1569:なにかおかしい。
ふんふんふーんと鼻を鳴らしながら歩きたいところではあるものの、アストライアー侯爵家の当主として気が緩んでいるところは見せられないと、私は廊下を真面目な顔で歩いて行く。
真面目な顔にきちんとなっているのか分からないけれど、にやけ顔にはなっていないはず。私と一緒にクロとヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちが一緒にきてくれているので、無言は寂しいと私は口を開く。
「今日のお昼ご飯はなんだろうね?」
今日のお昼ご飯はなにが出るのだろう。私の名前が大陸中に広まってからというもの食事関係が随分と充実している。向かった国で特産物を仕入れたり、アルバトロス王国では見慣れない料理を見ればレシピを聞いたり買い付けていた。
いつの間にか時間が経って、本当に恵まれた食事事情となっていた。私が各国を飛び回ったこともあるけれど、調理部の皆さまとエーリヒさまの腕によるものが大きいのだが。だからこそ、日々のご飯になにが提供されるのかと考えるのは、私の楽しみの一つだ。私が声を上げれば、クロは顔を覗き込みながら尻尾をぺしんと一度動かして呆れた様子を醸し出す。
『気が早いよ、ナイ。まだ朝ご飯を食べたばかりでしょ?』
たしかに朝ご飯を終えたばかりだけれど、これから仕事に挑むのだ。貴族の当主のお仕事は午前中で終わらせることが多いのだが、前世でフルタイムで働いていた頃のお昼休憩は憩いの時間であった。
会社の食堂や外に出てランチを食べることもあったし、お弁当を持って行くのを忘れてくいっぱぐれることもあった。会社の同僚と喋ることも楽しいものだった。随分と懐かしい記憶が蘇ったと、私はクロを見ながら目を細めた。
「仕事あとのご飯は美味しいし、仕事中になにが出るかなーって考えるのは楽しいよ?」
『ナイ。ちゃんとお仕事に集中しなくちゃ駄目だよ?』
私の声にクロが尻尾を左右に揺らしながら苦言を呈す。クロは本気で言っている雰囲気はなく、単に今から挑むことにきちんと向き合えと言いたいらしい。
慣れなかったお貴族さま家業だけれど、周りの方たちのお陰でどうにか当主としての面目は保っているはず。今日もいろいろと助けて貰いながら、当主として働こうと気合を入れて執務室へ入る。既にソフィーアさまとセレスティアさまが自席に腰を下ろして、事務仕事を捌いていたようだ。部屋に入るなり挨拶を交わして、私はいつもの定位置で腰を下ろした。すると家宰さまが遅れて執務室に入ってきて、遅れて申し訳ありませんと声を上げる。そうして彼は私の執務机の前に立った。
「ご当主さま、本日のご予定は……――」
家宰さまの淀みない説明を聞きながら、私は頭の中で作業予定を大雑把に立てていく。忙しかった侯爵邸内は落ち着きを取り戻しているため、細かな報告は随分と少なくなっている。家宰さまが告げた今日の予定は昨日より少ない。やはり創星神さま関連のことは大体終わっているようだと私は口を開く。
「創星神さま方への接待は無事に終わり、各所への連絡や挨拶を終え、そろそろ通常業務ですね。小麦や野菜の改良研究所の立ち上げに向けて本格的に動いていきたいところです」
私が苦笑いを浮かべると、家宰さまとソフィーアさまとセレスティアさまも片眉を上げながら笑っている。本当に二十七柱の創星神さまが侯爵領邸に集まるなんて誰が予想できようか。なにごともなく終わっただけでも奇跡だなあと感慨深いものを覚えつつ、私の中で掲げている今後の目標を口にした。
「そうですね。以前から計画しておりましたし、資金についても十分な確保ができております。計画が頓挫してもアストライアー侯爵家の維持運用に支障ないようにと時間を掛けましたからね」
家宰さまが念を押すように言葉にしてくれた。私が直接動けば、自身に備わる魔力や妖精さんたちが小麦や野菜の改良に影響を及ぼすとなり、魔力や奇跡に頼らない品種改良をしようと、資金の調達や研究施設の確保と人員の確保に動いていた。
ようやく目途が立ったし、創星神さま方の接待も無事に終わったから、本格的に動き始めようと執務室にいる方たちで頷き合う。ただ侯爵領内の人員だけでは知識不足だと、アルバトロス王国から専門職の方を講師に招く予定だ。
「災害や天候に左右されない品種が誕生すれば安定的に収穫できるな。領民の希望になる」
「成功すれば、後世に名を残しますわね……といってもナイは既にその名を残すでしょうけれど」
ソフィーアさまとセレスティアさまが良い顔でそんなことを告げた。成功すれば非常時に役に立つはずである。アストライアー侯爵家はアルバトロス王国の小麦の一大生産地なのだ。
バーコーツ公爵家から私へと領地を譲ってくださったのは、陛下から信頼を受けているからこそだろう。それを裏切るような行為はできないのだから、小麦の生産量を落とさないようにしたい。
研究所を立ち上げるのは、こうした危機をなるべく回避できるようにという考えもあった。研究所を作るとアルバトロス王国上層部へ報告すれば資金援助を受けられた。アルバトロス王国上層部も小麦の一大産地で不作となれば大打撃を受ける。資金援助は妥当だけれど、失敗を犯せないなあと私は苦笑いを浮かべる。しかし、成功した暁に後世へ名を残すのは研究所で働く皆さまだ。
「私の名より、開発した方が残れば良いかと。私はお金を出して、やれと命じるだけですから」
