第8話 まだ、お父さんじゃない
午前十一時十四分。
奥多摩第一ダンジョン、第三階層。
青空はない。
それでも、天井一面に広がる発光苔が柔らかな光を落とし、草原区画を昼間のように照らしていた。
整備された観光路の向こうでは、二匹の角兎が草を食べている。
「この先に、角兎の観察区域があるらしいぞ」
案内板を見ながら、宮原浩司が言った。
「知ってる」
十歳の宮原悠斗は、前を向いたまま答えた。
「学校で習ったのか?」
「入口に書いてあった」
「ああ、そうか」
会話はそこで終わった。
悠斗は数歩前を歩き、浩司はその後ろをついていく。
二人きりで出かけるのは、今日が初めてだった。
朝、家を出るとき、悠斗の母親である美紀は笑顔で二人を送り出した。
『今日は男同士で楽しんできてね』
悠斗は何も答えなかった。
浩司は明るく、
『任せて』
と答えた。
だが、第三階層に入って一時間が過ぎても、二人の間に会話らしい会話はほとんどなかった。
「角兎、写真撮るか?」
「いらない」
「お母さんに送ってやったら喜ぶぞ」
「浩司さんが撮れば」
「悠斗も一緒に――」
「いいって」
悠斗は歩く速度を上げた。
浩司は取り出しかけたスマホを鞄へ戻す。
「分かった」
観察区域に着くと、親子連れが柵の前に集まっていた。
子どもたちが角兎を指さし、笑い声を上げている。
浩司は少し離れたところに立つ悠斗を見る。
「一枚くらい撮らないか」
「撮らない」
「せっかく二人で来たんだから」
「お母さんに見せたいんでしょ」
「三人の思い出になるだろ」
悠斗が振り返った。
「三人じゃないじゃん」
「え?」
悠斗は何も答えず、再び前を向いた。
浩司はその背中を見つめた。
声をかけようとしたが、何を言えばいいか分からなかった。
◇
帰路についたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
「昼、何が食べたい?」
浩司が尋ねる。
「何でもいい」
「入口にカレーの店があったな」
「辛いの嫌い」
「じゃあ、ハンバーグは?」
「お母さんに聞けば?」
「今日は二人なんだから、悠斗が決めていいんだぞ」
「別に二人で来たかったわけじゃない」
浩司は口を閉じた。
悠斗は前を歩いていく。
観光路は緩やかな下り坂になっていた。
足元には石が埋め込まれ、滑りにくいよう整備されている。
それでも草の陰には、小さな窪みが残っていた。
悠斗の右足が、その窪みに入った。
「うわっ」
足首が外側へ曲がり、そのまま地面へ倒れる。
「悠斗!」
浩司が駆け寄った。
「大丈夫か?」
「触らないで」
悠斗は起き上がろうとした。
右足を地面につけた瞬間、顔を歪める。
「痛っ……」
「無理するな」
浩司は悠斗の肩を支えようとする。
悠斗はその手を振り払った。
「触るなって言っただろ」
「歩けないだろ」
「歩ける」
悠斗はもう一度立とうとした。
しかし、足に力が入らない。
浩司は悠斗の前にしゃがみ、背中を向けた。
「背負う。乗れ」
「嫌だ」
「このままじゃ帰れない」
「救助を呼んで」
「第三階層だぞ。俺が運んだ方が早い」
「嫌だって言ってるだろ」
浩司が振り返る。
「どうして俺じゃ駄目なんだ」
悠斗は唇を噛んだ。
しばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。
「お父さんじゃないから」
浩司の動きが止まった。
観光路の少し先を、別の家族が歩いていく。
父親らしい男性が、小さな子どもを肩車していた。
浩司はゆっくり立ち上がった。
「……分かった」
無理に悠斗を背負おうとはしなかった。
救難端末を取り出し、管理所へ連絡した。
◇
「第三階層、草原区画。十歳の男の子が右足首を負傷」
管制員からの説明を聞き、黒瀬慎吾は救助鞄を手に取った。
「意識は?」
「はっきりしています。出血もありません。ただ、自力では歩けないようです」
「同行者は?」
「同行者の父と二人で入ってます。ただ、少年が同行者による搬送を拒否しています」
隣で装備を確認していた白石ひなたが顔を上げる。
「怪我は軽いんですよね」
「今のところはね」
黒瀬が答える。
「同行者に背負ってもらった方が早い気もしますけど」
「嫌がってる子を無理に運ぶのはよくないよ」
「でも、救助を呼ぶほどでは……」
