王都へと戻って行ったそうである。
聖痕については単にヴァルトルーデさまが気落ちしているだけと結論づいたようだ。そして消えてしまっても再度付与するとのこと。なんだか凄くチートではと思ってしまうが、ヴァルトルーデさまらしいのだろう。私は寝たまま息を吐いて顔を横に向ける。
「そっか」
『ちょっとマシになったみたいだねえ』
私にクロが目を細める。たしかに前より声が出やすくなっていた。おでこの上には濡れた布がまだ置かれていて、ズレ落ちそうになっていたのを手で防いだ。触れた手に布の冷たさが、まだ少しだけ保たれている。
「うん。身体が少し軽くなったかな。というかジークとリンはずっと私の側にいてくれたんだね。もちろんクロたちも」
今は部屋にジークとリンはいないけれど、少し前までいてくれたと手に持った布で分かる。
『今はご飯の時間だから。クレイグとサフィールにナイの様子を伝えるために、一緒に食べているよ~』
クロがそう言うと同時にそっくり兄妹が部屋に戻ってくる。私が目覚めていることに気付いた兄弟は足早にベッドの側に寄り、起きて大丈夫かと開口一番に聞いてきた。
「大丈夫。ずっと側にいてくれたんだよね? なんだか照れ臭い。けど、ありがとう」
へらりと笑った私にジークとリンが目を細める。
「ああ」
「大した事してないよ、ナイ」
ふっと笑うジークとリンが私に腕を伸ばしてくる。私はリンを迎え入れるために身体を起こして両手を伸ばす。すると当たり前のようにリンの腕が私の身体に回されて、ぎゅっと抱きしめられた。うん。リンの匂いと彼女の腕の温かさはいつも通りで安堵を覚える。ジークが私を意味深そうに見ているからどうしたのだろうと首を傾げるものの、なんとなく私は片手をジークの方へと伸ばした。
ジークは少し照れながら私とリンに両腕を回す。リンより太い腕と力強さにジークはやっぱり男の人だよなあと改めて思い直す。どうにも幼馴染という意識が強い。けれどリンが腕を回してくれた時の安堵感とはまた別の感慨深いものを感じ取って私は目を細めた。
「ふふ。くすぐったいけれど……暖かいね」
新鮮だけれど……懐かしいような、凄く落ち着くというか。他の誰かでは得られないものだと私は笑えばリンが身じろぎをする。
「ん。兄さんに抱きしめられるのは初めてかも」
「嫌か?」
むっと一瞬顔を顰めるジークだけれど、私もリンもゆっくりと首を横に振った。するとクロが私の肩に乗り、ヴァナルと毛玉ちゃんたちが身体を起こしてベッドの端に顔を乗せる。
『狡いよーボクも~!』
というクロの声に続いて、ヴァナルたちも一緒にという声も上がった。私たち三人はきょとんとしてから、おかしくなって笑い合う。どうやって参加するのだろうと抱き留めていた腕を放して、クロとヴァナルたちを見た。すると私のお腹がぐうと盛大に鳴る。どうしていつも空気を読んでくれないのだろうと私は下を向いて、自分のお腹を右手で擦って恥ずかしさを紛らわせるように声を上げる。
「お腹空いた……」
はい。お腹が空いているのはバレバレのため、正直に声を出した。そっくり兄妹は視線を合わせて笑い、クロは『いつものナイだねえ』と目を細め、ヴァナルは『主だ』と頷き、毛玉ちゃんたちは『おにゃかうるちゃい!』『ぎょはん!』『たべりゅ!』と騒ぎ立てる。雪さんと夜さんと華さんは毛玉ちゃんたちに少し静かにするようにと声を掛けている。ふうと息を吐いたジークとリンが私を見つめた。
「調理部のみんながナイのためにと、力を入れてくれたらしい」
「楽しみにしていてって」
そう告げたジークとリンに私が頷くと、何故かヴァルトルーデさまとジルケさまがご飯を乗せた台車を押してやってきた。女神さまが何故と思うも、お腹が減っていることでどこかに吹っ飛んでいってしまう。私は出されたお粥をスプーンで掬いとり口へと運ぶ。
「う……味、感じない」
私の言葉にヴァルトルーデさまとジルケさまが嘘だろ、と言いたげな顔になった。どうやら人間が風邪を引くと味覚が薄くなると分からないようだ。
「風邪で味覚がなくなっているだけですから。そう心配しないでください」
私の声に二柱さまはマジで? と言いたげな顔になるものの、私は女神さまは風邪を引かないから分からないかと苦笑いを浮かべるのだった。




