第10話 戻ってこなかった人
午後三時五十二分。
「第十階層から救難信号です」
管制員の声に、黒瀬慎吾は顔を上げた。
大型画面へ、第十階層の地図が表示される。
赤い点が明滅しているのは、北側の岩窟区画だった。
「要救助者は?」
「三人組の探索者です。二名は自力で退避していますが、残る一名が落石に挟まれています」
「意識は?」
「あります。左脚が大きな岩の下に挟まり、身動きが取れないとのことです」
「落石の原因は?」
「《黒鋼猪》との戦闘です」
黒鋼猪。
第十階層に生息する大型の猪型魔物だ。
全身を覆う黒い外皮は鋼のように硬く、体重を乗せた突進には岩壁を砕くほどの威力がある。
「魔物は?」
「すでに討伐されています。
戦闘中、黒鋼猪が岩壁へ激突し、その衝撃で天井の一部が崩れたようです」
「要救助者の名前は?」
管制員が端末を確認する。
「水城香織。四十一歳。A級探索者です」
黒瀬の手が止まった。
「水城香織?」
「はい。同行していたのは、いずれもB級探索者です」
同じ管制室にいた田所修平が、黒瀬を見る。
「知り合いか?」
「昔の仲間」
黒瀬は救助鞄へ手を伸ばした。
田所は担架を引き出す。
「脚が岩の下なら、引き上げ用の器具も必要だな」
「うん」
「先に行け」
黒瀬が田所を見る。
「でも、俺一人じゃ岩を動かせない」
「分かってる。俺たちは器具を持って追う」
田所は白石ひなたへ顔を向けた。
「白石、坂井を呼んでくれ」
「はい」
「担架と携帯式ジャッキを持っていく。黒瀬は水城さんの状態を確認しろ」
黒瀬は一瞬だけ迷った。
「分かった」
「無茶するなよ」
「しないよ」
黒瀬は救助鞄から、固定具と止血用具だけを小型の袋へ移した。
それを背負い、管制室を出ていく。
「黒瀬さん、一人で第十階層まで行くんですか?」
白石の声に、田所が答えた。
「ああ」
「私たちも急いだ方が……」
「装備を置いていくわけにはいかない。俺たちは俺たちの速度で行くぞ」
白石は管制室の出口を見る。
すでに黒瀬の姿はなかった。
「速いですね」
「今日は特にな」
田所が担架を背負う。
「あれが、元S級探索者の本気だよ」
◇
黒瀬は一人で階層を下っていた。
普段の救助では、同行者や装備の状態に合わせて速度を調整する。
だが、今日は一人だった。
岩場を蹴り、狭い通路を抜け、階段状になった崖を一気に下る。
足を止めることはない。
◇
第十階層へ到達すると、空気が変わった。
上層より魔力が濃く、息を吸うだけで肺の奥に重さを感じる。
黒瀬は走りながら《索敵》を使った。
前方に二つの反応。
それよりさらに奥。
崩落した岩壁の向こうに、もう一つ。
弱くはない。
しかし動いていなかった。
「いた」
黒瀬は速度を上げた。
北側の岩窟区画へ入る。
通路の先には、黒鋼猪の死骸が倒れていた。
大型車ほどの巨体。
太い牙の一本が折れ、黒い額には深い斬り傷が刻まれている。
魔物の横では、若い男女が救難端末を手に待っていた。
「救助管理所です」
黒瀬が声をかける。
二人が驚いたように振り向いた。
「もう来たんですか?」
「水城は、この奥だね」
「はい。でも、通路が崩れていて……」
若い男性が、大量の岩に塞がれた道を示す。
「大きく迂回しないと反対側には行けません」
黒瀬は岩壁の奥にある反応を確かめた。
水城の反応は途切れていない。
崩落の右側へ目を向ける。
岩壁と地面の間に、人一人がかろうじて通れそうな隙間があった。
「そこは行き止まりです」
女性探索者が言った。
「今の地図ではね」
「え?」
「昔は、この先に細い通路があった」
黒瀬は救助袋を身体の前へ回す。
「田所たちが器具を持ってくる。二人はここで待ってて」
「一人で行くんですか?」
「水城の状態だけ見てくる」
黒瀬は身体を横にして隙間へ入った。
岩に肩を擦りながら、狭い通路を進む。
長い間使われていないらしく、足元には細かな石が積もっている。
現在の地図から消されていても、通路そのものが完全になくなったわけではない。
《索敵》で水城の反応を追いながら、分岐を二つ曲がる。
