第40話 二つの救助要請
翌朝。
奥多摩第一ダンジョン救助管理所。
黒瀬慎吾の机には、昨日渡された広域派遣の登録書類が置かれていた。
必要事項のほとんどは印字されている。
空いているのは、本人の意思を記す欄だけだ。
「まだ決めてないんですか?」
向かいの席から白石ひなたが聞いた。
「うん」
「期限は一週間でしたよね」
「あと六日あるからね」
「全部使いそうですね」
「そんな気がしてきた」
黒瀬は書類を伏せ、救助記録へ手を伸ばした。
少し離れたところでは、田所修平が救助用ロープを点検している。
「急いで答える話でもないだろ」
田所が言った。
「そうなんだけどね」
「一週間あるなら、一週間考えればいい」
「田所は決めるの早そうだけど」
「俺なら断る」
「即答だね」
「全国を飛び回るより、ここにいた方が楽だからな」
「理由が田所らしい」
「悪いか?」
「ううん」
白石が小さく笑った。
黒瀬も書類から目を離す。
今朝はまだ救助要請が入っていない。
こうして何事もなく時間が過ぎるなら、それが一番いい。
だが。
「救助要請です!」
管制員の声が事務室に響いた。
黒瀬たちが一斉に顔を上げる。
「奥多摩第一ダンジョン、第七階層。探索者六名が帰還困難です」
田所が立ち上がった。
「負傷者は?」
「一名。引率役の男性探索者です。目を負傷して、現在ほとんど視界が利かないとのことです」
「残りの五人は?」
白石が聞く。
「負傷なし。ただし、全員が低階層中心の探索経験しかありません。今回は講習を兼ねて第七階層へ入っていたそうです」
黒瀬が救難地点の地図を見る。
「引率者以外に、第七階層の帰還経路を分かる人はいない?」
「はい。通信はつながっていますが、本人たちだけで移動させるのは危険と判断しています」
「現在地は?」
「西側の旧観測所です。安全は確保されています」
白石が救助袋を取った。
「迎えに行って、六人を連れて戻ればいいんですね」
「そういうことだな」
田所も準備を始める。
黒瀬が自分の救助袋へ手を伸ばした、その時だった。
「所長!」
別の管制員が呼んだ。
「外部から緊急応援要請です」
事務室の空気が変わった。
奥から所長が出てくる。
「どこだ?」
「丹沢第二ダンジョンです。第十一階層で探索者一名が行方不明。昨日の夕方から捜索を続けていますが、まだ発見できていません」
「一晩か」
「はい」
黒瀬も画面を見る。
「現地の状況は?」
「《索敵》持ちの救助員が三名入っています。ただ、行方不明になった一帯には小型魔物が多数生息していて、生体反応の判別ができないそうです」
「多数って、どれくらい?」
「直近の確認で百三十を超えています」
白石が息を呑む。
「そんなに……」
管制員が続ける。
「それと、今回の要請では応援に来てほしい救助員を向こうが指名しています」
所長が尋ねた。
「誰だ?」
管制員が黒瀬を見る。
「黒瀬さんです」
事務室が静かになった。
黒瀬は画面から目を離さない。
「俺を?」
「はい。富士北麓ダンジョンでの救助記録を確認したそうです」
所長が黒瀬へ説明する。
「今回の要請は、昨日話した広域派遣制度とは別だ。今までにもある緊急応援の枠で来ている」
「なるほど」
「ただし、向こうがお前個人を指名してきた」
「分かりました」
黒瀬は丹沢から届いた情報を見る。
遭難者は藤木悠人、二十九歳。
B級探索者。
三人パーティーで第十一階層を探索中、魔物との遭遇で一時的に散開した。
二人はほどなく合流したが、藤木だけが戻らなかった。
救難信号も出ていない。
「こっちの方は?」
黒瀬が聞く。
「救難地点まで通常なら四十分前後です」
白石が地図を見る。
「引率の人は歩けるんですよね?」
「視界以外に大きな負傷はないそうです」
「五人の体調は?」
「問題ありません」
黒瀬は二つの画面を見比べた。
奥多摩では六人が待っている。
居場所は分かっている。
自力では帰れないが、救助員が迎えに行けば帰還できる。
一方の丹沢では、一人がまだ見つかっていない。
現地の救助員が一晩探し続け、それでも位置すら特定できていない。
所長が黒瀬を見る。
「どうする?」
黒瀬はすぐには答えなかった。
自分が奥多摩へ行けば、かなり楽になる。
