第9話 私を先に降ろして
午後二時十三分。
「第五階層から救難信号です」
管制員の声に、黒瀬慎吾は休憩室から顔を上げた。
管制室の大型画面には、第五階層北側の地図が表示されている。
救難信号が点滅しているのは、湿地帯を通る木道の先だった。
「要救助者は?」
「二十四歳の女性が一名。木道から転落し、右足を負傷しています。
同行者が背負って、管理用通路まで移動したそうです」
「同行者の状態は?」
「本人は問題ないと話しています」
管制員が、通報時の音声を再生する。
『同行者が右足を負傷しました。自力では歩けません』
若い女性の声だった。
落ち着いて話そうとしているが、言葉の間に浅い呼吸が混じっている。
『私は……少し脇腹をぶつけただけです。怪我人は一人です』
黒瀬は画面を見たまま尋ねた。
「今も会話できてる?」
「先ほどから、呼びかけへの返事が遅くなっています」
「呼吸が苦しいとは?」
「否定しています」
黒瀬は救助鞄を手に取った。
「田所」
「ああ」
同じ室内にいた田所修平が、すでに担架を準備している。
「白石さんも来て」
「はい」
白石ひなたが立ち上がった。
「要救助者は一人では?」
「そう言ってるのは、通報した人だからね」
黒瀬は通報音声をもう一度聞く。
「背負って歩いたあとに、この呼吸は少し気になる」
田所が装備を背負いながら言った。
「二人分、持っていくか」
「うん」
「分かりました」
白石は予備の固定具と保温シートを救助鞄へ加えた。
三人は第五階層へ向かった。
◇
第五階層の湿地帯には、細い木道が張り巡らされている。
周囲には腰の高さまで伸びた水草が広がり、その間を濁った水がゆっくり流れていた。
黒瀬たちは木道を走る。
途中、一部の板が崩れ落ちていた。
木道の下には、一メートルほどの段差がある。
折れた支柱が斜めに突き出し、泥の中へ刺さっていた。
「ここで落ちたのか」
田所が足を止める。
黒瀬は泥に残った跡を確認した。
一人分の足跡と、引きずられた靴の跡。
そこから先は、二人分の体重を支えた深い足跡が続いている。
「背負って、ここから運んだんですね」
白石が言った。
「管理用通路まで百メートル近くあるぞ」
田所が前を見る。
「相当無理してるな」
三人は再び走り出した。
管理用通路へ入ると、岩壁の先に二人の女性が見えた。
一人は、もう一人を背負ったまま立っている。
立っているというより、壁に身体を押しつけ、どうにか倒れずにいる状態だった。
「救助管理所です!」
白石が声をかけた。
背負われている女性が顔を上げる。
「お願いします」
声が震えていた。
「私を先に降ろしてください」
黒瀬たちが駆け寄る。
背負っている女性の膝が、細かく震えている。
顔は青白く、額には汗が浮かんでいた。
「川瀬千夏さん?」
黒瀬が尋ねた。
「はい」
「そのまま動かないで」
「美緒を……先に運んでください」
千夏が背負っているのは、小野寺美緒だった。
美緒の右足は腫れ、靴を地面につけられない状態になっている。
だが、黒瀬が見たのは美緒の足ではなかった。
千夏は左腕を脇腹へ押しつけ、身体を前へ丸めている。
呼吸も浅い。
「白石さん、美緒さんを支えて」
「はい」
「田所、川瀬さんを後ろから頼む」
「分かった」
白石が美緒の身体へ腕を回す。
田所が千夏の背後に立ち、両脇を支えた。
「ゆっくり離すよ」
黒瀬が言った。
「川瀬さん、力を抜いて」
「私は大丈夫です」
「今は、背負うのをやめよう」
「でも、美緒が――」
「白石さんが支えてる」
白石が《身体強化》を使い、美緒の体重を引き受ける。
「小野寺さん、こちらへ腕を回してください」
「はい」
美緒が白石の肩へ腕を回す。
千夏の背中から、美緒の身体がゆっくり離れた。
その瞬間だった。
千夏の膝が崩れた。
「千夏!」
田所が身体を受け止める。
黒瀬はすぐに千夏の前へしゃがんだ。
「川瀬さん、聞こえる?」
「はい……」
返事はしたが、目の焦点が合っていない。
黒瀬が手首へ指を当てる。
脈が速く、弱い。
「どこをぶつけたの?」
「左の……脇腹です」
