第39話 ここを離れるんですか?
「黒瀬」
午前中の救助記録を整理していた黒瀬慎吾が顔を上げた。
奥多摩第一ダンジョン救助管理所。
事務室の奥に立っていた管理所長が、黒瀬を手招きする。
「ちょっと来てくれ」
「はい」
黒瀬が椅子から立ち上がる。
向かいの席にいた白石ひなたが顔を上げた。
「何でしょうね」
「分からない」
「行ってらっしゃい」
「うん」
黒瀬はそのまま所長室へ向かった。
◇
「座ってくれ」
「はい」
黒瀬が椅子に腰を下ろす。
所長の机には、数枚の書類が置かれていた。
上の一枚には、富士北麓ダンジョン救助部門の名前がある。
「向こうから正式に礼状が来てる」
「富士北麓から?」
「ああ。三日間見つからなかった遭難者を発見した件だ」
「みんなで救助したんですけどね」
「それは向こうも書いてる。ただ、発見できたのはお前の《索敵》があったからだともな」
「そうですか」
黒瀬が書類を見る。
小野寺亮。
三日間、地図にも載っていない空洞に取り残されていた探索者だ。
「今日呼んだのは、礼状を見せるためじゃない」
「何かあるんですか?」
「富士北麓の件が、他のダンジョン救助組織にも伝わった」
所長が別の書類を黒瀬の前へ出す。
「各地の救助組織で、大規模事故や特殊な救助の際に人員を融通する仕組みがあるのは知ってるな?」
「はい」
「その枠組みを広げる話が出てる」
「広げる?」
「単純に人数を補うだけじゃなく、特定の技能を持った救助員を必要な現場へ派遣する」
黒瀬は書類へ目を落とした。
「治癒系のスキル持ち、高階層で活動できる救助員、特殊な探索能力を持った者。そういう人間をあらかじめ登録しておく案だ」
「なるほど」
「候補者の一人に、お前の名前が挙がってる」
黒瀬が顔を上げた。
「俺ですか」
「《索敵》だ」
「でも、同じスキルを持ってる救助員は他にもいますよね」
「いる」
所長が一枚の報告書を取り出した。
「富士北麓の森川という救助員からも報告が来てる。同じ場所で同じ《索敵》を使ったが、自分には拾えなかった反応を、お前は拾ったそうだな」
「森川さんも十分上手かったですよ」
「その森川本人が、お前とは見えているものが違うと書いてる」
黒瀬は少し困ったように報告書を見る。
「そんなふうに思われてたんですね」
「三日間探して見つからなかった人間を見つけたんだ。それだけでも声はかかる」
「異動する話ですか?」
「いや」
所長が首を振った。
「所属はここだ。奥多摩第一ダンジョン救助管理所のまま。他のダンジョンから要請が入った時だけ応援に出る」
「富士北麓の時みたいに?」
「そうだ」
書類には、各地の主要ダンジョンの名前が並んでいた。
「どのくらいの頻度になるんですか?」
「まだ分からん。制度自体が固まってないからな」
「そうですか」
「ただ、受ければ今までみたいに毎日ここにいられるとは限らなくなる」
黒瀬の視線が書類の上で止まった。
「……なるほど」
「すぐに返事はいらん」
「いいんですか?」
「あくまで候補者への打診だ。一週間くらい考えてくれ」
「分かりました」
所長が書類をまとめ、黒瀬へ渡す。
「一つだけ覚えておいてくれ」
「はい?」
「お前の《索敵》を必要としている現場が、奥多摩以外にもある」
黒瀬は書類を受け取った。
「……はい」
◇
事務室へ戻ると、田所修平が黒瀬を見た。
「長かったな」
「そう?」
「何の話だった?」
黒瀬は自分の机へ戻り、書類を置いた。
「他のダンジョンにも救助に行かないかって」
白石の手が止まった。
「え?」
田所は書類の表紙を見る。
「広域派遣か」
「知ってる?」
「前から話はあったらしいな」
「そうなんだ」
「でも、お前が候補に入ったのか」
「富士北麓の件でね」
白石は黒瀬と書類を交互に見る。
「それって……黒瀬さん、ここを離れるんですか?」
「異動じゃないよ」
「じゃあ?」
「所属はここ。ただ、他のダンジョンから要請が来たら応援に行く」
「どれくらい行くんですか?」
