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元日本最強の探索者、今はダンジョン救助員です ~平凡スキル《索敵》を極めたおじさん~  作者: アカメノコバチ


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第35話 もう少しだけ、ここにいてください

 第七階層。


「川村さん!」


 杉本直哉は、斜面の下へ向かって叫んだ。


「大丈夫ですか!」


「……大丈夫、大丈夫」


 少し遅れて声が返ってくる。


 杉本は岩壁に手をつきながら、慎重に斜面を下りた。


 三メートルほど下。


 川村正人が、岩の脇に座り込んでいる。


「どこ打ちました?」


「胸。あと脇腹かな」


「立てます?」


「たぶんな」


 川村は五十二歳。


 杉本が以前勤めていた部署の上司だった。


 いや。


 正確には、杉本は今もその会社で働いている。


 辞めたのは川村の方だ。


 三年前。


 突然会社を辞め、探索者になった。


 それから時々、こうして二人でダンジョンへ潜るようになった。


「手、貸します」


「悪い」


 杉本が腕を差し出す。


 川村がつかむ。


「よっ……」


 ゆっくり立ち上がった。


「平気ですか?」


「転んだだけだよ」


「結構転がってましたけど」


「見てたなら早く助けろよ」


「無茶言わないでください」


「はは」


 川村は笑った。


 その笑い声の途中で。


「っ……」


 脇腹を押さえる。


「痛い?」


「そりゃ痛いよ」


「戻りましょう」


「そうだな」


 二人は来た道へ戻り始めた。


 ゆっくり。


 一歩ずつ。


 最初の数分は、問題なかった。


「しかし恥ずかしいな」


 川村が言う。


「何がです?」


「二十年以上年下のお前の前で転ぶとは思わなかった」


「歳は関係ないでしょう」


「あるよ」


「ありませんよ」


「お前も五十過ぎれば分かる」


「まだ二十八です」


「すぐだよ」


「二十四年ありますけど」


「会社員やってると早いんだよ」


「川村さん会社辞めたじゃないですか」


「だから今は時間がゆっくりだ」


「勝手だなあ」


 杉本が笑う。


 川村も笑った。


 だが。


 その歩く速度が、少しずつ遅くなっていく。


「川村さん?」


「ん?」


「大丈夫ですか?」


「ああ」


 十歩。


 また十歩。


 川村が足を止めた。


「……ちょっと待って」


「座ります?」


「うん」


 岩壁に背中を預ける。


 呼吸が荒い。


 杉本が眉をひそめた。


「息、苦しいですか?」


「少し」


「さっきより?」


「……少しな」


 杉本は川村の顔を見ると、顔色が悪い。


「戻るの、やめましょう」


「何?」


「救助呼びます」


「大げさだって」


「大げさじゃないですよ」


「歩けるよ」


「じゃあ立ってみてください」


「嫌な言い方するな」


 川村が岩壁へ手をつく。


 立ち上がろうとする。


「……っ」


 途中で動きが止まった。


「ほら」


「腹立つなあ」


「怒る元気あるなら大丈夫そうですけど、呼びます」


 杉本は通信端末を取り出した。


「直哉」


「何です?」


「まだ大丈夫だ」


「知ってます」


「じゃあ」


「だから今呼ぶんですよ」


 杉本が救助要請を送信する。


「本当にまずくなってから呼んだら遅いでしょう」


 川村は少し黙った。


「……成長したな」


「誰のおかげだと思ってるんですか」


「俺?」


「自分で言います?」


「言うよ」


 杉本は通信へ応答する。


 ◇


「第七階層。二名」


 管制員が説明する。


「五十二歳男性。滑落後、胸部と脇腹に痛み。自力歩行を試みましたが、現在は呼吸苦があり、移動を中止しています」


 黒瀬慎吾は救助袋を背負った。


「意識は?」


「あります。会話も可能です」


「出血は?」


「目立った外傷はありません」


 白石ひなたが隣で装備を確認する。


「滑落した高さは?」


「三メートル程度。ただ、斜面を数メートル転がったそうです」


 白石が黒瀬を見る。


「見た目より重いかもしれませんね」


「うん」


 黒瀬も同じことを考えていた。


 転倒や滑落のあと。


 本人が動ける。


 出血もない。


 だから大丈夫だと思ってしまう。


 だが。


 胸や腹を強く打っている場合は、それだけでは判断できない。


「行こうか」


「はい」


 二人は第七階層へ向かった。


 ◇


「川村さん」


「ん?」


「寝ないでくださいよ」


「寝てない」


「目閉じてました」


「休んでただけ」


「同じようなものです」


「違うよ」


 川村は小さく笑う。


 だが。


 さっきまでより声が弱い。


 杉本は通信端末の時間を見る。


「もうすぐ来るって言ってました」


「そうか」


「はい」


「悪いな」


「何がです?」


「せっかくの休みだったのに」


「今さらそれ言います?」


「お前、明日仕事だろ」


