第22話 配信は切れていなかった(後編)
アーマーベアが地面を蹴った。
岩のような巨体が、黒瀬へ向かって突進する。
「避けてください!」
神谷が叫ぶ。
黒瀬は動かなかった。
アーマーベアの前脚。
神谷の剣が入った外皮の隙間から、わずかに血が流れている。
「神谷さん」
「何ですか!」
「あの前脚を斬ったの、神谷さんだよね」
「そうです。でも、浅くしか…」
「十分だよ」
アーマーベアが前脚を振り上げる。
黒瀬の頭上へ、巨大な爪が落ちた。
『避けろ!』
『潰される!』
『ナイフ一本じゃ無理だって!』
黒瀬は、前脚が落ちる直前に半歩だけ横へ動いた。
爪が地面を砕く。
黒瀬は外皮の隙間へ救助用ナイフを差し込んだ。
深く。
傷の奥へ滑らせる。
アーマーベアの前脚から力が抜けた。
巨体が大きく傾く。
「え……」
神谷が声を漏らした。
アーマーベアは倒れず、残った前脚で黒瀬を薙ぎ払おうとする。
黒瀬は振り下ろされる前から動いていた。
魔物の側面へ回り込む。
岩に覆われた頭。
その下にある、外皮の薄い喉元。
アーマーベアが黒瀬へ顔を向ける。
大きな口が開いた。
黒瀬は身体を沈め、顎の下へナイフを突き立てた。
刃を抜かず、そのまま横へ走らせる。
アーマーベアの身体が止まった。
巨体がゆっくりと前へ傾く。
黒瀬が一歩下がる。
次の瞬間、アーマーベアは大きな音を立てて倒れた。
通路に静けさが戻る。
『……は?』
『今、何した?』
『アーマーベアだぞ?』
『ナイフ一本で倒した』
『本当に黒瀬慎吾なのか』
『元世界三位、強すぎる』
神谷は、倒れたアーマーベアを見つめていた。
「一人で……」
「神谷さんの傷が残ってたからね」
黒瀬はナイフを抜きながら答えた。
「あれがなかったら、もう少しかかってたよ」
「俺の攻撃が……?」
「うん。ちゃんと効いてた」
黒瀬はアーマーベアの死体を振り返らなかった。
ナイフの血を拭い、すぐに沙耶のもとへ戻る。
「話はあとにしよう」
沙耶の首元へ指を当てる。
呼吸は浅い。
脈も弱くなっている。
腹部に重ねた布は、すでに赤く染まっていた。
「藤崎さんを先に動かすよ」
黒瀬は腰の救助袋を開いた。
「神谷さん。この布を強く押さえて」
「はい」
「早川さんは、藤崎さんの肩を支えて。身体を起こしすぎないように」
「分かりました」
「小松さんは、そのまま右腕を動かさないで」
小松がうなずく。
黒瀬は血に濡れた布の上から、新しい止血材を重ねた。
神谷へ押さえさせたまま、沙耶の腹へ固定帯を巻く。
「救助員さん」
早川が地面へ目を向けた。
倒れていた配信用カメラの小さなランプが点滅している。
「これ……まだ動いてます」
「配信も?」
「たぶん」
早川がカメラを拾い上げる。
画面には、血に濡れた仲間たちと、沙耶のそばにいる黒瀬の姿が映っていた。
流れるコメントの速さは、事故前とは比べものにならない。
『沙耶ちゃんは?』
『生きてる?』
『救助隊来てくれた』
『黒瀬さんありがとう』
『配信はもう切っていい』
早川はカメラへ顔を向けた。
「救助隊が到着しました」
声が震えている。
「沙耶も生きています。これから搬送します」
早川は一度、神谷たちを見る。
「ここから先は、救助の妨げになるので配信を終了します」
『よかった』
『救助優先で』
『四人とも帰ってきて』
『待ってる』
早川が配信を終了する。
カメラのランプが消えた。
「助けを呼んでくれたのは、見ていた人たちだよ」
黒瀬が言った。
「そうなんですか?」
「通報が何件も入ったみたいだね」
早川は消えた画面を見つめた。
