第5話 おうちに帰ろ
午後四時七分。
奥多摩第一ダンジョン救助管理所に、第八階層から救難信号が届いた。
『北西区画で崩落。一名負傷。一名、意識なし』
信号とともに送られてきた探索者情報が、管制室の画面に表示される。
篠崎拓也、三十九歳。
篠崎美咲、三十七歳。
二人ともBランク探索者だった。
「最後の定時連絡は?」
黒瀬慎吾が尋ねる。
「午後三時四十二分です。その時点では異常なし。双月滝から帰還中だと報告しています」
管制員が答えた。
第八階層の双月滝。
二本の地下水が並んで流れ落ち、その背後にある魔石が青白く輝く場所だ。
かつては探索者の間で有名だったが、第八階層である以上、気軽に見に行ける場所ではない。
黒瀬は壁に掛けられた地図へ目を向けた。
「北西区画なら、最短は旧連絡路だね」
「一部に落石の報告があります」
「通れなかったら東へ回る」
黒瀬は救助装備を背負った。
白石ひなたと田所修平も準備を終えている。
「行こう」
三人は第八階層へ向かった。
◇
第八階層に入ってから、通路は何度も枝分かれした。
壁も天井も似たような灰色の岩で覆われ、曲がるたびに方向感覚が狂う。
遠くから、岩が軋む低い音が聞こえていた。
黒瀬は足を止め、スキルを使い周囲へ意識を広げる。
前方に二人。
一人の反応は弱いが、確かに生きている。
もう一人からは、何も感じられない。
「近い」
黒瀬が言った。
三人は崩れた岩を越え、狭くなった通路を抜ける。
その先で、岩壁の一部が大きく崩れていた。
「救助管理所です!」
黒瀬が呼びかける。
「聞こえますか!」
「……ここです」
女性の声が返ってきた。
崩れた岩の陰に、二人の探索者がいた。
男は女へ覆いかぶさるように倒れ、腰から下を厚い岩板に挟まれている。
女はその横に座り、男の上半身を抱えていた。
左脚が不自然な角度に曲がっている。
「篠崎美咲さんですね」
黒瀬が近づく。
美咲は黒瀬を見上げた。
「夫を……お願いします」
黒瀬は美咲の隣へ膝をつき、拓也の首元に指を当てた。
呼吸はない。
脈もない。
瞳孔反応を確認する。
拓也の身体は、すでに冷え始めていた。
「分かっています」
美咲が言った。
声は震えていなかった。
「ずっと、名前を呼んでいましたから」
美咲は拓也の頬に触れる。
「途中から、返事をしなくなりました」
黒瀬は何も言わず、拓也の目を閉じた。
白石と田所は周囲の岩盤を確認している。
細かな砂が、天井の亀裂から落ち続けていた。
「黒瀬さん、ここは長く持ちません」
田所が言う。
「分かった」
黒瀬は美咲へ向き直った。
「美咲さん、脚を見せてもらうよ」
「私は大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、こっちで確認するね」
美咲は拓也を抱いたまま動こうとしなかった。
黒瀬は急かさず待った。
やがて美咲が拓也の身体から片手だけを離す。
左脚は膝から下が腫れ、探索服の上からでも変形しているのが分かった。
出血もある。
指先は冷たく、唇からも血の気が失われていた。
「骨折してる。白石さん、固定をお願い」
「はい」
白石は美咲のそばへしゃがんだ。
「篠崎さん。今から左脚に添え木を当てます。少し身体を動かします」
美咲がうなずく。
白石は田所と声を合わせ、脚の位置を変えないようにしながら添え木を差し込んだ。
固定帯を締めるたび、美咲の顔が苦痛に歪む。
それでも、美咲の手は拓也の服を握ったままだった。
「終わりました」
白石が言った。
黒瀬は美咲の肩へ保温シートをかける。
「美咲さんを先に運ぶよ」
美咲はすぐに首を横へ振った。
「この人も一緒にお願いします」
黒瀬は拓也の下半身を挟んでいる岩板を見る。
厚さは四十センチ近くある。
周囲の瓦礫も噛み合っているため、無理に動かせば二次崩落を起こす。
「拓也さんを出すには準備がいる」
「待ちます」
「美咲さんの脚と体温は、待てる状態じゃないよ」
「置いていけません」
美咲の指に力が入る。
「私だけ帰れません」
天井から、小さな石が落ちた。
田所が顔を上げる。
「黒瀬さん」
「分かってる」
黒瀬は美咲の前へ座った。
「どうして双月滝へ?」
美咲はしばらく答えなかった。
「……あそこで、結婚を申し込まれたんです」
十二年前。
二人とも、まだ探索を始めたばかりだった。
