第4話 最初の代償は、音もなく
星の扉の向こうは、森だった。
だが、土も木も、ユイの知っているものとは違う。地面は薄い水晶のように透け、踏みしめるたびに遠くで鈴が鳴る。木々は枝先に小さな光を灯し、風が吹くたびに星屑を零した。
「……森、だよね……?」
アオイが半信半疑で呟く。
「形だけは」
ユイは答えながら、周囲を観測する。
この層は、先ほどまでより“完成度”が高い。
世界が、彼女たちを深く取り込み始めている。
歩き出してすぐ、異変は起きた。
レナが、立ち止まった。
「……待って」
「どうしたの?」
ユイが振り返ると、レナは自分の耳に指を当てていた。
眉をひそめ、何かを確かめるような仕草。
「……聞こえない」
「え?」
「鈴の音……木が揺れる音……」
その瞬間、ユイは背筋が凍った。
――音は、確かにしている。
アオイも同時に顔を上げる。
「聞こえるよ? ほら……」
アオイが足を踏み鳴らす。
澄んだ音が、森に響く。
レナは、首を振った。
「……何も……」
風が吹く。
木々が揺れる。
星屑が落ちる。
だが、レナの世界は、無音だった。
「……代償……」
ユイの喉から、かすれた声が漏れる。
レナは、ゆっくりと微笑んだ。
「……だから、泣いても意味ないって言ったでしょ」
その笑みが、あまりにも静かで、ユイは胸を締めつけられる。
「いつ……いつ、魔法を使ったの……?」
アオイが、震える声で聞く。
レナは少し考え、答えた。
「……使った、っていうほどじゃない」
「でも……」
「ただ、ここにいる間……“思い出さない”って、選んだ」
ユイは理解した。
この世界の魔法は、呪文や動作じゃない。
選択そのものだ。
感情から目を逸らす。
痛みを拒む。
帰りたい理由を考えない。
それが、力になる代わりに――何かを奪う。
「……音、なくても……平気」
レナはそう言いながら、一歩踏み出す。
だが足取りが、わずかに不安定だった。
ユイは、とっさにレナの腕を掴む。
「……危ない」
レナは、きょとんとした顔をする。
「……何が?」
ユイは言葉に詰まった。
音がないということは、
近づく危険にも、気づけないということだ。
その時。
森の奥で、何かが動いた。
影が、木々の間を滑る。
廊下で見たものより、はっきりとした形。
四足。
長い爪。
感情の残骸が、獣の姿を取ったような存在。
「……来る」
ユイが呟く。
アオイが歯を食いしばる。
「……また、あれ……?」
影の獣が、地面を蹴った。
その瞬間、アオイの感情が弾ける。
「来るなら来なさいよ!」
叫びと同時に、アオイの周囲に光が集まる。
強烈な閃光が走り、獣の進路を焼き切った。
――光の魔法。
だが、アオイの表情が一瞬、凍りついた。
「……あれ……?」
「アオイ……?」
アオイは、自分の胸に手を当てる。
「……怖く、ない……」
震えがない。
心臓が、落ち着きすぎている。
「……さっきまで……あんなに……」
ユイは理解してしまった。
アオイの代償は――恐怖。
「……これが……」
誰も、続きを言えなかった。
獣は光に焼かれ、霧のように消える。
森は、何事もなかったかのように静まり返った。
レナは、無音の世界で、その光景を見つめている。
「……ねえ」
レナが言う。
「私たち……帰れるのかな」
その問いに、ユイはすぐ答えられなかった。
音を失った少女。
恐怖を失った少女。
そして――観測するたび、何かを削られていく自分。
森の奥で、また鈴が鳴る。
それは、次の選択を促す合図のようだった。
最初の代償は、あまりにも静かで、
だからこそ、取り返しがつかないと分かってしまった。




