第21話 配信は切れていなかった(前編)
午後二時二十六分。
奥多摩第一ダンジョン、第十二階層。
「この先は、音の聞こえ方が少し変わります」
神谷蓮が立ち止まり、後ろを歩く沙耶へ振り返った。
その姿を、藤崎沙耶の胸元に取りつけられた小型カメラが正面から捉える。
「壁が硬いから、足音が何度も反響するんです。遠くにいる魔物が近く感じることもあります」
「逆もありますけどね」
後ろから藤崎沙耶が付け加えた。
「すぐ近くにいるのに、音だけ遠くから聞こえることもあります」
配信画面の横を、視聴者のコメントが流れていく。
『怖いこと言うなよ』
『十二階層こわ』
『今日は何を狙うの?』
『沙耶ちゃん今日もかわいい』
沙耶が自分の肩にかけた弓を軽く持ち上げる。
「今日の目標は《鉄爪トカゲ》です。爪が装備の素材になるので、できれば一体は持って帰りたいですね」
「無理はしません」
神谷がすぐに続けた。
「見つからなければ、そのまま帰ります」
『無理しないの大事』
『こういうところが好き』
『命あっての素材だからな』
神谷たち四人組の探索者パーティー《ブルーゲイル》は、探索配信を始めて三年になる。
派手な戦闘だけを見せる配信者ではない。
階層ごとの注意点や魔物の特徴を丁寧に説明し、危険を感じれば迷わず引き返す。
その姿勢が、探索者を目指す若者や初心者から支持されていた。
先頭を歩くのは、斥候役の早川陸。
その後ろを盾役の小松直樹、剣を携えた神谷、弓を持つ沙耶が続く。
早川が不意に右手を上げた。
「止まってください」
四人の足が止まる。
「どうした?」
神谷が声を落とす。
早川は通路の壁へ近づいた。
黒い岩肌に、深い傷が三本刻まれている。
「この爪痕……《鉄爪トカゲ》じゃないです」
小松も傷の前へ立つ。
「大きすぎるな」
爪痕は、小松の手のひらよりも幅があった。
岩の表面だけではない。
傷は指が入るほど深く削られている。
沙耶が周囲を見回した。
「そういえば、静かすぎませんか?」
それまで遠くから聞こえていた小型魔物の鳴き声が、いつの間にか消えていた。
羽音もない。
岩の隙間を走る小さな足音も聞こえない。
神谷が剣の柄に手を置く。
「早川。近くに反応は?」
「ありません」
「見つからないんじゃなくて?」
「分かりません。ただ、嫌な感じがします」
神谷は迷わなかった。
「今日は中止だ。来た道を戻る」
誰も反対しなかった。
コメント欄にも、安堵するような言葉が流れる。
『撤退判断早い』
『これがプロ』
『生きて帰るまでが探索』
『後ろ、何か動かなかった?』
『え?』
『画面の右奥』
神谷たちは、そのコメントに気づかなかった。
低い音が通路の奥から響いた。
岩が擦れるような音だった。
早川が振り返る。
「何か来ます!」
直後、通路の右側の岩壁が弾けた。
「散れ!」
神谷の声と同時に、四人が左右へ飛ぶ。
砕けた岩の奥から、巨大な魔物が姿を現した。
四本の脚。
岩の塊のような胴体。
頭から背中までを覆う、灰黒色の硬い外皮。
熊に似た魔物が、前脚を地面へ叩きつける。
床が揺れた。
「アーマーベア……!」
小松が盾を構える。
本来なら、第十二階層のさらに奥に縄張りを持つ魔物だった。
この場所へ現れることなど、ほとんどない。
「小松、前!」
「はい!」
「沙耶は目を狙え! 早川は退路を確認!」
小松が盾を前へ出した。
アーマーベアが地面を蹴る。
巨大な身体が、岩を弾き飛ばしながら突進してきた。
「ぐっ……!」
小松が両足を踏ん張る。
盾とアーマーベアの頭がぶつかった。
金属がひしゃげる音が響く。
小松の身体が、盾ごと後ろへ押し戻された。
沙耶が矢を放つ。
矢は魔物の右目へ向かう。
しかし、アーマーベアは頭を下げた。
瞼を覆う岩の外皮に矢が当たり、乾いた音を立てて弾かれる。
「硬すぎる!」
神谷が魔物の側面へ回った。
剣を両手で握り、前脚の付け根へ斬りつける。
刃は外皮の隙間へ入った。
だが、浅い。
アーマーベアが身体を大きく振る。
弾かれた神谷の左脚へ、砕けた岩がぶつかった。
「ぐっ……!」
神谷が片膝をつく。
「小松!」
小松が盾で受ける。
今度は耐えきれなかった。
大きな身体が宙へ浮き、岩壁へ叩きつけられる。
「小松さん!」
沙耶が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
小松が叫んだ。
