第29話 今日は、間に合った
第七階層。
真壁修司は、岩壁に背中を預けて座っていた。
右手には剣。
左手には通信端末を握っている。
怪我はない。
少なくとも、歩けなくなるような怪我はしていなかった。
問題は、通路の向こうだった。
岩陰から、二つの大きな反応が見える。
さきほど戦った魔物とは別の群れだ。
この先を通らなければ、第五階層へ戻れない。
迂回路もある。
だが、その道を進むには一時間以上かかる。
水は残り少ない。
装備も、先ほどの戦闘でかなり傷んでいた。
何より、予備の照明を失っている。
「……さて」
真壁は通信端末を見る。
画面には、救助要請のボタンが表示されていた。
指を伸ばす。
止まる。
そのまま、しばらく動かなかった。
三年前。
同じように、この端末を握ったことがある。
あのときは、一人ではなかった。
『真壁、先に行け』
『馬鹿言うな! 一緒に帰るぞ!』
『いいから行け!』
頭の中に、あの声が残っている。
真壁は目を閉じた。
「……三年たっても、消えないもんだな」
通信端末を握る手に力が入る。
三年前。
救助は来た。
ただ、間に合わなかった。
真壁がもう一度相棒のところへ戻ったときには、すべて終わっていた。
救助員が悪かったわけではない。
そんなことは分かっている。
第七階層まで来るには時間がかかる。
あの日の状況では、誰が来ても間に合わなかっただろう。
それでも。
救助を呼ぶという行為そのものが、真壁には嫌になった。
期待するのが嫌だった。
待つのが嫌だった。
その結果が同じだったとき、もう一度耐えられる気がしなかった。
だから、それ以来ずっと一人で潜っている。
一人なら。
帰れなくなるのも、自分だけで済む。
真壁は通路の奥を見た。
魔物は、まだ動かない。
今なら戦えるかもしれない。
「……行くか」
剣を使って立ち上がる。
一歩。
二歩。
そこで足が止まった。
さきほどの戦闘で、魔力も体力もかなり使っている。
倒せる保証はない。
もし失敗したら。
今度は本当に帰れない。
真壁はしばらく立ったまま、通信端末を見つめた。
そして。
再び、その場へ座った。
「……救助をお願いします」
声に出してから、端末のボタンを押した。
◇
『こちら奥多摩第一ダンジョン救助管理所です』
「第七階層です。単独探索中です」
『負傷していますか?』
「いえ。大きな怪我はありません」
『現在地は分かりますか?』
「東区画、旧採掘路の手前です」
『自力で移動できますか?』
真壁は通路の先を見る。
「歩けます。ただ、帰還ルートに魔物がいます」
『種類と数は?』
「確認できるだけで二体。装備も一部壊れています」
通信の向こうで、管制員が情報を確認している。
『分かりました。その場で待機してください。救助員を向かわせます』
「……どれくらいかかりますか?」
一瞬、間があった。
『第五階層から救助員が向かっています。正確な到着時間は――』
「いえ」
真壁が遮った。
「大丈夫です」
『その場を動かないでください』
「分かりました」
通信を切る。
真壁は端末を膝の上へ置いた。
あとは、待つだけだった。
それが一番苦手だった。
◇
「真壁修司。四十一歳。B級探索者」
黒瀬慎吾は歩きながら通信端末の情報を確認した。
「第七階層を単独探索。怪我なし。帰還ルートを魔物二体に塞がれてる」
隣を歩く白石ひなたが尋ねる。
「怪我がなくても、救助を呼んだんですね」
「うん」
「かなり冷静な人ですね」
「そうだね」
黒瀬は画面を下へ動かす。
過去の救助記録が表示されていた。
そこで指が止まる。
「……三年前にも救助要請を出してる」
「同じ方ですか?」
「うん。ただ、そのときは二人」
白石が黒瀬を見る。
「もう一人は?」
黒瀬は少し黙った。
「亡くなってる」
白石の表情が変わった。
「第七階層で?」
「そうみたい」
黒瀬は端末を閉じた。
「急ごうか」
「はい」
◇
真壁は時計を見る。
救助要請を出してから、かなり時間がたっている。
魔物はまだ通路の向こうにいる。
ときどき低い鳴き声が聞こえる。
「……やっぱり、自分で行った方が早かったか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
剣へ手を伸ばす。
そのときだった。
「真壁さん」
通路の奥から声がした。
真壁が顔を上げる。
二つの人影が近づいてくる。
救助服。
男と、若い女性。
真壁は立ち上がった。
「救助員の黒瀬です。こっちは白石さん」
「……来たんですね」
真壁が言った。
黒瀬が少し首をかしげる。
「うん」
「思ったより、遅かったです」