第八階層までたどり着くことが大きな目標で、休みの日にはいつも二人でダンジョンへ入っていた。
初めて双月滝を見た日。
拓也は流れ落ちる水を背にして、準備していた言葉を全部忘れた。
『結婚しよう』
結局、それだけしか言えなかった。
美咲も泣いてしまい、返事をするまで何分もかかった。
「娘が生まれてから、深い階層へは行かなくなりました」
美咲が言う。
「二人で第八階層まで来たのは、八年ぶりです」
「娘さんは?」
「結衣といいます。八歳です。今日は母の家に泊まっています」
数日前、昔の写真を整理していた。
双月滝の前で笑う二人の写真を見つけ、美咲がもう一度見に行きたいと言った。
拓也は最初、反対した。
ブランクがある。
第八階層は、昔より安全になったわけではない。
それでも二人で訓練をやり直し、装備を整え、無理のない計画を立てた。
結衣は両親の古い写真を見て笑った。
『今の二人も撮ってきて』
双月滝までは、何事もなかった。
青白い滝を前に、二人で何枚も写真を撮った。
事故が起きたのは、その帰りだった。
「私が行きたいなんて言わなければ……」
美咲の声が震えた。
「この人は死ななかった」
黒瀬は安易に否定しなかった。
美咲が自分を責めていることも、その言葉を誰にも簡単には止められないことも分かっていた。
黒瀬は拓也の身体を見る。
崩落が起きた瞬間、拓也は美咲を通路の端へ突き飛ばした。
そして、自分の身体で覆った。
「拓也さんは、美咲さんを帰すためにこうしたんだと思う」
美咲が顔を上げた。
「それなのに美咲さんがここに残ったら、拓也さんが守ったものまで、ここに残ることになる」
美咲の顔が歪む。
「でも、この人を一人にはできません」
「一人にはしないよ」
「……え?」
「美咲さんを先に帰す」
黒瀬は拓也へ目を向けた。
「拓也さんは、あとで俺が迎えに来る」
美咲は黒瀬を見つめる。
「本当に、戻ってくれますか」
「うん」
「危なくなったら、置いていくんですか」
「置いていかないよ」
黒瀬は静かに答えた。
「ちゃんと地上まで連れて帰る」
美咲の目から涙がこぼれた。
それでも、拓也の服を握る手は離れない。
黒瀬は無理に外そうとはしなかった。
しばらくして、美咲は拓也の頬へ手を当てた。
「少しだけ待ってて」
返事はなかった。
「迎えに来てもらうから」
美咲は、ようやく手を離した。
黒瀬は自分の上着を脱ぎ、拓也の上半身へかけた。
「白石さん、田所さん。担架を」
二人が折り畳み式の担架を広げる。
美咲を移すと、骨折した脚に痛みが走った。
「うっ……」
「もう少しだけ動かすよ」
黒瀬が身体を支え、白石と田所が美咲を担架へ乗せた。
美咲は横になったあとも、拓也から目を離さない。
黒瀬は担架の横へ立つ。
「行こう」
◇
第八階層の帰路は、来たときよりも長く感じられた。
白石と田所が担架を持つ。
白石は《身体強化》を使っていたが、自分だけで持ち上げようとはしなかった。
田所の歩幅に合わせ、狭い場所では一度止まる。
段差を越える前に担架の角度を確かめ、美咲の身体が揺れないよう、ゆっくりと足を運んだ。
「黒瀬さんも、いますか」
美咲が何度目かの問いを口にした。
「いるよ」
黒瀬は担架の後ろを歩いていた。
「拓也は……」
「上着をかけてきた。少し待っててもらってる」
美咲は目を閉じた。
第七階層へ続く連絡通路で、応援の救助班と合流した。
医療担当が美咲の状態を確認する。
「ここからは引き継げます」
隊員が言った。
黒瀬は担架のそばへ近づく。
「美咲さん」
美咲が目を開けた。
「迎えに行ってくるね」
「お願いします」
美咲は両手を握りしめた。
「夫を、お願いします」
「うん」
黒瀬は白石へ顔を向ける。
「白石さん、美咲さんと地上まで行って」
白石は、黒瀬が持っている回収用装備を見る。
「黒瀬さんは一人で戻るんですか」
「田所さんには、ここからの安全確認を頼む。俺だけの方が早い」
白石は何か言いかけた。
だが、黒瀬の顔を見て口を閉じる。
「分かりました」
「お願い」
黒瀬は来た道を引き返した。
◇
崩落現場へ戻ると、人の声はもう聞こえなかった。
落ち続ける砂と、岩盤が軋む音だけが響いている。
拓也は、黒瀬が上着をかけたときと同じ姿勢で横たわっていた。
黒瀬は隣へしゃがむ。
「迎えに来たよ、拓也さん」
返事はない。
黒瀬は岩の隙間へ小型の探査棒を差し込み、内部の状態を確認した。