「歩けないなら、迎えに行く理由としては十分じゃないかな」
黒瀬は鞄を背負った。
「白石さん、行こう」
「はい」
◇
悠斗は観光路脇の芝生に座っていた。
浩司は二メートルほど離れたところに立っている。
二人とも、互いの方を見ていなかった。
「宮原悠斗君?」
黒瀬が声をかける。
悠斗が顔を上げた。
「はい」
「救助管理所の黒瀬です。こっちは白石さん」
「こんにちは」
白石がしゃがみ、悠斗と目線を合わせる。
「足を見せてもらってもいいですか?」
悠斗がうなずいた。
靴を脱がせると、右足首が腫れ始めていた。
黒瀬が足首へ触れる。
「ここは痛い?」
「少し」
「こっちは?」
「痛い」
「足の指は動かせる?」
悠斗が指を動かす。
「大きな骨折はなさそうだけど、歩かない方がいいね」
白石が固定具を取り出し、悠斗の足首へ巻く。
その様子を見ていた浩司が尋ねた。
「固定したら、俺が背負って帰れますか」
悠斗の肩がわずかに強張った。
黒瀬はその反応を見る。
「俺が背負います」
「でも、家族の俺が……」
「宮原さんには、荷物をお願いしてもいい?」
黒瀬は悠斗の鞄を持ち上げた。
さらに、自分の救助鞄から水筒と予備の固定具を取り出す。
「これも持ってもらえると助かります」
「それくらいなら」
「お願いします」
浩司は悠斗の鞄と救助装備を受け取った。
黒瀬が悠斗の前へ背中を向ける。
「乗れる?」
悠斗は一度、浩司を見た。
浩司は何も言わなかった。
悠斗は黒瀬の背中へ腕を回した。
「痛かったらすぐ言ってね」
「うん」
黒瀬が立ち上がる。
白石が悠斗の足を確認しながら、その隣を歩き始めた。
浩司は二人分の荷物を持ち、少し後ろをついていく。
◇
しばらく、誰も話さなかった。
聞こえるのは、三人の足音と、遠くで草を食べる角兎の鳴き声だけだった。
「重くない?」
悠斗が尋ねた。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん。白石さんよりは軽いと思う」
「黒瀬さん!」
白石が抗議するように声を上げる。
「冗談だよ」
悠斗が小さく笑った。
黒瀬が尋ねる。
「宮原さん、荷物重くない?」
「大丈夫です」
後ろから浩司が答える。
悠斗が少しだけ振り返った。
「浩司さんより、黒瀬さんの方が力ある?」
「どうだろう」
黒瀬も後ろを見る。
「宮原さんも、結構持ってるからね」
浩司の両手には、悠斗の鞄と黒瀬の救助装備がある。
「これくらいなら大丈夫です」
浩司が答えた。
悠斗は前へ向き直る。
「ふうん」
それだけ言い、黒瀬の肩へ顎を乗せた。
◇
観光路の分岐に差しかかったところで、浩司の足元に小さなものが落ちた。
悠斗の鞄の外ポケットから滑り落ちた、透明な写真入れだった。
浩司が拾い上げる。
中には一枚の写真が入っていた。
幼い悠斗が、男性に肩車されている。
その隣で、美紀が笑っていた。
三人とも、今よりずっと若い。
浩司は写真を見つめた。
「見た?」
悠斗の声がした。
「少し」
「返して」
「ああ」
浩司が写真入れを鞄へ戻そうとする。
「捨てないで」
悠斗が言った。
浩司の手が止まる。
「捨てるわけないだろ」
「お母さん、最近その写真を飾らなくなったから」
「この写真、家に飾ってあったのか?」
「前はね」
浩司は写真をもう一度見る。
「お母さんが片づけたの?」
「浩司さんが来てから」
浩司は何も言えなかった。
美紀が写真を片づけた理由は分からない。
新しい夫に気を使ったのかもしれない。
過去から前へ進もうとしたのかもしれない。
ただ、悠斗には違うように見えた。
「お母さんも、浩司さんも、お父さんのこと忘れようとしてる」
「忘れようとはしてない」
「じゃあ、何でお父さんって呼ばせるの」
浩司は写真入れを鞄へ戻した。
ファスナーを閉じ、しばらくその場に立っていた。
「代わりになろうとしてた」
悠斗が黒瀬の背中から、浩司を見る。
「美紀さんと結婚したら、俺がちゃんと父親にならないといけないと思ってた」
「なれてないけど」
「うん」
浩司は苦笑した。
「全然なれてないな」
悠斗は目をそらす。
「キャッチボールも、勉強も、ダンジョンも。悠斗と何をすれば父親らしくなれるのか、ずっと考えてた」
「別にやりたくない」
「そうだな。俺がやりたいだけだった」
浩司は言い訳をしなかった。
