02_第二話_白い子犬
◆ 第二話 ── 白い子犬 ◆
少し時間を戻す。
ハクに会ったのは、私が六歳の秋だった。
母の使いで森の入口まで薬草を摘みに行った帰り道。茂みの中から、小さな唸り声が聞こえた。
(……何かいる)
普通の子供なら逃げるところだと思う。でもなんとなく、「怖がっている」ってわかってしまった。唸り声の中に、怯えが混じっていたから。
茂みをそっと覗いた。
白い塊が倒れていた。子犬くらいの大きさ。白い毛並みが血で汚れていて、後ろ足に深い傷があった。
「わあ、犬だ」
思わず声に出た。
白い塊がこちらを見た。金色の目だった。
弱々しい唸り声が聞こえた。
(痛い。動けない)
──あ、意味がわかった。
当時の私は特に不思議に思わなかった。動物の声の意味もわかるんだ、くらいの感想だった。
「大丈夫? お母さんに怒られるかもしれないけど、連れて帰って治してあげる」
唸り声。
(……なんで言葉がわかる)
「え、しゃべれるの? すごい」
(しゃべっているわけではない……)
「名前は?」
低い音。
(名前はない)
「じゃあ、なんか名前つけていい?」
沈黙。
「……シロはどう? 白いし」
長い沈黙。今度はなんか考えているような間だった。
(……そのまますぎる)
「でしょ。じゃあハクはどう? シロをひねった感じで」
また沈黙。
(……ハク)
「気に入った?」
(……悪くはない)
「決まり。ハク、連れて帰るよ。暴れないでね」
ハクは暴れなかった。私に担がれたまま、ただじっと金色の目で私を見ていた。
────
母は最初、目を丸くした。
「……ナナ、それ犬じゃないよ」
「え、犬じゃないの?」
「魔物だよ。でも……小さいし、怪我してるし……」
母はため息をついた。後で父に叱られるとわかっていたはずなのに、それでも手当てを手伝ってくれた。
ハクは大人しかった。母が傷を縫っている間も、低く唸るだけで噛まなかった。
(痛いがこらえる)
「えらいね、ハク」
(うるさい)
縫い終えた後、母が眉をひそめた。
「膿まないか心配ね。何か塗れるものがあれば……」
なんとなく、ポケットを探った。今日は薬草を摘みすぎて入りきらなかった実を、帰り
がけになんとなく突っ込んでいたのだ。
「これ、使える?」
母が目を細めた。
「……ホウキ草の実じゃないの。どこで?」
「森で薬草を摘んでたら、そばに落ちてたから。なんとなく持ってきた」
母はため息をついた。今度は困ったような、でも少し安堵したようなため息だった。
「ちょうどよかった。傷口に使えるよ、これ」
ハクが低く唸った。
(……それは助かる)
「どういたしまして」
(礼を言ったわけではない)
────
ハクは二週間うちにいた。
父には「野良犬を拾った」と言っておいた。嘘ではない。
その間、ハクと私はよく喋った。喋ったというか、私が一方的に話しかけて、ハクが唸りで答える感じだったけど。
学校のこと。村の人のこと。前世の夢のこと。
(前世?)
「夢の話。硬い床で眠る夢」
(……変な夢だ)
「でしょ。ナナミン的には悪くない夢なんだけどね」
(ナナミン?)
「私のこと。好きな名前なんだ」
ハクはそれ以上聞かなかった。
────
傷が癒えた翌朝、ハクはいなくなっていた。
小屋の戸口に白い毛が一束だけ残っていた。
(もらっていく)
そんな意味だったんだと、後から気づいた。
「また会えたらいいな」
一人でそう呟いて、私は畑に戻った。
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【ハクを救ったもの】
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後の時代、大賢者の書・第三巻にはこう記されている。
「フェンリルは人里に近づかない。
人間との接触を嫌い、目撃例はほぼ存在しない。
もし人間と言葉を交わすフェンリルがいるとすれば、
それは人類史上の奇跡と呼ぶべき事象である──」
同書の別の章には、こうも書かれていた。
「フェンリルの幼体は魔力制御が未熟なため、深手を負った場合に傷が膿みやすい。
放置すれば成体でも死に至ることがある。
ホウキ草の実が有効とされているが、
野生のフェンリルに近づける人間が存在しない以上、実用例はほぼ皆無である──」
六歳の少女のポケットには、ホウキ草の実が三粒あった。
摘んでいた薬草のそばに落ちていたから、なんとなく入れておいたものだった。
六歳の少女が拾って手当てしてやり、「ハク」と名付けた「白い子犬」がフェンリルの幼体だったと知る者は、当時リシェル村には誰もいなかった。
ハク自身はその後、九年間ずっとあの森の端から村を見ていた。
特に意味はなかった。
ただ、縄張りの確認をしていただけだ。
──そういうことにしていた。
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