岩板を一気に持ち上げれば、上に積もった瓦礫が崩れる。
黒瀬は落下防止用のくさびを何本も打ち込み、岩板の周囲を固定する。
携帯型の救助ジャッキを隙間へ入れ、少しずつ圧力をかけた。
岩板が、わずかに浮く。
「今、脚を出すよ」
黒瀬は拓也へ声をかけた。
生きている人にするのと同じように、動かす前には必ず伝える。
「少し身体を引くね」
拓也の腰へ救助帯を回し、ゆっくりと引く。
岩板の下から、拓也の身体が少しずつ出てくる。
途中で岩が軋んだ。
黒瀬は手を止め、天井を見上げる。
細かな石が落ちている。
それでも、作業を急がない。
くさびの位置を確かめ、ジャッキの圧力を調整する。
「もう少しだよ」
拓也の身体が、完全に岩板の下から抜けた。
黒瀬は拓也を仰向けに寝かせ、乱れていた探索服を整える。
右手の近くに、小型のカメラが落ちていた。
画面にはひびが入っている。
黒瀬が電源を押すと、液晶に写真が表示された。
最後に撮られていたのは、双月滝の前で笑う美咲だった。
風で髪が顔にかかり、美咲は片手で押さえながら笑っている。
その前には、誕生日ケーキを前に、八本のろうそくを吹き消そうとしている結衣。
さらに前には、台所で振り返り、少し困ったように笑う美咲が写っていた。
景色の写真より、妻と娘の顔の方が多かった。
黒瀬はカメラを保護袋へ入れ、拓也の荷物に収めた。
回収用の袋を広げる。
「身体を包むね」
拓也を袋へ収め、固定具を締める。
黒瀬は拓也を背負った。
「帰ろうか」
一人分の重みを背負った足音が、暗い通路に響いた。
◇
美咲が地上へ運ばれた頃には、外はすでに暗くなっていた。
左脚は医療区画で処置されている。
その隣には、美咲の母親と結衣がいた。
結衣は椅子に座る美咲の手を、両手で握っている。
「お父さんは?」
美咲はすぐに答えられなかった。
結衣は八歳だった。
死というものを、どこまで理解しているのか分からない。
けれど、嘘をつくこともできなかった。
「今、迎えに行ってもらってる」
美咲はうなずいた。
「連れて帰ってくれるって」
結衣は入口の方を見る。
「じゃあ、待ってる」
その一言に、美咲は唇を噛んだ。
拓也は美咲だけを守ったのではない。
美咲を、この子のもとへ帰そうとしたのだ。
美咲は結衣の手を握り返した。
◇
午前二時四十八分。
ダンジョン入口に、一人の救助員が現れた。
「黒瀬さんです!」
職員の声が響く。
黒瀬は拓也を背負い、一歩ずつ地上施設へ入ってきた。
白石と田所が駆け寄る。
「代わります」
田所が言った。
「ここまで来たから大丈夫」
黒瀬は搬送台の前まで拓也を運び、ゆっくりと下ろした。
それから保護袋に入れたカメラを取り出す。
「篠崎美咲さんは?」
「家族待機室です」
黒瀬は拓也とともに、家族待機室へ向かった。
扉が開く。
美咲は車椅子に座り、結衣は眠らずに待っていた。
黒瀬の姿を見た瞬間、美咲の目から涙がこぼれる。
「お待たせ」
黒瀬が言った。
「拓也さん、帰ってきたよ」
拓也を覆っていた布が、胸元まで静かに開かれる。
美咲は車椅子を近づけ、拓也の頬へ触れた。
結衣も母親の隣へ立つ。
父親の手へ触れ、その冷たさに指を止めた。
それでも、手を離さなかった。
黒瀬はカメラを美咲へ差し出す。
「これ、近くに落ちてた」
美咲が受け取る。
ひび割れた画面には、双月滝の前で笑う自分が映っていた。
「写真を撮るの、下手だったのに」
美咲は泣きながら笑った。
「今日は、うまく撮れてる」
画面を送る。
結衣の誕生日。
台所に立つ美咲。
ソファで眠る母娘。
拓也が見ていた家族の日々が、次々に映し出される。
美咲はカメラを胸に抱いた。
結衣が、拓也の手を握ったまま尋ねる。
「お父さんも、一緒に帰れる?」
「うん」
美咲は娘の手へ、自分の手を重ねた。
十二年前、二人で双月滝から帰った日。
結婚した日。
結衣が生まれ、三人になった日。
どんな日も、最後には同じ家へ帰った。
今日は、帰る順番が少し違っただけだ。
美咲は拓也の胸元へ触れる。
「拓也」
返事はない。
それでも、今度は置いていかない。
「おうちに帰ろ」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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