「配信していて、よかったんでしょうか」
「今は、藤崎さんを助けることにつながった。それでいいんじゃないかな」
黒瀬は沙耶の身体を慎重に持ち上げた。
背負い帯を通し、自分の背中へ固定する。
沙耶の腹部を圧迫しないよう、少し高い位置で支えた。
「後続を待たなくていいんですか?」
神谷が尋ねる。
「ここにいる方が危ないね」
黒瀬は目を閉じ、《索敵》を広げた。
通路の奥。
アーマーベアの血の匂いに引かれ、別の魔物が動き始めている。
「近づいてくる魔物がいる。後続と合流しながら戻ろう」
神谷が剣を拾おうとする。
左脚に力が入らず、身体が傾いた。
早川がすぐに肩を貸す。
小松も落ちた盾へ手を伸ばした。
「盾は置いていこう」
黒瀬が言う。
「でも、これは……」
「高いもの?」
「はい」
「また取りに来られるよ」
小松は盾を見る。
ひしゃげてはいるが、修理できないほどではない。
それでも、右腕が動かない状態で持って帰るのは難しい。
黒瀬は沙耶を背負ったまま言った。
「今は四人で帰ろう」
小松は迷ったあと、盾から手を離した。
「……分かりました」
◇
黒瀬を先頭に、五人は通路を進んだ。
神谷は早川の肩を借りている。
小松は動かない右腕を押さえながら、その後ろを歩く。
黒瀬の背中で、沙耶は目を閉じたままだった。
「黒瀬さん」
神谷が呼びかける。
「うん?」
「俺たちは、撤退を決めたんです」
神谷は足元を見ながら続けた。
「爪痕を見つけて、予定していた魔物じゃないと分かった。
だから、すぐに戻ろうとしました」
「うん」
「それでも、こうなりました」
神谷の声には、悔しさがにじんでいた。
「俺の判断が遅かったんでしょうか」
黒瀬は歩く速度を落とさなかった。
「撤退を決めたから、三人がまだ動けてるんだと思うよ」
「でも、沙耶は……」
「事故を全部避けるのは難しい」
黒瀬が答える。
「危ないと思ったときに帰ろうとした。その判断は間違ってないよ」
「結果がこれでも?」
「正しい判断をしても、うまくいかないことはあるからね」
神谷は黙った。
「でも、帰ろうとしたから助けに行けた」
黒瀬は続ける。
「奥へ進んでたら、見つけるのがもっと遅くなってたよ」
神谷が顔を上げる。
「だから、帰ろうとしたことまで間違いにしなくていい」
「……はい」
黒瀬の前方に、複数の人間の反応が現れた。
「来たね」
通路の先から、足音が聞こえる。
「黒瀬!」
田所が現れた。
その後ろには治癒術師と搬送班。
白石と坂井もいる。
「状態は?」
田所が沙耶を見る。
「腹部からの出血。意識なし。脈も弱い」
「担架を!」
治癒術師が駆け寄る。
黒瀬は腰を落とし、沙耶を背中から下ろした。
担架へ寝かせると、治癒術師がすぐに腹部へ手を当てる。
淡い光が傷口を包んだ。
「出血が多いです。地上へ急ぎます」
「お願いします」
白石は神谷の反対側へ回り、身体を支えた。
「こちらへ体重をかけてください」
「大丈夫です。歩けます」
「大丈夫な人は、右足だけで歩きません」
神谷は自分の左脚を見る。
「……お願いします」
坂井は小松の右腕へ固定具を当てる。
「折れてる可能性があります。動かさないでください」
「盾を置いてきました」
「正解です。腕は替えられませんから」
田所は通路の奥へ目を向けた。
倒れたアーマーベアの巨体が見える。
「あれ、お前がやったのか?」
「通れなかったからね」
「また、そのナイフで?」
黒瀬は答えず、担架のそばへ歩いた。
「藤崎さんは?」
「まだ危険です」
治癒術師が答える。
「ここでできる処置には限界があります。すぐに地上へ運びます」