「見せてもらうね」
黒瀬が装備の上から脇腹へ触れる。
千夏が息を止めた。
「痛い?」
「少しだけです」
「左肩は?」
千夏は一瞬、戸惑った顔をした。
「肩も……痛いです」
肩そのものに目立った傷はない。
黒瀬は管制端末を取り出した。
「管制。要救助者を二名に変更。川瀬千夏さん、腹部外傷。内出血の可能性あり。
医療班を第五階層の退避所まで呼んでくれるかな」
『了解しました』
千夏が黒瀬を見る。
「内出血……?」
「可能性があるだけだよ」
「美緒の足を先に」
「小野寺さんの意識ははっきりしてる。出血もない」
黒瀬は千夏の目を見る。
「今は川瀬さんの方を、揺らさずに運ぶ必要がある」
「でも……」
「千夏」
白石に支えられた美緒が言った。
「もういいから」
「何が?」
「私を背負わなくていい」
「歩けないでしょう」
「千夏だって立てないじゃん」
「私は少し休めば――」
「休んでも顔の色、戻ってないよ」
美緒の声が強くなる。
「途中からずっと震えてた。降ろしてって何回も言ったのに」
「一度降ろしたら、もう背負えないと思ったから」
「だからって倒れるまで運ばないでよ!」
千夏は黙った。
黒瀬が美緒へ振り返る。
「小野寺さん。右足は地面につけられる?」
「無理です。でも、私はあとでいいです」
「あとにはしないよ」
黒瀬は背負っていた救助鞄を下ろした。
「俺が背負う」
美緒が黒瀬を見る。
「でも、千夏は?」
「川瀬さんは担架で運ぶ」
田所が担架を広げる。
「白石、こっちを手伝ってくれ」
「はい」
「黒瀬、一人でいけるか?」
「美緒さんなら大丈夫」
「途中で代わるなら言えよ」
「うん」
黒瀬は美緒の前へ背中を向けた。
「乗れる?」
「はい」
白石が美緒の身体を支え、黒瀬の背中へ移す。
美緒が黒瀬の肩へ腕を回した。
負傷した右足が揺れないよう、黒瀬が膝の下から支える。
「痛かったらすぐ言ってね」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから呼ばれたんでしょう」
美緒は少しだけ黙り、
「はい」
と答えた。
田所と白石は、千夏を担架へ移す。
身体を横にせず、腹部へ余計な力がかからないよう慎重に下ろした。
「川瀬さん、今から運ぶよ」
田所が言う。
「美緒は……」
「黒瀬が背負ってる」
千夏が顔を動かす。
黒瀬の背中にいる美緒を確認すると、わずかに息を吐いた。
「それなら……」
「もう話さなくていい」
田所と白石が担架を持ち上げる。
黒瀬が先頭に立った。
「戻ろう」
◇
帰路は、来たときより遅い。
黒瀬は足元を確かめながら、一定の速度で進む。
背中では、美緒が何度も後ろを振り返っていた。
少し離れたところを、田所と白石が担架を運んでいる。
千夏は目を閉じたり、開いたりしていた。
「千夏」
美緒が呼ぶ。
返事がない。
「千夏、聞こえてる?」
「……聞こえてる」
遅れて返事が来る。
美緒は黒瀬の肩を強くつかんだ。
「黒瀬さん」
「うん」
「千夏、助かりますか?」
「今は地上へ運んでるところだよ」
「もっと急げませんか?」
「急いで揺らす方が危ない」
黒瀬は振り返らずに答える。
「でも、さっきより返事が遅くなってます」
「気づいたらすぐ教えて」
「はい」
美緒は再び千夏へ声をかけた。
「眠らないでよ」
「眠ってない」
「目、閉じてるじゃん」
「疲れただけ」
「だから、それが駄目なんだって」
千夏の口元がわずかに動いた。
「美緒に言われたくない」
「何で?」
「資格試験の日……集合時間に寝坊したでしょ」
「今、その話する?」
「起きたら……三十件、着信があった」
「千夏がかけすぎなんだよ」
返事はなかった。
美緒の表情が変わる。
「千夏?」
田所が担架を止める。
「黒瀬」
黒瀬も足を止め、美緒を背負ったまま振り返った。
千夏の目は閉じている。
白石が呼びかける。
「川瀬さん。聞こえますか?」
反応がない。
田所と白石が担架をゆっくり下ろす。
黒瀬は美緒を近くの岩壁へ寄せた。
「少ししゃがむよ」
美緒を背負ったまま膝をつき、千夏の呼吸を確認する。
