第3話 助けを呼ぶのも、技術だよ
配信者の瀬尾陸を救助してから数日後。
午前十一時六分。
「第七階層から救難信号です。要救助者は一名」
管制員の声に、黒瀬慎吾は点検していた牽引ロープから顔を上げた。
「戸塚浩二、五十二歳。B級探索者です。右脚を岩に挟まれ、自力で脱出できないと連絡がありました」
「意識は?」
「あります。ただ、先ほどから救助要請を取り消せと言っています」
「取り消せ?」
「端末へ間違って触れただけだと」
黒瀬は立ち上がった。
「一人で入ったの?」
「入場記録では単独です。探索歴は十五年。第七階層にも何度も入っています」
初心者だけが遭難するわけではない。
慣れた道でも、岩は落ちる。
昨日まで安全だった床が、今日は崩れる。
それがダンジョンだった。
「対応できる救助班は?」
「Bクラス班が別件の搬送中です。合流まで二時間ほどかかります」
第七階層は、Bクラス以上の救助員が担当する区域だ。
Sクラスの黒瀬なら単独で先行できるが、原則として、負傷者の搬送は後続班との合流後に行うことになっている。
「俺が先に状態を確認してくるよ」
「単独で搬送しないでくださいね」
「無理なら待つよ」
「本当に待てます?」
「たぶん」
「規則には『たぶん』はありません」
黒瀬は笑いながら救助用リュックを背負った。
「じゃあ、行ってくるよ」
◇
第七階層へ下りると、湿った土の匂いが濃くなった。
昨夜、小規模な階層変動が起きている。
通路の形はほとんど変わっていないが、壁や天井の岩が緩んでいる可能性があった。
「戸塚さん、聞こえますか」
『……聞こえる』
「救助員の黒瀬です。今、第七階層に入りました」
『黒瀬慎吾か』
「はい。迎えに行きますよ」
『来なくていい』
黒瀬は歩きながら通信を続けた。
「もう向かってます」
『岩は自分で外せる。救助記録を取り消してくれ』
「脚の感覚はあります?」
『ある』
「つま先は動かせますか」
返事が遅れた。
『……少しなら』
「挟まれてから、どのくらいです?」
『一時間だ』
「端末の記録では、三時間前から同じ場所にいます」
通信の向こうが静かになった。
『余計なことまで分かるんだな』
「救助員なので」
『とにかく来るな。俺はB級探索者だぞ』
「うん。だから、三時間も一人で耐えられたんでしょうね」
黒瀬は通信を切らず、そのまま進んだ。
救難信号の位置は、細い下り坂の先だった。
床には新しい亀裂が走り、壁際には崩れた岩が積み重なっている。
戸塚は、その奥にいた。
腰ほどの大きさの岩が、右脚の脛を押さえつけている。傷口の周囲には布が巻かれ、出血を抑えていた。
黒瀬を見ると、戸塚は顔をしかめた。
「来なくていいと言っただろう」
「でも、信号を送ってくれたからね」
「事故だ。端末を落とした拍子に押しただけだ」
「そういうことにしておきます」
黒瀬は戸塚の足先へ触れ、皮膚の色と感覚を確認した。
「触っているのは分かります?」
「ああ」
「こっちは?」
「……少し」
血流が悪くなり始めている。
これ以上待てば、脚を残せなくなる可能性があった。
黒瀬は岩の上へ視線を移した。
岩だけを持ち上げれば、上に積もった石が崩れる。力任せには動かせない。
「どうして、すぐに信号を送らなかったんです?」
「この程度で救助を呼べるか」
戸塚は吐き捨てるように言った。
「俺は十五年も探索者をやってる。若いやつらに場所を譲れと言われてクランを抜けたが、まだ一人でやれると証明したかった」
「誰に?」
「……。分からん…」
戸塚は岩壁へ顔を向けた。
「クランにいた頃は、俺を頼るやつがいた。辞めてからは誰も連絡してこない。
ここで救助されたと知られたら、今度こそ誰も俺を探索者として見なくなる」
「脚より大事?」
「俺には探索しかない」
黒瀬は戸塚の隣へ腰を下ろした。
「俺も昔、似たようなことを考えてました」
「日本最強だった男がか?」
「最強だったから、余計にね」
まだ行ける。
助けはいらない。
ここで戻ったら、期待を裏切る。
そう考えて、引き返すべき場所を通り過ぎたことがある。
「戸塚さん」
黒瀬は救難端末へ目を向けた。
「助けを呼ぶのも、探索の技術ですよ」
「慰めはいらない」
「慰めじゃないです。帰れなくなる前に、自分では無理だと判断する。
その判断ができないと、経験が長くても生き残れない」