「そうですけど」


「今日は早く帰ろうって言ってたのにな」


「川村さんが奥まで行きたいって言ったんでしょう」


「そうだった」


「本当に勝手ですよね」


「元上司に向かって言うな」


「元、でしょう」


 杉本が笑う。


 川村も笑おうとした。


 しかし途中で咳き込む。


「川村さん?」


「大丈夫」


「大丈夫って言うの禁止にします?」


「何でだよ」


「さっきから信用できないんで」


「ひどい部下だな」


「もう部下じゃありません」


「そうだったな」


 少し間が空く。


「でも」


 川村が言った。


「会社にいた頃より、今の方がよく話すな」


「そうですね」


「不思議だな」


「会社にいた頃、川村さんずっと忙しかったですから」


「お前もな」


「俺は川村さんに仕事押しつけられてただけです」


「人聞き悪いな」


「事実でしょう」


 二人がまた笑う。


 その時だった。


「見つけた」


 通路の奥から声がしたので、杉本が振り返る。


 二人の救助員が近づいてくる。


「救助員の黒瀬です」


「白石です」


「お願いします!」


 杉本がすぐに立ち上がる。


 黒瀬は川村の前へしゃがんだ。


「川村さん。聞こえる?」


「はい」


「黒瀬です」


「……ああ」


 川村が少し目を細める。


「元世界三位の?」


「そう呼ばれてたこともあるね」


「すごい人が来たな」


「今日は救助員だけどね」


 黒瀬が状態を見る。


「どこが一番痛い?」


「右の胸と、その下あたり」


「息を深く吸える?」


「ちょっときつい」


「気持ち悪さは?」


「少し」


「頭は打った?」


「たぶん打ってない」


 白石が脈を確認する。


 顔色。


 呼吸。


 身体の状態。


「黒瀬さん」


「うん」


 白石の表情だけで分かる。


 急いだ方がいい。


 黒瀬は杉本を見る。


「歩かせたのはどれくらい?」


「十分もないと思います」


「途中から急に?」


「はい。息が苦しいって」


「救助呼んでくれてよかったよ」


 杉本が少しだけ表情を緩める。


「本人は大げさだって言ってましたけど」


「直哉」


「事実でしょう」


 黒瀬が川村を見る。


「今日は担架で帰ろう」


「やっぱり?」


「うん」


「歩けませんか?」


「歩かない方がいい」


 川村が少し黙る。


「……分かりました」


 白石が担架を準備する。


 黒瀬と二人で慎重に川村を移した。


「痛かったらすぐ言ってね」


「はい」


「杉本さん」


「はい」


「隣を歩いてもらっていい?」


「もちろんです」


「じゃあ戻ろうか」


 ◇


 帰路。


 川村の呼吸は浅いままだった。


 最初は杉本と話していた。


 だが。


 だんだん口数が減っていく。


「川村さん」


「ん……」


「聞こえてます?」


「聞こえてる」


 杉本が担架の横を歩く。


「寝ないでくださいよ」


「だから寝てないって」


「目閉じてるでしょう」


「疲れたんだよ」


 杉本の表情が曇る。


 黒瀬は歩きながら川村の反応を確認していた。


 弱くなっている。


 すぐに危険というわけではない。


 だが。


 楽観できる状態でもない。


「黒瀬さん」


 川村が呼んだ。


「うん?」


「俺」


 息を整える。


「地上まで帰れますか?」


 杉本が顔を上げた。


「川村さん」


 黒瀬は歩く速度を変えない。


「帰るよ」


「……帰れます、じゃなくて?」


「うん」


 黒瀬は前を見る。


「帰るんだよ」


 川村が少し笑った。


「頼もしいな」


「仕事だからね」


「そういうものですか」


「そういうものだよ」


 ◇


 しばらく進んだところで。


「黒瀬さん」


 白石が声を落とす。


「うん」


「少し休みましょう」


 黒瀬も頷いた。


「そうだね」


 通路脇の安全な場所へ担架を下ろす。


 川村は目を閉じた。


 白石が状態を確認する。


 杉本は、その横に座った。


「川村さん」


「ん?」


「覚えてます?」


「何を」


「俺が会社辞めようとした時」


 川村がゆっくり目を開ける。


「ああ」


「覚えてるんですか?」


「覚えてるよ」


「俺、毎日辞表持ち歩いてましたよね」


「三回くらい見た」


「気づいてたんですか?」


「机からはみ出してたからな」


「言ってくださいよ」


「言ったら辞めると思って」


 杉本は少し笑った。


「俺、あの時本当に限界だったんですよ」


「知ってた」


「だから仕事減らしてくれたんですよね」


「減らしてない」


「え?」


「俺が勝手に持っていっただけ」


「同じじゃないですか」


「違うよ」


 川村が少しだけ笑う。


「上司だからな」


 杉本は黙った。


「あの時」


 杉本が言う。


「川村さんだけでしたよ」


「何が?」


「辞めるなって言わなかったの」


 川村の目が杉本を見る。


「みんな、『ここで辞めたらもったいない』って言ってました」


「うん」


「川村さんだけ」