《索敵》で周囲を確認しながら、六人を安全な経路へ誘導できる。
だが。
「黒瀬さん」
白石が声をかけた。
「うん?」
「丹沢へ行ってください」
黒瀬が白石を見る。
「こっちは?」
「私たちが行きます」
「白石さん」
「居場所は分かってます。負傷している引率者も歩ける。私と田所さんで迎えに行って、五人も一緒に連れて帰ります」
田所が救助袋を肩にかける。
「俺も同じ意見だ」
「大丈夫?」
「第七階層だぞ。俺だって普段から入ってる」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
田所は奥多摩側の地図を見る。
「必要なのは戦闘じゃない。六人を安全に地上へ連れ帰ることだろ」
「うん」
「なら俺たちでやる」
白石も頷いた。
「昨日言いましたよね。黒瀬さんがいない時でも救助できるようになりたいって」
黒瀬は白石を見た。
昨日。
第四階層の救助で、白石は黒瀬に答えを求めず、自分で帰還経路を選んだ。
今日は第七階層。
条件は昨日より難しい。
それでも、白石の声に迷いはなかった。
「黒瀬」
田所が呼ぶ。
「丹沢には、お前じゃないと見つけられない人がいるかもしれない」
黒瀬は丹沢側の画面を見る。
百を超える生体反応。
そのどこかにいる、一人の探索者。
「……分かった」
黒瀬は救助袋を持ち上げた。
「俺は丹沢へ行く」
所長が頷く。
「向こうへ連絡する。車両もすぐ出せるようにする」
「お願いします」
白石も救助袋を背負う。
「黒瀬さん」
「何?」
「こっちは任せてください」
黒瀬は一瞬だけ白石を見た。
それから頷く。
「うん。任せた」
白石も頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
救助要請は、もう始まっている。
三人は事務室を出た。
廊下の途中で道が分かれる。
右へ行けば、奥多摩第一ダンジョンの入口。
左へ行けば、地上の車両乗り場だ。
「じゃあな」
田所が言う。
「うん」
「行きましょう」
白石が田所へ声をかける。
二人はダンジョンへ向かった。
黒瀬はその背中を見送る。
いつもなら、同じ方向へ進んでいた。
今日は違う。
黒瀬は反対側へ足を向けた。
◇
第七階層。
「白石さん」
「はい」
前を歩いていた田所が振り返った。
「ここから先、どうする?」
白石は足を止め、地図と救難信号の位置を見比べる。
旧観測所までは二つの経路がある。
北側は距離が短い。
ただ、狭い場所と高低差が多い。
南東側は少し遠回りになるが、帰り道まで考えると足場が安定している。
「南東側から入ります」
「理由は?」
「引率者はほとんど見えていません。帰りに狭い場所や大きな段差が続くのは避けたいです」
「行きも遠くなるぞ」
「帰りに経路を変えるより、最初から同じ道を使った方が五人にも説明しやすいと思います」
田所が地図を見る。
「魔物は?」
「この辺りは《灰色蜥蜴》が出ます。ただ、群れにはならない種類です」
「分かった」
それだけだった。
田所は正解とも不正解とも言わない。
「じゃあ行くか」
「はい」
白石が先へ進む。
しばらく歩くと、田所が後ろから尋ねた。
「旧観測所に着いたら?」
「まず引率者の状態を確認します」
「その次は?」
「残りの五人もです。怪我がなくても、疲労や混乱がないか見ます」
「帰る順番は?」
白石は少し考える。
「引率者を真ん中にします。前を私、後ろを田所さん。五人は経験のある順に前後へ分けます」
「引率者の補助は?」
「一人に任せません。片側は私たちが交代で支えます」
田所が頷く。
「分かった」
また歩き始める。
答えを教えることはなかった。
◇
やがて旧観測所が見えてきた。
入口近くに六人の姿がある。
「救助隊です!」
白石が声をかける。
六人が一斉に顔を上げた。
「よかった……」
若い探索者の一人が立ち上がる。
その中央。
四十代くらいの男性が壁際に座っていた。
両目を閉じている。
「引率の方ですね?」
「はい」
男性が答える。
「水野です」
「救助員の白石です。こちらは田所です」
白石は水野の前へしゃがんだ。
「目の状態を確認させてください」
「お願いします」
「痛みは?」