「間違って押したと言っただろう」
「じゃあ、運がよかったんだね」
黒瀬が笑うと、戸塚は悔しそうに目をそらした。
「……三時間前から、何度も押そうとはした」
戸塚が小さく言った。
「でも、押したら終わる気がした。探索者としての俺が」
「それでも、最後には押せた」
「怖かったからだ」
「怖いと分かったのも、大事な判断ですよ」
黒瀬は立ち上がり、牽引ロープを岩へ回した。
壁の太い結晶を支点にして、小型の滑車を取り付ける。
岩にかかる力を、斜め上へ逃がすためだ。
「岩を完全には持ち上げません。二センチだけ浮かせます。
その間に脚を抜いてください」
「一人でできるのか」
「戸塚さんにも手伝ってもらいます」
「俺が?」
「まだ探索者なんでしょう?」
戸塚が黒瀬を見た。
「このロープを引いてください。痛くても、合図するまでは離さないで」
黒瀬は管制へ連絡を入れた。
「救助管理所、こちら黒瀬。血流低下を確認。後続班を待たずに挟圧を解除する」
『崩落の危険は?』
「ある。でも、このまま待つ方が危ない」
『了解しました。Bクラス班を急がせます』
黒瀬は岩の横へ身体を入れ、ロープを握った。
「三つ数えます。ひとつ、ふたつ――」
天井から小石が落ちた。
床の亀裂が、わずかに広がる。
「どうした」
「予定変更です。ゆっくりやる時間がなくなりました」
「崩れるのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「ダンジョンでは、よくあることです」
黒瀬はいつものように笑った。
「三つ数えたら一気に引きます。脚が抜けたら左へ転がって」
黒瀬はロープを握り直した。
「ひとつ。ふたつ。三つ!」
二人が同時に引く。
岩が、わずかに浮いた。
戸塚がうめきながら右脚を引き抜く。
「抜けた!」
「左へ!」
戸塚が転がった直後、天井が崩れた。
黒瀬は戸塚の襟をつかみ、壁際へ引き寄せる。
岩がすぐ横へ落ち、通路を塞いだ。
舞い上がった土煙の中で、二人はしばらく動けなかった。
「黒瀬」
「はい?」
「助かった」
「うん。よく頑張りましたね」
「子供扱いするな」
「生きてる人は、みんな褒めていいんですよ」
戸塚は何か言い返そうとして、力なく笑った。
十五分後、後続のBクラス救助班が到着した。
戸塚は担架へ乗せられ、地上へ運ばれた。
◇
右脚は残せる。
だが、損傷が大きく、以前のように深い階層へ潜れるかは分からない。
医療班から説明を受けた戸塚は、担架の上でしばらく黙っていた。
「もう潜れないなら、俺には何が残るんだろうな」
黒瀬はすぐには答えなかった。
「ゆっくり考えたらいいですよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、時間が必要なんです」
黒瀬は担架の横へ立った。
「何が残っているか考える時間を、今日は持って帰れたんだから」
戸塚は目を閉じた。
救急車へ運ばれる直前、小さな声で尋ねる。
「救助を呼んだのは、間違いじゃなかったか」
「もちろん」
「探索者として終わっても?」
「助けを呼んだから終わる探索者なら、戸塚さんは十五年も続いてませんよ」
戸塚はしばらく黒瀬を見たあと、わずかにうなずいた。
「そうか」
救急車が走り去ったあと、黒瀬は管理所へ戻った。
入口に、見慣れない若い女性が立っていた。
二十代前半だろう。
短く結んだ黒髪に、新品の救助服。
胸元には、研修救助員を示すDクラスのワッペンがついている。
足元には、大きな荷物が置かれていた。
彼女は黒瀬を見ると、深く頭を下げた。
「本日付で配属になりました、白石ひなたです」
「新人さん?」
「はい。以前は探索者をしていました」
白石は顔を上げた。
「黒瀬さんから、救助を学ぶように言われています」
「俺、教えるのはあまり得意じゃないよ」
「構いません。見て覚えます」
「それは危ないなあ」
黒瀬は白石の胸元にあるDクラスの印を見た。
「探索者なら、自分のことだけ見てても帰れる。
でも救助員は、後ろにいる人も見ないといけないからね」
白石の表情がわずかに引き締まった。
「覚えておきます」
「うん。まずは中に入ろうか」
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