アーマーベアの顔が、沙耶へ向いていた。
魔物が前脚を振り上げる。
「沙耶!」
神谷が走る。
間に合わない。
沙耶は弓を前へ出した。
直後、前脚が弓ごと沙耶の身体を薙ぎ払った。
沙耶の身体が岩壁へ叩きつけられる。
胸元の配信用カメラが外れ、地面を転がった。
映像が激しく回転する。
やがて、横向きのまま止まった。
画面に映っているのは、砕けた岩と、倒れた沙耶の足だけだった。
『沙耶ちゃん!』
『やばい』
『誰か救助呼んで』
『配信切れ』
『切れてない!』
映像は切れていなかった。
神谷が沙耶のもとへ駆け寄る。
「沙耶! 聞こえるか!」
返事はない。
早川も駆け寄り、沙耶の首元へ手を当てる。
「息はあります!」
「腹から血が出てる。布を出せ!」
「はい!」
小松が岩壁に手をつきながら立ち上がる。
右腕が不自然に垂れていた。
「神谷さん……あいつは?」
アーマーベアは、少し離れた通路の奥にいた。
神谷の剣が入った前脚をかばっている。
完全に倒せたわけではない。
傷つき、興奮している。
早川が通信端末を取り出した。
「救難信号を送ります」
画面を操作する。
反応がない。
「どうした?」
「端末が……」
早川が端末を裏返す。
本体には大きな亀裂が入り、角が欠けていた。
「壊れてます」
「予備は?」
「配信機材のケースに入ってます。でも、さっきの衝撃で――」
早川が周囲を見回す。
機材ケースは見当たらない。
配信用カメラは、第十二階層の中継器へ映像を送るだけの機材だ。
地上からの声を受け取ることはできない。
そして四人は、そのカメラが今も動いていることに気づいていなかった。
『通報した』
『俺も救助管理所に電話した』
『奥多摩第一ダンジョンの十二階層』
『場所分かるのか?』
『早くしてくれ』
神谷は沙耶の腹へ布を押し当てた。
「早川。通路を戻って、通信できる場所を探せ」
「でも、ここを離れたら」
「全員で残って救助を呼べなければ、同じだ」
早川が奥歯をかみ締める。
通路の奥から、低い唸り声が聞こえた。
アーマーベアが、まだこちらを見ている。
小松が左手だけで盾を持ち上げた。
「戻ってきます」
神谷は沙耶から手を離さなかった。
「来たら、俺たちで離す」
「二人とも怪我してるんですよ」
「だからって、沙耶を置いていけないだろ」
◇
同時刻。
救助管理所の電話が、立て続けに鳴っていた。
「第十二階層の探索配信で事故です!」
「同じ件の通報が十件以上入っています!」
「配信会社から映像提供の連絡が来ました!」
管制員が大型画面へ映像を映す。
横向きの画面。
倒れた女性の足。
画面の奥には、血のついた岩が見える。
黒瀬慎吾、田所修平、坂井、白石ひなたも画面の前へ集まった。
「入場者を確認しました」
管制員が記録を読み上げる。
「パーティー名ブルーゲイル。神谷蓮、藤崎沙耶、小松直樹、早川陸の四名です。
全員、第十二階層への入場資格を所持しています」
「現在地は?」
田所が尋ねる。
「特定できません。事故の直後から、探索者用端末の位置情報が途絶えています」
「最後に確認できた場所は?」
「第十二階層の中央区画です。ただ、そこから先の映像に案内表示がありません」
大型画面から、神谷たちの声が聞こえる。
『沙耶、目を開けろ』
『止血できてますか?』
『分からない。布を重ねろ』
血は、少しずつ画面の端へ広がっていた。
黒瀬が画面の前へ近づく。
倒れたカメラの向こう。
壁の一部に、白い筋が走っている。
「南側だね」
管制員が振り返った。
「分かるんですか?」
「第十二階層で、白い鉱脈が横向きに出ているのは南側だけだよ」
黒瀬は画面の中の地面を見る。
わずかに右へ傾いている。
「通路が下ってる。南側の中でも、低い方だね」
壁の形。
天井から下がる細い岩。
神谷たちが通ってきた映像。
黒瀬は第十二階層の地図へ目を落とした。
指先を一点に置く。
「この辺りだと思う」
管制員が過去の映像と地図を照合する。
「南第三区画……一致します」
責任者がすぐに指示を出す。
「第十二階層へ入れる救助員を招集! 治癒術師と搬送班も準備させろ!」
「はい!」
田所が装備棚へ向かう。
「黒瀬、行くぞ」
「うん」
白石も救助用の上着を手に取った。
「私も行きます」
責任者が白石を見る。
「白石さんは後続の搬送班へ。第十二階層へ入る先行班は黒瀬さんと田所さんです」
「分かりました」