 杉本は覚えている。


『辞めたいなら辞めてもいい』


 あの日。


 川村はそう言った。


『でも、今日決めなくてもいいだろ』


 そして。


 一週間だけ休みを取らせてくれた。


 杉本は会社を辞めなかった。


 結局。


 今も同じ会社にいる。


「川村さんが辞めろって言わなかったから、俺、残ったんです」


「俺、何もしてないけどな」


「そういうところですよ」


「何が?」


「自分が何かしたって絶対言わない」


 川村が笑った。


「それ、さっきの黒瀬さんみたいだな」


 杉本も黒瀬を見る。


 黒瀬は少し困った顔をする。


「俺?」


「似てますよ」


「そうかな」


「似てます」


 杉本がまた川村を見る。


「だから」


 声が少し震えた。


「もう少しだけ、ここにいてください」


 川村が黙る。


「何だよ、それ」


「そのままです」


「縁起でもないな」


「分かってますよ」


「じゃあ言うな」


「でも」


 杉本が唇を噛む。


「もう一回くらい、一緒に潜りたいんですよ」


 川村はしばらく何も言わなかった。


「……直哉」


「はい」


「会社」


「何です?」


「辞めなくてよかったな」


 杉本が目を見開く。


「今それ言います?」


「気になってた」


「遅いですよ」


「そうか?」


「三年前ですよ」


「三年くらい、すぐだって」


「またそれですか」


「五十過ぎると早いんだよ」


「俺まだ二十八です」


「知ってる」


 川村が小さく笑った。


 杉本も笑った。


 目元を拭きながら。


「じゃあ」


 黒瀬が立ち上がる。


「そろそろ行こうか」


「はい」


 白石も立つ。


 再び担架を持ち上げる。


 杉本も、その横を歩き始めた。


 ◇


 第五階層が近づく。


 川村はほとんど話さなくなっていた。


「川村さん」


 杉本が何度も呼ぶ。


「聞こえてます?」


「……聞こえてる」


「もう少しです」


「そうか」


「第五階層まで来たら、治療してもらえますから」


「うん」


「だから寝ないでください」


「分かったよ」


 黒瀬が《索敵》を広げる。


 前方。


 人間の反応。


 救助員。


 治療担当。


 迎えが来ている。


「杉本さん」


「はい」


「もう見えたよ」


「本当ですか?」


「うん」


 少し進む。


 通路の向こうから、数人が走ってくる。


「黒瀬さん!」


「重傷者一名。胸部と腹部を強く打ってる。呼吸も浅い」


「了解!」


 担架が引き継がれる。


「川村さん」


 杉本が追いかけようとする。


 治療担当が止める。


「ここからはこちらで対応します」


「でも」


「大丈夫です。地上まで搬送します」


 川村が薄く目を開けた。


「直哉」


「はい!」


「ちゃんと来いよ」


「行きますよ!」


「会社……」


「今、会社の心配しないでください!」


「明日……」


「休みます!」


「怒られるぞ」


「川村さんのせいにします!」


 川村が少し笑った。


「それならいいか」


 担架が運ばれていく。


 杉本は、その後ろをしばらく見ていた。


 ◇


 地上。


 川村はそのまま医療施設へ搬送された。


 詳しい状態については、救助管理所では分からない。


 ただ。


 生きて地上へ戻った。


 黒瀬と白石が管理所へ戻ろうとした時。


「黒瀬さん」


 杉本が声をかけた。


「うん?」


「ありがとうございました」


「まだ治療はこれからだよ」


「はい」


 杉本が地上へ続く出口を見る。


「でも」


 少し笑う。


「帰ってこられました」


「うん」


「二人で」


 黒瀬も頷いた。


「そうだね」


 杉本は頭を下げる。


「病院行ってきます」


「うん」


「たぶん、起きたらまた会社の心配すると思いますけど」


「元上司なのに?」


「ずっとそんな人なんです」


 杉本が笑った。


「じゃあ」


 走っていく。


 白石がその背中を見送った。


「間に合いましたね」


「うん」


 黒瀬は短く答えた。


 第七階層で。


 川村は最初、自分で歩いて帰ろうとしていた。


 杉本が止めた。


 救助を呼んだ。


 そして。


 二人とも地上へ戻った。


「黒瀬さん」


「何?」


「やっぱり、早く呼ぶのって大事ですね」


「そうだね」


「大丈夫だと思っても?」


「うん」


 黒瀬は管理所へ向かって歩き始めた。


「大丈夫だったら、それでいいからね」


「はい」


「帰れなくなってからじゃ、遅いこともあるし」


 白石もその隣を歩く。


「今日はちゃんと昼ご飯食べました?」


「食べたよ」


「本当に?」


「今日はちゃんと二個とも」


「ならよかったです」


 黒瀬が少し笑う。


 その後ろ。


 医療施設へ向かう車は、もう見えなくなっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

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