そう。私は当主としてお金を工面して、やれと命じただけである。あとは研究所の方たちに任せるし、成果がなければ予算縮小や規模縮小を検討する未来だってあり得る。あり得るけれど、まだ始まってもいないから失敗する可能性はあまり考えないでおこう。
「人員も揃いましたし、あとは研究所の開設ですね。いつ頃になさいましょう?」
「できるならば、早い方が良いのでしょうね。時間はいくらあっても良いはずです」
執務室で今後のことを話し終えれば、通常業務を捌いていこうと私たちは机に向かう。侯爵領邸の庭では警備部の皆さまの訓練が始まったようで、離れたところから声が時折届いていた。
外から聞こえる音と、執務室の中でカリカリとペンを進める音は耳に心地良い。机の上に広がる書類と格闘するのは大変だけれど、慣れてしまえば内容に頭を抱えることはなくなっている。
またペンをひたすら進めて、どんどんと書類を片付けていく。特に領地の運営に問題はない。ただ私との交友を求める手紙が大量に届いているなと溜息を吐きそうになった。国外の皆さまとの関係は広く持っているけれど、アルバトロス王国内の貴族家の方たちとも縁を繋がなければならないだろうか。匙加減が難しいと考えていれば、ふいに机の前に誰か立っていた。
「ナイ、ナイ」
気付けばソフィーアさまが私の名前を連呼していた。
「はい?」
「集中すると周りを気にしなくなるのは、ナイの悪い癖だな……――少し休もう」
一体どうしたと私が書類から目を離して顔を上げれば、ソフィーアさまは小さく溜息を吐いた。
「根を詰め過ぎるのは良くない」
「普段通りですよ?」
根を詰めたつもりはなく、普段通りの仕事量だ。そもそも神さまの集会を行うとなった前後は忙しく、その時期と比べれば凄く楽な量に落ち着いている。家宰さまとセレスティアさまも休みましょう、そうしましょうと言いたげな顔をしてこちらを見ていた。クロとヴァナルたちも休もうよと言いたげではあるものの、邪魔をしてはいけないと考えているのか黙ったままである。微妙に皆さまの態度が気になると私が首を傾げると、またソフィーアさまが溜息を吐く。
「茶を用意してくれと頼んだからな。一旦、筆を置こう」
「茶請けの用意もありますわ。手を止めても問題ありませんわよ、ナイ」
なんだろう、お二人が普段より優しいような。違和感を覚えたからか身体がぞわぞわする。でもまあ、お茶とお菓子が頂けるなら、仕事の手を止めて休むのもありだろう。家宰さまとソフィーアさまとセレスティアさまだって、ここ最近は忙しい日々を送っていた。
それならばと私は筆を置いて、背凭れに体重を預けて背伸びをする。パキパキと鳴る骨の音に、結構長い時間椅子に座っていたようだと気付いた。しばらく待っていると侍女の方がワゴンを押しながら執務室へとやってくる。お皿の上には切り分けられたケーキが鎮座しており、それを見たソフィーアさまとセレスティアさまが声を上げる。
「今日はチーズケーキか」
「美味しそうですわねえ」
ショートケーキやチョコレートケーキが誕生するのはもう少しあとになるのだろうか。前世ではチーズケーキの方が高価と捉えていたけれど、侯爵邸のお茶菓子としてチーズケーキは定番の品である。チーズケーキと一言で表しているけれど、料理長さまたちが凝っているため味付けが変わることもある。今まで食べた品はどれも美味しかったし、今日も期待できると席から立ち上がって応接用の机の方へと移動した。
そうして出されたお茶とチーズケーキを私は平らげる。いつも通り美味しいけれど、味が薄い気がした。料理長さまたちが手を抜くことはないから、私の勘違いだろうと納得して空になったお皿を机の上に戻した。
「どうした、ナイ? 妙な顔をして」
ソフィーアさまもチーズケーキとお茶を平らげているのだが、私の顔を不思議そうに見ていた。
「いえ、なんでもありません。仕事、再開しましょうか」
「そうだな」
私の声にソフィーアさまが頷けば、皆さま持ち場へと戻って行く。お昼まで時間はそう長くはなく、仕事を終えて私は執務室を出るのだった。
◇
屋敷の主人であるナイが出て行った扉を見つめて、執務室に残っている私とセレスティアと家宰殿が顔を見合わせる。
「茶を飲んだ際、物足りなさそうな顔になっていなかったな」
「ええ。満足そうにしていたものの、いまひとつ普段のナイではなかったような?」
私が上げた声にセレスティアが肯定した。普段であれば、出された菓子がなくなりそうになると小口に切り分けて味わいながらナイは食べている。貴族としては少々悪い癖であるが、外ではやらないため私たちも口煩く咎める気はない。
ただいつもの癖が出ないのはおかしいと私とセレスティアは違和感を覚えていた。とはいえ執務中の家宰殿の言葉がなければ、気付かなかった可能性もある。
家宰殿はナイが執務に集中している際、ナイの様子が普段と少し違うという報告が入ったと私たちに教えてくれた。一瞬、本当にと疑ってしまったものの、ナイを注視していればいつもより誤字を多く書いてしまい修正を施していた。集中しているというのに、どこか上の空というか身が入っていないというか。ナイの姿を見た私たちは『様子が変だ』と理解して、普段の茶の時間よりも少し早めに取ったわけである。私たちの気の所為で終われば良いのだがと願うものの、こればかりは神のみぞ知るというところだろう。
また私が小さく息を吐けば、セレスティアが肩を竦め、家宰殿が真面目な顔になっている。
「しばらく、ご当主さまの体調に気を払いましょう」
そう告げた家宰殿に頷いて、なにも起こらないようにと私は願うばかりだった。