やがて前方に、淡い明かりが見えた。
◇
水城香織は、崩れた岩壁のそばに座っていた。
左脚の膝から下が、大きな岩の下へ入っている。
額には乾き始めた血が付着していた。
それでも意識ははっきりしており、身体には保温シートが巻かれている。
左脚の付け根には、自分で止血帯を準備していた。
黒瀬が狭い通路から出る。
水城が顔を上げた。
一瞬、目を見開く。
すぐに、口元をわずかに緩めた。
「速すぎない?」
黒瀬は水城の前へしゃがんだ。
「遅いって言われると思った」
「昔なら、もう少し早かった」
「怪我人は黙ってて」
黒瀬は水城の額を確認する。
「意識を失った?」
「一度も」
「吐き気は?」
「ない」
「脚の感覚は?」
「足先は動く。岩が乗ってるところは痛いけどね」
黒瀬が岩と左脚の隙間を調べる。
脚全体が潰されているわけではない。
厚い装甲具が岩の重さを受けているが、無理に引けば骨や関節を傷める可能性がある。
黒瀬は固定具を取り出す。
水城の視線が、黒瀬の腰へ向いた。
そこには剣ではなく、救助用ナイフが差してある。
「本当に探索者を辞めたんだね」
「今さら?」
「そのナイフを見るまでは、半分くらい信じてなかった」
黒瀬は答えず、水城の脚へ固定具を巻いていく。
「岩を動かすのは、仲間が来てからにする」
「黒瀬一人なら、これくらい動かせるでしょう」
「動かせることと、動かしていいことは別だよ」
「救助員らしいこと言うんだね」
「救助員だからね」
水城は岩壁へ背中を預けた。
「他の人たちが来るまで、どのくらい?」
「うーん、二十分から三十分くらいかな」
「それまで二人きりか」
「嫌なら、黙ってるよ」
「ずっと黙ってた人が、今さら気を使わないで」
黒瀬の手がわずかに止まる。
水城は黒瀬を見ていた。
「一言だけだった」
「何が?」
「チームを抜けたとき」
黒瀬は再び固定具を締め始める。
「『もう潜らない』って。それだけ」
「うん」
「私たちは何度も連絡した」
「知ってる」
「一度も返さなかった」
「うん」
水城は声を荒らげなかった。
責めるというより、事実を一つずつ並べていた。
「どうして、何も言わなかったの?」
黒瀬は水城の左足を見たまま答えない。
「私たちに会いたくなかった?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、何?」
しばらく、崩れた岩から砂が落ちる音だけが続いた。
黒瀬が口を開く。
「みんなの顔を見たら、また潜ると思ったから」
水城が眉を寄せた。
「潜ればよかったじゃない」
「あのときは、もう潜っちゃいけないと思ってた」
「誰が決めたの?」
「俺が」
「勝手だね」
「うん」
「自分で決めて、自分で消えて、私たちには何も言わせなかった」
黒瀬は否定しなかった。
「黒瀬は、私たちを捨てたつもりはないんでしょうね」
「ないよ」
「置いていかれた方は違うんだよ」
黒瀬が顔を上げた。
水城の目には怒りがあった。
だが、それだけではなかった。
「私たちは、黒瀬に探索者へ戻ってきてほしかったんじゃない」
「じゃあ、何?」
「話をしてほしかった」
水城は言った。
「あの日、何を考えてたのか」
「……うん」
「どうして辞めるのか」
「うん」
「これからどうするつもりなのか」
水城は短く息を吐く。
「責めることすら、させてもらえなかった」
黒瀬は何も言えなかった。
水城が目をそらす。
「今さら謝られても、困るけど」
「ごめん」
水城が再び黒瀬を見る。
「本当に今さら言うんだ」
「今しか言えそうにないから」
「遅いよ」
「うん」
水城は許すとは言わなかった。
黒瀬も、許してほしいとは言わなかった。
◇
遠くから、複数の足音が聞こえてきた。
「来たね」
水城が言う。
「うん」
最初に姿を現したのは、田所だった。
その後ろから、白石と坂井が救助器具を持って入ってくる。
田所は水城の顔を見ると、すぐに気づいた。
「水城香織さんですね」
「そうだけど」