「でも、悠斗のお父さんを、いなかったことにしたいわけじゃない」
「じゃあ、何でお父さんって呼ばれたいの」
「呼ばれたかったからだよ」
悠斗が眉を寄せる。
「俺が家族になれたって、安心したかった」
浩司は悠斗から目をそらさなかった。
「悠斗のためじゃなくて、俺のためだった」
白石が何か言いかける。
黒瀬は小さく首を横へ振った。
白石は口を閉じた。
しばらくして、悠斗が言う。
「お父さんとは呼べない」
「分かった」
「ずっとかもしれない」
「それでもいい」
「お母さんは嫌がるよ」
「俺から話す」
浩司は少し考えてから続けた。
「今までどおり、浩司さんでいいよ」
悠斗は返事をしなかった。
ただ、黒瀬の背中へ回していた腕の力が、少しだけ抜けた。
◇
休憩所へ到着すると、黒瀬は悠斗をベンチへ下ろした。
白石が足首の固定を確認する。
「痛みは増えていませんか?」
「大丈夫」
「しびれは?」
「ない」
「もう少しで地上ですからね」
浩司は自動販売機で水を買い、悠斗へ渡した。
「飲むか?」
「うん」
悠斗は素直に受け取った。
浩司が少し離れたところへ移動すると、黒瀬もその隣に立った。
「子どもに気を使わせてたんですね」
浩司が言った。
「そうかもしれないね」
「否定してくれないんですね」
「その方がいい?」
「いえ」
浩司は乾いた笑いを漏らした。
「俺、あそこで無理に背負おうかと思いました」
「しなかったでしょう」
「嫌がられて、腹が立っただけです」
「それでも止まった」
黒瀬はベンチに座る悠斗を見る。
「父親らしくできたかは分からないけど、悠斗君が嫌がってることは守ったんじゃないかな」
「救助を呼んだだけです」
「それが必要だったんだよ」
浩司は黒瀬を見る。
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
◇
再び黒瀬が悠斗を背負い、地上へ向かう。
入口まで、あと十分ほどだった。
「浩司さん」
悠斗が呼んだ。
「何だ?」
「今日、楽しかった?」
浩司は少し考えた。
「俺は楽しかったよ」
「ほとんど話してないのに?」
「一緒に来られただけで、結構うれしかった」
「角兎しか見てないよ」
「角兎も見られた」
「子どもみたい」
「大人も角兎くらい見るよ」
悠斗は小さく笑った。
「今度は、転ばない道にして」
浩司の足が一瞬止まりかける。
「また行くのか?」
「別に、行ってもいい」
「お母さんも一緒に?」
悠斗は少し考える。
「三人でもいいけど」
浩司は返事を待つ。
「二人でもいい」
浩司の口元が緩んだ。
「分かった。次は全部調べてから行く」
「調べすぎなくていい」
「でも、また怪我したら――」
「浩司さん、心配しすぎ」
「仕方ないだろ」
黒瀬の隣を歩いていた白石が、少しだけ笑った。
◇
地上の救護室前では、美紀が待っていた。
黒瀬の背中にいる悠斗を見つけると、すぐに駆け寄ってくる。
「悠斗!」
「お母さん」
「大丈夫? 足は? 浩司さん、何があったの?」
「ごめん。俺が――」
「浩司さんは悪くないよ」
悠斗が先に言った。
美紀と浩司が同時に悠斗を見る。
「僕が勝手に先に歩いて、転んだだけ」
「でも……」
「浩司さん、救助も呼んでくれた」
黒瀬は悠斗を車椅子へ下ろした。
白石が足置きへ右足を乗せる。
「救護室で、念のため検査してもらいましょう」
「はい。ありがとうございます」
美紀が車椅子の後ろへ回る。
そのとき、悠斗が浩司を見た。
「浩司さんが押して」
「俺が?」
「荷物も持ってるし」
「ああ」
浩司は美紀から車椅子の取っ手を受け取った。
「ゆっくり押すぞ」
「分かってる」
「痛かったら言えよ」
「心配しすぎ」
三人が救護室へ向かっていく。
悠斗は最後まで、浩司を父親とは呼ばなかった。
浩司も、呼ばせようとはしなかった。
白石は三人の後ろ姿を見送る。
「お父さんとは呼びませんでしたね」
「うん」
「でも、また二人で出かけるみたいです」
「今日すぐに呼ばなくてもいいんじゃないかな」
三人の姿が、救護室の扉の向こうへ消える。
呼び方は変わらなかった。
それでも、帰るときの二人の距離は、来たときより少しだけ近くなっていた。
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