「かなりあります。涙が止まらなくて、開けてもほとんど見えません」
「頭や顔は?」
「目以外は大丈夫です」
白石は状態を確認したあと、無理に目を開けないよう伝えた。
続いて五人にも一人ずつ声をかける。
大きな怪我はない。
ただ、初めての第七階層で引率者が動けなくなったことで、かなり緊張している。
「皆さん、帰りは来た道を使いません」
一人が不安そうに白石を見る。
「違う道なんですか?」
「少し遠回りします。でも、足場が楽な道です」
「僕たちでも大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
白石は地図を見せながら説明した。
「急ぐ必要はありません。前を私が歩きます。田所さんが最後につきます」
水野が口を開く。
「すみません。私がこんな状態で……」
「今は帰ることだけ考えましょう」
白石が言った。
「水野さんは真ん中です。足元は一つずつ声をかけます」
「分かりました」
白石は六人の位置を決める。
それから田所を見る。
「準備できました」
「分かった」
田所はそれだけ答えた。
「では、戻りましょう」
白石が先頭に立つ。
七人がその後ろへ続いた。
◇
同じ頃。
黒瀬は丹沢第二ダンジョンへ向かう救助用車両の後部座席で、送られてきた資料に目を通していた。
遭難者。
藤木悠人、二十九歳。
B級探索者。
三人パーティーで第十一階層へ入り、昨日の午後四時過ぎに魔物の群れと遭遇した。
三人は別方向へ退避。
二人は約二十分後に合流したが、藤木だけが戻っていない。
救難信号も確認されていなかった。
黒瀬は地図を見る。
行方不明になった一帯には、細い通路が網の目のように入り組んでいる。
さらに厄介なのが、そこに生息する《洞窟ネズミ》だった。
一体一体は小さく、危険度も低い。
しかし、群れで生活する。
現地の《索敵》持ちが確認した生体反応は百三十七。
その周囲にも、まだ反応があるという。
「百三十七か……」
黒瀬は数字を見つめた。
富士北麓では、消えそうなほど弱い一つの反応を探した。
今回は逆だ。
多すぎる反応の中から、人間一人だけを見つけなければならない。
普通に《索敵》を広げれば、生命反応で埋め尽くされるだろう。
何を手がかりに絞るか。
黒瀬は資料をめくった。
藤木の身長。
装備。
スキル。
最後に確認された位置。
同行者の証言。
読みながら頭の中で一つずつ整理していく。
ふとスマホへ目を向けた。
白石からの連絡はまだない。
向こうも今ごろ救助の最中だ。
黒瀬はスマホへ手を伸ばしかけ、やめた。
任せた。
さっき自分でそう言った。
なら、今は自分の救助に集中すればいい。
窓の外へ目を向ける。
奥多摩から離れ、景色が少しずつ変わっていた。
昨日まで、机の上の広域派遣の書類を見ながら迷っていた。
今日はまだ、その答えを出していない。
それでも黒瀬は、別のダンジョンへ向かっている。
そこに、まだ見つかっていない人がいるからだ。
理由はそれだけで十分だった。
◇
丹沢第二ダンジョン。
救助用車両が管理施設の前で止まった。
黒瀬が降りると、二人の救助員が待っていた。
「奥多摩第一ダンジョン救助管理所の黒瀬さんですか?」
「はい」
「丹沢第二救助隊の相馬です」
四十歳前後の男性が頭を下げる。
「急な要請ですみません」
「いえ」
「藤木さんは、まだ見つかっていません」
黒瀬はダンジョンの入口を見る。
「《索敵》を使った場所、全部教えてもらえます?」
「もちろんです」
「あと、藤木さんと一緒だった二人にも話を聞きたいです」
「待機してもらっています」
「お願いします」
相馬が黒瀬を見る。
「すぐ潜りますか?」
「はい」
黒瀬は救助袋を背負い直した。
百三十を超える反応。
その中のどこかに、一人だけ帰れていない人がいる。
「探しに行きましょう」
黒瀬は相馬たちとともに、丹沢第二ダンジョンへ入っていった。
その頃、奥多摩では白石が六人の先頭を歩いている。
今日は黒瀬と白石が、別々の救難信号を追っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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