第38話 元妻です
富士北麓ダンジョンから戻った翌日。
午後の奥多摩第一ダンジョン救助管理所は、比較的落ち着いていた。
黒瀬慎吾は机に向かい、昨日の応援救助について報告書をまとめているところで、管制員から声が飛んだ。
「第六階層、救助要請です」
黒瀬と白石が同時に顔を上げる。
「負傷者は?」
「男性一名。右肩を負傷して、腕を動かせないとのことです。同行者が一名います」
「原因は?」
「段差を降りる際に足を滑らせ、右手をついたそうです。
意識ははっきりしていて、頭部の打撲などもないとのことです」
白石が立ち上がった。
「場所は?」
「第六階層北側、旧採掘路です」
黒瀬も救助袋を手に取る。
「行こうか」
「はい」
◇
第六階層。
救難信号が出された場所までは、それほど遠くなかった。
黒瀬と白石が旧採掘路へ入ると、《索敵》に二人分の反応が入る。
「もうすぐだね」
「二人とも動いてます?」
「一人は座ってる。もう一人はその近く」
角を二つ曲がった先。
壁際に五十代くらいの男性が座り込んでいた。
そのすぐ隣に、同年代と思われる女性がいる。
「救助員の黒瀬です」
「白石です」
女性が立ち上がった。
「お願いします」
「負傷したのはこちらの方?」
「はい」
男性が左手を上げる。
「松井和彦、五十六歳です」
「右肩?」
「はい。手をついた時にやったみたいで」
右腕は身体の前で動かさないようにしている。
黒瀬はしゃがみ込んだ。
「肩以外に痛いところは?」
「ありません」
「頭は打ってない?」
「打ってません」
「指は動かせる?」
松井がゆっくり右手の指を動かす。
「動きます」
「しびれは?」
「今のところないです」
「分かった。無理に腕を動かさないでね」
「はい」
黒瀬が白石へ目を向ける。
「固定して帰ろうか」
「分かりました」
白石が救助袋から必要なものを出し始める。
その時、松井の隣にいた女性が口を開いた。
「たぶん、昔と同じところです」
黒瀬が女性を見る。
「昔?」
「二十五年くらい前にも、この人、右肩を痛めてるんです」
「美奈子」
「何?」
「昔の話だろ」
「救助員の方には言っておいた方がいいでしょう」
「二十五年前だぞ」
「だから何?」
黒瀬は女性へ尋ねた。
「その時も肩が外れた?」
「はい。病院で脱臼だと言われました」
「なるほど」
松井が少し困ったような顔をする。
「よく覚えてるな」
「新婚旅行の直前だったから」
「ああ……」
松井が納得したように頷いた。
白石が二人を見比べる。
「奥様ですか?」
「「違います」」
二人がほぼ同時に答えた。
白石が瞬きをする。
「……失礼しました」
少し間を置いて、女性が言った。
「元妻です」
「美奈子、そこまで説明しなくても」
「聞かれたから答えただけ」
「聞かれたのは奥さんかどうかだろ」
「だから違うって答えたでしょう」
「そのあとの説明だよ」
「事実でしょう」
「まあ、そうだけど」
言い争っているようで、声はどちらも穏やかだった。
黒瀬は少し笑いながら松井の右腕を固定していく。
「離婚されてるんですね」
「五年前に」
美奈子が答えた。
「なのに今日は一緒に?」
「はい」
「たまに潜るんです」
今度は松井が答える。
美奈子が補足する。
「年に三、四回くらいですけど」
「離婚したあとも?」
白石が思わず聞く。
「何となく続いてます」
松井が言う。
「結婚していた頃から、ダンジョンだけは一緒に来てたので」
「他のことは続かなかったけどね」
美奈子が言った。
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「事実でしょう」
「今日はよく事実って言うな」
白石が小さく笑った。
「固定できました」
黒瀬が言う。
「少し楽?」
「だいぶ」
「歩けそう?」
「足は何ともないので」
「じゃあゆっくり戻ろう。ただ、段差はこっちで補助するね」
「お願いします」
松井が立ち上がる。
美奈子も自然にその左側へ回った。
◇
帰路はゆっくりだった。
松井は自分で歩ける。
黒瀬が前で安全を確認し、白石が負傷側につく。
美奈子は反対側を歩いていた。
「痛み、強くなってません?」
白石が聞く。
「大丈夫です」
「ならよかったです」
しばらく進んだところで、美奈子が言った。
「次の段差、この人、左足から降りた方がいいです」
松井が横を見る。
「何で覚えてるんだよ」
「右の膝も昔やったでしょう」
「それは三十年前だぞ」
「付き合ってた頃だから覚えてる」
「そんな昔のことまで」
「あなたが忘れすぎなのよ」
白石が松井を見る。
「右膝も悪いんですか?」
「悪いってほどじゃないです。ただ、たまに痛むくらいで」
「じゃあ念のため左足からいきましょう」
「はい」
松井は言われた通りに段差を降りた。
美奈子は何も言わない。
その後も、小さな段差や狭い場所に来るたび、彼女は必要な時だけ声をかけた。
「そこ、頭」
「分かってる」
「昔ぶつけたじゃない」
「あの一回だけだろ」
黒瀬が振り返る。
「ずいぶん詳しいね」
美奈子が少し考えてから答えた。