白石は悔しそうな顔を見せず、すぐにうなずいた。
坂井が担架と救護用品を確認する。
「俺たちは第五階層で後続と合流します」
大型画面から、低い音が聞こえた。
アーマーベアの唸り声だった。
画面には姿が映らない。
それでも、少しずつ近づいていることだけは分かる。
『神谷さん』
『分かってる』
『次は止められません』
『ああ。沙耶から離せればいい』
黒瀬は、画面に広がる血を見た。
「急いだ方がいいね」
責任者が答える。
「先行班の準備完了まで三分です」
黒瀬は救助用ナイフを腰へ差した。
「途中までは、一緒に行くよ」
田所が手を止める。
「途中まで?」
「近くまで行ったら、俺だけ先に行く」
「単独先行は禁止だ」
「二人で進むより、一人の方が早いよ」
「分かってる。だが危険だぞ」
田所は黒瀬の目を見る。
大型画面から、神谷の声が響く。
『沙耶。聞こえるか』
返事はなかった。
黒瀬は画面から目を離さない。
「待ってたら、間に合わないかもしれない」
田所が短く息を吐いた。
「絶対に一人で全部やろうとするなよ」
「救助だからね」
黒瀬は少しだけ笑った。
◇
第十一階層。
黒瀬と田所は、後続班よりも先に下層へ向かっていた。
休まず走り続ける。
第十二階層へ続く下り道の前で、黒瀬が《索敵》を広げた。
厚い岩壁の向こう。
移動する魔物。
通路の隅に潜む小さな反応。
さらに、その先。
第十二階層にいる四人の人間。
「捉えた?」
田所が尋ねる。
「四人いる」
「状態は?」
「三人は動いてる」
黒瀬の表情がわずかに変わる。
「一人、かなり弱い」
「まだ持つか?」
「分からない」
二人は第十二階層へ入る。
黒瀬は走りながら、周囲の魔物の位置を確認する。
避けられるものは避ける。
近づいてくる反応だけを、田所が短く退ける。
黒瀬が足を止める。
「ここから先は一人で行くよ」
「俺も行く」
「田所が一緒だと、後続が迷うよ」
「地図はある」
「今は最短の道が塞がってる。搬送路を確保してきて」
田所が顔をしかめる。
黒瀬が《索敵》で捉えた情報を伝える。
「東側の通路に魔物が三体いる。後続が通れるように、搬送路を確保してほしい」
「それを言われたら、行くしかないだろ」
「頼んだよ」
「黒瀬」
田所が背中へ声をかける。
「無茶するな」
黒瀬は振り返らなかった。
「迎えに行ってくる」
黒瀬はそのまま駆けていった。
◇
アーマーベアの足音が、再び近づいていた。
神谷は左脚を引きずりながら立ち上がる。
小松も、動かない右腕を身体へ押しつけ、左手だけで盾を構えた。
早川が短剣を抜く。
「神谷さん」
「沙耶から離すぞ」
「倒せますか?」
「倒さなくていい」
神谷は剣を握り直した。
「俺たちが逃げる方向とは逆へ向ける」
通路の奥から、アーマーベアが姿を現す。
前脚から血を流している。
神谷たちを見つけると、低く唸った。
配信画面のコメントが激しく流れる。
『逃げて』
『もう無理だろ』
『救助隊まだなのか』
『一人くらい先に来られないの?』
『誰か来た?』
倒れたカメラの端に、黒い靴が映った。
救助服を着た男性が、神谷たちの前へ現れる。
黒瀬だった。
「救助管理所です」
神谷が目を見開く。
「一人ですか?」
「後ろから来てるよ」
黒瀬はアーマーベアへ背を向けたまま、沙耶のそばへしゃがむ。
首元へ指を当てる。
呼吸を確認し、腹部の布を少し持ち上げた。
「藤崎さん。聞こえる?」
沙耶は動かない。
黒瀬が布を押さえ直す。
「救助員さん」
神谷が叫ぶ。
「あいつが戻ってきます。彼女だけ連れて逃げてください」
黒瀬は沙耶から手を離さない。
「四人とも連れて帰るよ」
「でも、俺たちは動けます。沙耶を先に――」
「うん。藤崎さんが最優先だね」
黒瀬が立ち上がる。
「でも、置いてはいかないよ」
アーマーベアが前脚を踏み出した。
地面が揺れる。
神谷が黒瀬の腰を見る。
そこにあるのは、大型の剣でも槍でもない。
一本の救助用ナイフだけだった。
「そのナイフじゃ無理です!」
黒瀬は腰からナイフを抜く。
配信画面のコメント欄に、一つの言葉が流れた。
『待って』
続けて、別のコメントが流れる。
『この救助員、黒瀬慎吾じゃないか?』
『誰?』
『嘘だろ』
『黒瀬慎吾って、元世界三位の?』
黒瀬は、迫ってくるアーマーベアの前へ立った。
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