黒瀬はうなずいた。
「じゃあ、帰ろう」
◇
藤崎沙耶は地上へ戻ると、そのまま救護所の処置室へ運ばれた。
神谷たち三人も、それぞれ治療を受ける。
神谷の左脚は打撲と裂傷。
小松は右腕を骨折していた。
早川は身体の各所に傷があったが、大きな怪我はなかった。
処置を終えた神谷は、救護所の廊下にいた黒瀬を見つけた。
「黒瀬さん」
「脚は?」
「しばらく杖が必要だそうです。でも、大丈夫です」
「よかった」
神谷は深く頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「間に合ってよかったよ」
「あのナイフでは無理だと言って、すみませんでした」
黒瀬は少し笑った。
「救助員がナイフ一本でアーマーベアの前に立ったら、止めるのが普通だよ」
「でも、あなたは……」
神谷は言葉を探した。
「配信のコメントで見ました。本当に、元世界三位の黒瀬慎吾さんなんですか?」
「昔の話だよ」
「どうして、そんな人が救助員をしているんですか?」
黒瀬は処置室の扉を見る。
「助けに行けるからかな」
「探索者でも、人を助けられます」
「そうだね」
黒瀬はうなずく。
「でも今は、倒しに行くより、迎えに行く方が好きなんだ」
神谷は、しばらく黒瀬を見つめていた。
処置室の扉が開く。
職員が外へ出てきた。
「藤崎沙耶さんの処置を続けています」
神谷たち三人が立ち上がろうとする。
「出血は多いですが、傷口は安定し始めています。助かる可能性は十分にあります」
早川が壁へ手をついた。
小松も目を閉じる。
神谷は大きく息を吐いた。
「よかった……」
早川が黒瀬へ顔を向ける。
「俺たちだけでは、助けを呼べませんでした」
「うん」
「見ていた人たちが通報してくれたんですよね」
「そうみたいだね」
「配信をしていたから助かったなんて、少し複雑です」
黒瀬は答える。
「助けを呼ぶ方法は、一つじゃないよ」
早川はゆっくりとうなずいた。
◇
救助管理所へ戻ると、白石が端末を持って黒瀬のもとへ駆けてきた。
「黒瀬さん、大変です」
「藤崎さんの容体が変わった?」
「違います。外に記者が集まっています」
「どうして?」
白石が端末の画面を見せる。
そこには、アーマーベアの前へ立つ黒瀬の姿が映っていた。
配信映像の切り抜きだった。
『元世界三位・黒瀬慎吾、生存確認』
『日本最強だった男は、現在ダンジョン救助員』
『救助用ナイフ一本でアーマーベアを撃破』
別の動画には、黒瀬の声が残っている。
『四人とも連れて帰るよ』
再生回数は、今も増え続けていた。
「配信に全部映っていたみたいです」
「そうなんだ」
「外にはテレビ局も来ています」
黒瀬は画面を一度見ただけで、端末から目を離した。
「藤崎さんの処置は?」
「まだ続いています」
「じゃあ、そっちが終わるまで待とうか」
「記者はどうしますか?」
「田所にお願いしよう」
「黒瀬!」
少し離れた場所から、田所の声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
◇
それから一時間後。
外の記者への対応を終えた田所が、救助管理所へ戻ってきた。
「黒瀬」
「うん?」
「藤崎さん、助かるそうだ」
黒瀬の表情が、わずかに緩んだ。
救助管理所の外からは、今も記者たちの声が聞こえている。
黒瀬はそちらを見なかった。
「四人とも帰れたんだね」
「ああ」
黒瀬は小さくうなずいた。
「なら、よかった」
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