「救助管理所の田所です。A級探索者の水城さんは有名ですから」
「それはどうも」
水城は田所の後ろへ目を向ける。
白石と坂井が携帯式ジャッキを岩の横へ置いていた。
「黒瀬の仲間?」
「同僚だよ」
黒瀬が答える。
水城は小さく笑った。
「相変わらず、その言い方なんだ」
「何が?」
「別に」
田所が岩の状態を確認する。
「持ち上げるのは数センチでいいな?」
「うん。上げすぎると奥の岩がずれる」
「坂井、反対側を固定してくれ」
「分かりました」
「白石はジャッキだ。急に上げるなよ」
「はい」
白石がジャッキの取っ手を握る。
黒瀬は水城の左脚を両手で支えた。
「水城。岩が浮いたら、こっちで脚を抜く」
「分かった」
「痛かったら言って」
「昔はそんなこと聞かなかったのに」
「昔とは違うからね」
田所が合図を出す。
「白石、ゆっくりだ」
「はい」
ジャッキが岩を押し上げる。
重い岩が、わずかに浮いた。
「そこで止めて」
黒瀬が言う。
白石は取っ手を固定する。
坂井が周囲の岩を押さえ、田所が水城の身体を支えた。
「抜くよ」
黒瀬が左脚をゆっくり引く。
水城が眉を寄せる。
「痛い?」
「大丈夫」
「それは信用しないよ」
「救助員になって面倒になったね」
脚が岩の下から抜けた。
黒瀬はすぐに装甲具を外し、状態を確認する。
脛は腫れているが、大きな変形はない。
「折れてる可能性はある。地上までは担架だね」
「歩ける」
「歩かせないよ」
黒瀬が固定具を巻く。
水城は何か言おうとしたが、田所が先に口を開いた。
「救助されるときくらい、救助員の言うことを聞いてください」
水城が田所を見る。
「黒瀬より厳しいね」
「黒瀬が甘いんです」
「そうかな」
「昔からです」
田所の言葉に、水城が黒瀬を見る。
「昔から?」
「田所とは、探索者になる前からの知り合いだよ」
「知らなかった」
「話してないからね」
「黒瀬は、そういう人だった」
水城は担架へ乗せられた。
◇
帰路では、黒瀬と田所が担架を運んだ。
白石と坂井が前後を警戒する。
水城は担架の上から、黒瀬の横顔を見ていた。
「救助員になって、どのくらい?」
「数えてない」
「嘘。黒瀬は数字を忘れないでしょう」
「探索者をやってた期間よりは短いよ」
「それは分かる」
しばらくして、水城が言った。
「楽しそうだね」
黒瀬が水城を見る。
「そう見える?」
「昔より、人の顔を見てる」
「昔も見てたよ」
「見てなかった」
水城は天井へ視線を向ける。
「ずっと先を見てた。次の階層とか、まだ誰も見てない場所とか」
「深く潜ることしか考えてなかったからね」
「今は?」
黒瀬は前方を見た。
白石が通路の安全を確認し、坂井が後方の気配を探っている。
「地上へ戻すことを考えてる」
水城は目を閉じた。
「そう」
今度は眠ったのではなく、力を抜いただけだった。
「似合ってるよ」
小さな声だった。
「救助員が?」
「人を地上へ戻す仕事が」
黒瀬は返事をしなかった。
担架を持つ手に、少しだけ力を込めた。
◇
地上へ戻ると、水城はすぐに救護室へ運ばれた。
検査の結果、左脚は骨折していた。
ただし、神経や血管に大きな損傷はなく、適切な治療を受ければ探索者へ復帰できる見込みだという。
搬送車へ移される前、水城が黒瀬を呼び止めた。
「黒瀬」
「何?」
「まだ話は終わってないから」
「治療が先だよ」
「また逃げるつもり?」
黒瀬は黙った。
水城は黒瀬から目をそらさなかった。
黒瀬は、水城と視線を合わせる。
「分かった」
「連絡したら返して」
「うん。返すよ」
水城がわずかに笑った。
搬送車の扉が閉じる。
車が救護所を離れていった。
白石が黒瀬の隣へ立つ。
「水城さんは、黒瀬さんの仲間だったんですね」
「昔ね」
「同じチームだったんですか?」
「うん」
白石は何かを尋ねようとした。
だが、口を閉じた。
少し離れた場所から、田所が声をかける。
「黒瀬、片づけるぞ」
「今行く」
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