呼吸はある。
脈も触れる。
「川瀬さん」
黒瀬が強めに呼びかける。
千夏の瞼が、かすかに動いた。
「聞こえてる?」
「……はい」
「もう少しで医療班と会えるよ」
美緒が黒瀬の背中から身を乗り出す。
「千夏。勝手に寝ないで」
「寝てない……」
「じゃあ、返事して」
千夏は答えなかった。
美緒の声が震える。
「ねえ、千夏」
黒瀬は管制へ状態を伝える。
『医療班は退避所へ到着しています』
「あと七分だ」
田所が担架の取っ手を握る。
「行けるな、白石」
「はい」
二人が担架を持ち上げた。
黒瀬も立ち上がる。
「小野寺さん」
「はい」
「川瀬さんに話しかけ続けて」
「分かりました」
美緒は千夏から目を離さなかった。
「千夏、覚えてる?」
返事はない。
「私たちが初めて第三階層に入った日」
千夏の指がわずかに動いた。
「私、角兎に近づきすぎて怒られたよね」
「……追いかけたから」
小さな返事があった。
「追いかけてない。写真を撮ろうとしただけ」
「柵を……越えた」
「少しだけ」
「駄目でしょ……」
「そういうのは地上で怒ってよ」
美緒は目を潤ませながら笑った。
「次は私が道を調べるから」
「迷う……」
「迷わないよ」
「地図……逆さまに見るから」
「もう見ないって」
黒瀬は前を向いたまま聞いていた。
千夏の返事は弱い。
それでも、まだ声は返ってきていた。
◇
第五階層の退避所に入ると、待機していた医療班が駆け寄ってきた。
「腹部外傷の方はこちらへ!」
田所と白石が担架を下ろす。
医療班がすぐに千夏の状態を確認し、処置を始めた。
黒瀬もその場にしゃがみ、美緒を背中から下ろす。
白石が車椅子を持ってきた。
「右足をこちらへ」
美緒は車椅子に座らされながらも、千夏を見ていた。
「私も一緒に行きます」
「小野寺さんも足を診てもらうよ」
「でも、千夏が」
「同じ医療班が運ぶから大丈夫」
「私が落ちなかったら、千夏は怪我しなかったんです」
黒瀬は美緒を見る。
「その話は地上でしよう」
「でも……」
「今、小野寺さんができることは、足を悪化させないことだよ」
美緒は唇を噛んだ。
「私は、何もできませんでした」
「最初に川瀬さんの異変に気づいたでしょう」
「降ろしてって言っただけです」
「それが必要だったんだよ」
黒瀬は医療班に囲まれた千夏を見る。
「あのまま背負わせていたら、俺たちが着く前に倒れてたかもしれない」
美緒が顔を上げる。
「小野寺さんが降ろしてって言ったから、川瀬さんをすぐに診られた」
医療班が千夏の担架を運び始める。
美緒の車椅子も、別の隊員が押す。
「千夏!」
美緒が呼ぶ。
千夏の目は閉じている。
それでも、担架の上で右手の指がわずかに動いた。
美緒はその動きを見て、小さく息を吐いた。
◇
地上へ戻ってから、一時間が過ぎた。
救護室の前で、黒瀬たちは使用した装備を整理していた。
田所が担架の留め具を確認する。
「腹の中で出血してたらしい」
「うん」
「今、処置に入ってる」
黒瀬は端末に届いた報告を見ていた。
白石が隣で尋ねる。
「間に合ったんでしょうか」
「処置は始まってる。あとは医療班に任せるしかないね」
救護室の扉が開いた。
右足を固定された美緒が、車椅子で出てくる。
「黒瀬さん」
「足は?」
「骨折はしてないみたいです。ひどい捻挫だって」
「そう」
「千夏は?」
黒瀬はすぐには答えなかった。
美緒の表情が強張る。
そのとき、奥から医療担当者が歩いてきた。
「小野寺さんですね」
「はい」
「川瀬さんの処置は終わりました。腹部に出血がありましたが、命に別状はありません」
美緒は目を見開いた。
「助かったんですか」
「はい。ただし、しばらく入院が必要です」
美緒は大きく息を吐いた。
両手で顔を覆う。
「よかった……」
しばらくして、顔を上げる。
「私、千夏に何て言えばいいんだろう」
黒瀬が答える。
「地上で話せるなら、何でもいいんじゃないかな」
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