06_第六話_ヴァルカへ
◆ 第六話 ── ヴァルカへ ◆
夜明け前に家を出た。
父の部屋の前で少し立ち止まった。中から寝息が聞こえた。
(……今夜は咳が出ていない)
ここ最近、夜中に咳き込む音が聞こえることがあった。いつか薬師になれたら、何かできるかもしれないと思い続けていた。でも今の私には何もできない。
(ごめんなさい。でも、必ず)
いつか、ちゃんとしたものを送る。顔は出せなくていい、それだけはする。
声には出さなかった。出せなかった。
小走りで村の外れに向かった。待ち合わせの場所には、オットさんの荷馬車がいた。
「……来たか」
御者台のオットさんが言った。特に驚いた様子はなかった。
「お世話になります」
「荷台に入れ。声を出すなよ、門を出るまでは」
荷物の陰に潜り込んだ。木箱と麻袋の間。暗くて狭かった。
馬車が動き出した。
リシェル村が遠ざかっていく音がした。
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門を過ぎると、オットさんが「もう出ていい」と言った。
荷台の端に腰掛けて、空を見た。夜明けの空。薄紫から橙に変わりかけていた。
「オットさん、目的地はどこですか」
「三か所回る。最後はヴァルカだ」
ヴァルカ。名前は聞いたことがある。街道沿いの交易都市。リシェル村からずっと遠い。
「一番遠い場所まで乗せていただけますか」
オットさんは答えなかった。でも馬の手綱を調整する音がした。
(ほんまにええ人や)
────
夜、星空の下で荷台に揺られながら、しばらく何も考えられなかった。
父の寝息が頭の中でまだ鳴っている気がした。
(生きてる。ちゃんと寝てる)
当たり前のことだ。でもそう思わないと落ち着かなかった。父は生きている。レイも生きている。ナナミンも生きている。ただ同じ場所にいないだけだ。
(いつか、ちゃんと恩返しする)
そう決めたら、少しだけ楽になった。
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整理しよう、ナナミン的に。
──まず追手の可能性。
父は体が悪い。グレイは面子を傷つけられた側だが、村から出たことがあるかどうか。村の人間が都市まで追いかけてくるとは考えにくい。
仮に手配書が出たとしても、文字で書かれたものは識字者にしか読めない。絵も正確とは限らない。
リシェル村からヴァルカまでは馬で五日以上。そこまで行けば、田舎の縁談の話など届かない。
──次に名前。
「ナナ」は捨てる必要があるか。
「ナナミン」は村の子供たちが広めたあだ名だ。正式な記録にも登録にもない。むしろこっちを使った方がいい。
前世だって、転職の時は職歴を持ち越した。信用はゼロから作るより持ち込める方が速い。
──問題は、今の手札。
銅貨十四枚と小銀貨二枚。着替え一枚。薬草の知識。農作業の経験。縫い物。文字の読み書き。
なぜか言葉がよくわかる。
「……悪くない手札かもしれんな」
思わず声に出た。オットさんが御者台で少し動いた。起こしてしまったかもしれない。
口を閉じた。
星空を見た。
知らない星の並びだったけど、綺麗だった。
「ナナミン、また死んだことになった」
今度は小声で言った。
「でも今回は生きてる」
そう言ったら、少し笑えた。
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【行商人は投資する】
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オットは手綱を握りながら、荷台の気配を感じていた。
あの娘、眠っていない。でも喋りかけてこない。何かずっと考えている。
二十年行商をやっていると、逃げてきた人間の顔がわかる。
でもあの娘は少し違う。縋るような目をしていない。泣いてもいない。
怖がっているはずなのに、どこかで──計算している。
十五かそこらで、あの目は。
(ただの夜逃げじゃないな、だからこそ、投資の価値がある。)
オットは前だけを見た。
黙って馬を進めた。
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