第5話 安全な休息地と、優しい罠
森を抜けると、急に足元が平らになった。
水晶の地面は終わり、柔らかな芝生が広がっている。空は淡い夕暮れ色で、星屑の光はここでは降ってこない。代わりに、温かな風が頬を撫でた。
「……ここ……」
アオイが、思わず息をつく。
「……なんか……普通……」
その言葉通りだった。
異様な光も、歪みもない。
遠くには小さな泉と、木造の小屋が見える。
――安全。
そう感じさせる“完成された安心”が、空間を満たしていた。
「……罠、だよね」
ユイは呟く。
だが、声に確信はなかった。
小屋の扉は開いていた。中には簡素なベッドが三つ、毛布、テーブル、そして湯気の立つカップが置かれている。
「……あったかい……」
アオイがカップを持ち上げる。
レナは、周囲を警戒するように見回しながら、静かに椅子に腰を下ろした。
「……音が、少し……戻った気がする」
ユイの胸が、きゅっと縮む。
「……本当?」
レナは小さく頷く。
「遠く……鈴みたいな……」
それは、回復ではない。
――“忘れさせるための補正”。
ユイは直感する。
この場所は、失ったものの痛みを和らげる。
代わりに、“失った事実”そのものを曖昧にする。
「……ねえ、少しだけ……休もうよ」
アオイが、毛布に身を包みながら言う。
「ずっと緊張してるの、もう無理……」
その言葉に、ユイは反論できなかった。
アオイは、恐怖を失っている。
でも、疲労は残っている。
レナも、静かに目を閉じた。
小屋の中に、穏やかな沈黙が流れる。
――その沈黙が、危険だった。
ユイは眠れなかった。
目を閉じるたび、思考が“柔らかく”なる。
考えなくていい。
進まなくていい。
ここにいれば、安全だ。
「……ダメ……」
ユイは、自分の太ももを抓る。
痛みで、思考を保つ。
その瞬間。
「……ユイ」
低く、近い声。
振り向くと、小屋の影の中に“人”が立っていた。
庭師。
穏やかな微笑み。
土と星の匂い。
「よく気づいたね」
「……あなたが……」
「休息は、悪じゃない」
庭師は、小屋を見渡す。
「君たちは、もう十分に代償を払った」
ユイの胸が、揺れる。
「……でも、ここにいれば……」
「失ったものの痛みも、薄れる」
庭師は、優しく続ける。
「恐怖のない世界。
音に縛られない世界。
考えなくてもいい世界」
レナが、目を開けた。
「……それは……」
庭師が、レナを見る。
「君には、特に似合う」
レナの表情が、揺らぐ。
――危ない。
「……レナ……」
ユイが声をかける。
「ここに残る選択も、ある」
庭師は言う。
「無理に帰る必要はない」
アオイが、眠そうな声で呟く。
「……悪く、ないかも……」
その瞬間、ユイははっきり“見た”。
小屋の外。
芝生の下に、無数の“扉”が埋まっている。
開かれることのなかった出口。
ここで立ち止まった者たちの痕跡。
「……ここは……」
ユイは、震える声で言う。
「脱出できなかった人たちの……墓場……」
庭師は、否定しなかった。
ただ、穏やかに微笑む。
「安らぎ、という言い方もできる」
ユイは、二人の手を掴んだ。
「……行こう」
「ユイ……?」
「失ったものは……取り戻せないかもしれない」
でも、と。
「ここにいたら……“帰りたい理由”まで……消える」
沈黙。
風が吹く。
遠くで、鈴が鳴る。
アオイが、ゆっくりと毛布を外した。
「……怖くないのに……」
それでも、立ち上がる。
「……進みたいって……思った」
レナは、しばらく目を閉じてから、頷いた。
「……音がなくても……帰りたい」
庭師は、残念そうに息をつく。
「……そうか」
小屋が、ゆっくりと崩れ始める。
優しい世界が、剥がれていく。
外に、新たな道が現れた。
「次は……戻れないよ」
庭師の声が、遠ざかる。
ユイは、振り返らなかった。
安全な休息地は、
“進まない者”にだけ、優しい。
三人は、まだ不完全なまま、次の層へと歩き出した。