「二十年以上一緒にいましたから」
松井は何も言わなかった。
数歩進んでから、小さく呟く。
「俺は美奈子のこと、そんな覚えてないな」
「知ってる」
「即答だな」
「だから離婚したのよ」
美奈子が笑った。
松井も苦笑する。
白石が少し不思議そうな顔をした。
「喧嘩しないんですね」
二人が同時に白石を見る。
「今ですか?」
「はい。もっとこう……元ご夫婦なら、色々あるのかなって」
松井と美奈子が顔を見合わせる。
先に答えたのは美奈子だった。
「結婚してた頃は、いっぱいしましたよ」
「したな」
「最後の方なんて、同じ部屋にいるだけで腹が立ったもの」
「そこまで?」
「あなたもでしょう」
「まあ……」
「でも」
美奈子は前を向く。
「離婚したら、しなくなりました」
白石が首を傾げる。
「離婚したから?」
「たぶん」
松井が言った。
「相手に何かしてほしいって思わなくなったからじゃないかな」
美奈子が少し驚いたように松井を見る。
「珍しくまともなこと言うじゃない」
「俺だってそれくらい考えるよ」
「結婚してる時に考えてほしかったわね」
「……それは悪かった」
美奈子の足が一瞬止まる。
「今、謝った?」
「謝った」
「五年前に言えばよかったのに」
「今思ったんだから仕方ないだろ」
「本当に遅い」
そう言いながら、美奈子は少し笑っていた。
◇
第五階層まであと少しというところで、松井が足を止めた。
「ちょっと休んでもいいですか?」
「もちろん」
黒瀬たちは通路脇の広い場所へ移動した。
松井が腰を下ろす。
肩の痛みで身体に力が入っていたのか、額には薄く汗がにじんでいる。
「水、飲める?」
美奈子が聞いた。
「飲む」
美奈子は自分の鞄から水筒を出しかける。
そこで手を止めた。
「……あ」
「何?」
「これ、私のだった」
「別にいいだろ」
「嫌よ」
「今さら?」
「今さらでも嫌」
松井が自分の水筒を探そうとする。
片腕では取り出しにくい。
美奈子はため息をつくと、松井の鞄から水筒を取り出した。
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
松井が水を飲む。
白石がその様子を見ながら、黒瀬へ小声で聞いた。
「これ、仲悪いんですか?」
「俺に聞かれても」
「ですよね」
二人に聞こえたらしい。
「仲は悪くないです」
松井が答えた。
「よくもないわよ」
美奈子が言う。
「じゃあ何なんだよ」
「元夫婦」
「それは知ってる」
「それでいいでしょう」
松井が少し考えてから笑った。
「まあ、いいか」
「そうよ」
休憩を終え、再び歩き始めた。
◇
第五階層の退避所へ到着すると、治療担当が待っていた。
「右肩負傷。転倒時に右手をついています。過去に同じ肩の脱臼歴あり。指の運動と感覚は確認できています」
「了解です」
松井が引き継がれる。
「念のため地上の医療機関で診てもらいます」
「お願いします」
治療担当が美奈子を見る。
「ご家族の方も、こちらへお願いします」
「家族じゃありません」
美奈子が答えた。
「あ、失礼しました」
「元妻です」
松井が横から言った。
美奈子が振り返る。
「何であなたが言うのよ」
「さっきお前も言ってただろ」
治療担当が困ったように二人を見る。
「ええと……付き添いの方は?」
美奈子が松井を見る。
「いる?」
「どっちでもいい」
「そういう答えが一番困るのよ」
「じゃあ、お願い」
「最初からそう言えばいいでしょう」
美奈子は治療担当へ向き直った。
「付き添います」
「分かりました。では、こちらへ」
二人が退避所の奥へ向かう。
途中で松井が振り返った。
「黒瀬さん、白石さん」
「うん?」
「ありがとうございました」
「お大事に」
「ありがとうございます」
美奈子も軽く頭を下げる。
二人は並んで奥へ消えていった。
◇
「不思議ですね」
管理所へ戻る途中、白石が言った。
「何が?」
「あの二人です」
「元夫婦?」
「はい」
「そう?」
「だって、離婚してるのに今でも一緒にダンジョンに来て、怪我したら付き添って」
「うん」
「結婚してた頃より仲良さそうじゃないですか?」
「それは本人たちに聞かないと分からないね」
「黒瀬さんなら、どう思います?」
「俺?」
「はい」
黒瀬は少し考えた。
「別れたから、ちょうどいい距離になったんじゃない?」
「ちょうどいい距離……」
「近すぎると、見えなくなることもあるんじゃないかな」
白石が黒瀬を見る。
「なんか今日、いいこと言いますね」
「今日だけ?」
黒瀬は笑った。
第五階層の通路を歩きながら、《索敵》を広げる。
少し先。
さっきの二人の反応が、退避所から地上へ向かっていた。
夫婦ではなくなって五年。
それでも今日は、同じ方向へ帰っていく。
それがどんな関係なのか、黒瀬には分からない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
少しでも何かを感じて頂けたら評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