「まだ分からないって」
「そうですか」
白石は少し考えてから、自分の椅子へ座り直した。
黒瀬が尋ねる。
「白石さんは、どう思う?」
「私ですか?」
「うん」
白石はすぐには答えなかった。
「必要としてる人がいるなら、行った方がいいと思います」
「そっか」
「富士北麓の小野寺さんみたいに、黒瀬さんじゃないと見つけられない人もいるかもしれませんから」
「うん」
「ただ……」
白石が言葉を止める。
「何?」
「黒瀬さんがいない時でも、私たちだけでちゃんと救助できるようにならないと駄目ですね」
黒瀬は少し意外そうに白石を見る。
「今でもできてるでしょう?」
「まだです」
「そう?」
「自分で判断してるつもりでも、最後に黒瀬さんを見ることがあるんです」
「俺を?」
「はい。これで合ってるかなって」
白石は机の上の救助記録へ目を落とした。
「黒瀬さんがいなかったら、そこで止まっちゃうかもしれないので」
黒瀬は少し黙った。
「でも、白石さんはもう救助員だよ」
「ありがとうございます」
白石が小さく笑う。
「だから、その言葉にちゃんと追いつきたいです」
田所が椅子の背にもたれた。
「まあ、黒瀬が外に行ったくらいで奥多摩が回らなくなったら、それはそれで困るからな」
「田所」
「何だ?」
「もう少し寂しがってもいいんじゃない?」
「まだ行くって決めてもないだろ」
「それもそうだね」
白石が笑った。
黒瀬も自分の椅子へ座る。
机の上には、まだ見慣れない書類が置かれていた。
◇
昼休み。
黒瀬が休憩室でパンを食べていると、田所が入ってきた。
「今日は一個か?」
「二個あるよ」
「ならいい」
「最近、みんな俺の昼飯を確認するね」
「前科があるからだろ」
田所は向かいの椅子へ座った。
「で、どうするんだ?」
「広域派遣?」
「ああ」
黒瀬はパンを一口食べる。
「まだ分からない」
「珍しいな」
「そう?」
「昔のお前なら、その場で行くって言ってただろ」
黒瀬が田所を見る。
「そうだったかな」
「新しいダンジョンが見つかれば行く。未到達階層があると聞けば行く。海外から声かかった時も、ろくに考えず行ってただろ」
「ろくには余計じゃない?」
「実際そうだった」
黒瀬は少し笑ってから、パンを袋の上へ置いた。
「昔は、先に行きたかったんだと思う」
「先?」
「誰も行ったことのないところ」
「ああ」
「見たことのない場所があったら、自分で見たかった」
「それで世界三位まで行ったわけか」
「気づいたらね」
田所が腕を組む。
「今は?」
「今?」
「呼ばれた場所へ行けるんだぞ。全国のダンジョンに」
黒瀬は少し考えた。
「今は、帰ってくる場所がある方がいいかな」
田所がしばらく黒瀬を見る。
「変わったな」
「二十年も経てばね」
「まあな」
そこで休憩室の外から管制員の声が飛んだ。
「救助要請です!」
二人が立ち上がる。
「第四階層。男性一名、右手首を負傷。同行者一名です」
黒瀬が残ったパンを袋へ戻す。
「行ってくる」
「俺も出るか?」
そこへ白石が救助袋を持ってきた。
「黒瀬さん、準備できてます」
田所が二人を見る。
「なら任せる」
「うん」
「行ってきます」
黒瀬と白石は第四階層へ向かった。
◇
負傷した男性は、三十二歳の探索者だった。
探索中に足を滑らせ、とっさに右手をついたという。
「この辺です」
男性が右手首を見せる。
目立った出血はない。
ただ、すでに腫れ始めていた。
白石が男性の前へしゃがむ。
「指、動かせますか?」
「はい」
「しびれは?」
「少しだけあります」
「分かりました。手首は動かさないでください」
白石が固定の準備を始める。
黒瀬はその横で周囲を確認した。
「帰り道に梯子がありましたよね?」
男性の同行者が聞く。
「来る時に使いました」
白石が地図を開く。
「今日はそこを通りません」
「別の道があるんですか?」
「南側へ回ります。少し遠くなりますけど、梯子を使わずに第五階層まで戻れます」