白石の表情がわずかに動く。
しかし黒瀬は普通に答えた。
「ごめんね。第七階層だから、どうしても時間がかかるんだ」
「……そうですよね」
真壁は視線を逸らした。
「三年前も、そうでした」
黒瀬は黙って真壁を見る。
「三年前?」
「ここで相棒を失いました」
真壁は通路の奥を見た。
「救助を呼んだんです」
声は落ち着いていた。
怒っているわけでもない。
「俺だけ先に逃げて、助けを呼びました」
「うん」
「救助は来ました」
真壁は一度言葉を切った。
「でも、間に合わなかった」
白石が何も言えず、黒瀬を見る。
黒瀬はただ、
「そっか」
と答えた。
真壁が少しだけ笑う。
「それだけですか?」
「何て言えばいいか分からないからね」
「そうですか」
「うん」
黒瀬は真壁の装備を見る。
「今日は怪我してない?」
「ありません」
「気分は?」
「問題ないです」
「水は?」
「あと少し」
「じゃあ帰ろうか」
黒瀬は通路の奥へ《索敵》を広げた。
二体の魔物。
その向こうにも、小さな反応が一つ。
正面から進む必要はない。
「白石さん」
「はい」
「少し戻って、右の通路を使おう」
真壁が尋ねる。
「戦わないんですか?」
「戦わなくていいなら、その方が楽だからね」
「でも、右の通路は遠回りじゃ」
「途中から旧坑道につながってるよ」
「そんな道、地図には……」
「地図にはないね」
黒瀬が歩き出す。
「でも、通れるよ」
真壁は少し驚いた顔をしたあと、二人についていった。
◇
三人で暗い通路を進む。
先頭は黒瀬。
その後ろを真壁。
最後尾を白石が歩く。
しばらく進んだところで、黒瀬が手を上げた。
「止まって」
二人が足を止める。
前方の岩陰から、一体の魔物が姿を現した。
真壁が反射的に剣を抜く。
「俺がやります」
「今日はいいよ」
黒瀬が言った。
「でも、俺は怪我してません」
「うん」
「戦えます」
「分かってるよ」
黒瀬は真壁を見る。
「でも今日は、助けられる側をやってて」
真壁が動きを止める。
白石が前へ出た。
「私が行きます」
《身体強化》。
白石が地面を蹴る。
魔物が飛びかかる。
「右から来るよ」
黒瀬の声。
白石が半歩左へ。
魔物の攻撃をかわし、そのまま懐へ入る。
一撃。
魔物が地面へ倒れた。
白石が振り返る。
「通れます」
「ありがとう」
黒瀬が歩き出す。
真壁はしばらく倒れた魔物を見ていた。
「……誰かに守られるの、久しぶりだな」
小さな声だった。
黒瀬には聞こえていたが、何も言わなかった。
◇
第五階層へ向かう途中。
真壁が口を開いた。
「三年前から、ずっと一人で潜ってるんです」
「うん」
「誰かと組むのが嫌になって」
「どうして?」
「また連れて帰れなくなったら嫌だからです」
真壁は前を向いたまま歩く。
「俺一人なら、俺が死ぬだけで済む」
白石が後ろで少し顔を伏せた。
「だから今日も、一人で何とかするつもりでした」
「うん」
「救助を呼ぶつもりもなかった」
真壁が苦笑する。
「呼んでも、来るころには遅いって思ってたんです」
黒瀬は歩きながら聞いている。
「期待するのが嫌だった」
「そっか」
「でも、今日は呼んだ」
「うん」
「来ましたね」
真壁が黒瀬を見る。
黒瀬も真壁を見る。
「今日は間に合ったからね」
真壁が足を止めた。
黒瀬も止まる。
「……今日は?」
「うん」
黒瀬は少し考える。
「間に合わない日もあると思う」
真壁は黙っている。
「でも、間に合う日もあるよ」
黒瀬はそれだけ言って、再び歩き出した。
真壁はしばらくその背中を見ていた。
そして、ゆっくり後を追った。
◇
第五階層の退避所へ到着した。
「着いたよ」
黒瀬が言う。
真壁は地上へ続く通路を見る。
ここまで来れば、一人でも帰れる。
「ここからは、自分で帰れます」
「今日は最後まで送るよ」
「いや、本当に大丈夫です」
「さっきも一人で大丈夫だと思ってたでしょう?」
真壁が少し笑った。
「それを言われると、何も言えませんね」
白石も笑う。
三人で地上へ続く通路へ向かう。
数歩進んだところで、真壁が立ち止まった。
「黒瀬さん」
「うん?」
「三年前も」
真壁は少しだけ目を伏せた。
「あいつと、ここまで一緒に帰りたかったです」
黒瀬は何も言わなかった。
真壁は地上へ続く道を見る。
「でも今日は、一人じゃなかった」
黒瀬がうなずく。
「うん」
真壁は小さく息を吐いた。
「救助、呼んでよかったです」
「うん」
黒瀬は歩き出した。
「じゃあ、帰ろうか」
三人は並んで、地上へ向かった。
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