「でも、かなり遠回りですよね」
「右手を使えない状態で梯子を降りるより安全です」
男性が頷いた。
「分かりました」
「黒瀬さん」
白石が呼ぶ。
「うん?」
「南側、今通れますか?」
黒瀬が《索敵》を広げる。
進行方向には小型の魔物がいくつかいるが、距離は十分にある。
「大丈夫」
「ありがとうございます」
白石はそれだけ確認すると、男性へ向き直った。
「固定できました。痛みが強くなったら教えてください」
「はい」
「では、ゆっくり戻りましょう」
四人で歩き始める。
◇
南側の迂回路は、通常の帰還路より距離がある。
その代わり大きな段差は少なく、足場も比較的安定している。
白石は負傷した男性の少し前を歩いた。
「この先、足元が濡れてます」
「はい」
「壁側を歩いてください」
男性が歩く位置を変える。
少し進むと分岐があった。
白石は地図を確認したあと、左へ進んだ。
黒瀬は何も言わない。
さらに先で、小型魔物の反応が近づいてきた。
「白石さん」
「はい」
「少し先に二体」
「どのくらいですか?」
「百メートルくらい。こっちには気づいてない」
白石が立ち止まり、地図を見る。
「だったら、この横道で少し待ちます」
「うん」
四人は広めの横道へ入った。
しばらくすると、魔物の反応が遠ざかっていく。
「もう大丈夫」
「ありがとうございます」
白石が再び歩き出す。
黒瀬はその後ろをついていった。
白石は一度も振り返らなかった。
以前なら、分岐へ来るたび黒瀬の顔を見ていた。
今は自分で地図を見て、自分で道を選んでいる。
黒瀬が教えたのは、魔物の位置だけだった。
◇
第五階層へ着く。
白石が治療担当へ状況を伝えた。
「右手首を負傷しています。転倒時に手をついたとのことです。指は動かせますが、軽いしびれがあります。現場で固定して、南側の迂回路から搬送しました」
「了解です」
男性が引き継がれる。
「ありがとうございました」
「お大事にしてください」
白石が頭を下げる。
男性と同行者が治療室へ入っていった。
黒瀬はその後ろ姿を見送る。
「黒瀬さん」
「うん?」
「何かありました?」
「何も」
「さっきから静かだったので」
「白石さんが全部決めてたから」
白石が黒瀬を見る。
「全部じゃないですよ。《索敵》は黒瀬さんに頼りました」
「それは俺の担当でいいでしょう」
「そうですけど」
黒瀬が少し笑う。
「ルート、俺に聞かなかったね」
白石は一瞬黙った。
それから自分でも気づいたように目を瞬いた。
「あ……」
「南側で正解だったと思うよ」
「はい」
白石が少しだけ嬉しそうに笑った。
「次も自分で考えます」
「うん」
それだけ話して、二人は管理所へ戻った。
◇
事務室へ戻ると、朝渡された書類が黒瀬の机に残っていた。
白石は向かいの席へ座り、さっそく救助記録を書き始める。
田所は管制員と何か話していた。
別の救助員が装備の点検をしている。
いつもと変わらない光景だった。
黒瀬は椅子に腰を下ろし、書類を手に取る。
他のダンジョンへ行けば、自分にしか見つけられない人がいるかもしれない。
富士北麓で三日間待っていた小野寺のことを思い出す。
一方で、目の前では白石が今日の救助記録を書いていた。
さっきの救助では、黒瀬の顔を見ずに自分で道を選んだ。
黒瀬がいなければ何もできない新人では、もうない。
それは嬉しいことのはずだった。
それでも、ここを離れることを簡単には決められない。
七年前の自分なら、たぶん迷わなかった。
呼ばれた場所へ行けばいい。
それだけだった。
今は、この場所を離れることにも理由がいる。
「……難しいな」
黒瀬は小さく呟いた。
書類を机へ戻す。
答えを出すまでには、もう少し時間が必要だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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