第20話 迷子は二人
午後五時十二分。
奥多摩第一ダンジョン、救助管理所。
『妻とはぐれました』
貸出端末から聞こえた男性の声に、管制員が背筋を伸ばした。
「落ち着いてください。お名前をお願いします」
『水野隆司、四十八歳です。妻と二人で第三階層を見学していました』
「奥様のお名前は?」
『水野美和。四十六歳です』
管制員が端末の貸出記録を確認する。
水野夫妻は午後二時過ぎに入場していた。
「最後に奥様を見た場所は分かりますか?」
『出口へ向かう途中の分岐です。妻が勝手に先へ行ってしまって』
「どちらの道へ進みましたか?」
『左です』
「水野さんは?」
『私は右へ進みました』
管制員の手が止まった。
「別々の道へ進んだんですか?」
『そういうつもりではありませんでした。
妻が間違っていると思ったので、少し進めば戻ってくるだろうと』
「奥様の服装を教えてください」
『白い上着に、紺色のズボンです。身長は百五十八くらい』
隆司は間を置かずに続ける。
『左足首を昔痛めています。歩くとき、少しだけ左足が外へ向きます』
「ほかに、気をつけることはありますか?」
『暗い場所が苦手です』
男性の声が少し低くなる。
『本人は平気な顔をすると思います。でも、後ろから急に声をかけないでください。
驚くと、その場で動けなくなるので』
近くで通信を聞いていた黒瀬慎吾が、管制卓へ目を向けた。
妻とはぐれたというより、妻の取扱説明を聞いているようだった。
「現在地は分かりますか?」
『大きな白い岩の近くです』
「周囲に案内表示はありますか?」
『見当たりません』
「通路の番号は?」
『そこまでは確認していません。ただ、私は道を把握しています』
「分かりました。こちらから救助員を向かわせます。その場を動かないでください」
『妻が私を捜しているかもしれません』
「動くと、さらにすれ違う可能性があります」
『しかし――』
「その場で待っていてください」
管制員が強い口調で告げると、隆司は渋々返事をした。
『……分かりました』
通信が切れる。
管制員が黒瀬を見る。
「第三階層です。位置はまだ絞り込めません」
「大きな白い岩だけじゃ、難しいね」
第三階層には、同じような色と形の岩がいくつもある。
黒瀬が出動の準備を始めた、そのときだった。
別の回線が点灯する。
「第三階層の非常通信機からです」
管制員が回線をつなぐ。
「こちら救助管理所です」
『夫がいなくなったんです』
今度は女性の声だった。
「お名前をお願いします」
『水野美和、四十六歳です』
管制員と黒瀬が顔を見合わせる。
「ご主人のお名前は、水野隆司さんですか?」
『そうです。夫から連絡があったんですか?』
「はい。先ほど、奥様とはぐれたと」
『はぐれたんじゃありません。迷子になったのは夫です』
女性は迷いなく言い切った。
「ご主人の服装を教えてください」
『灰色の上着に黒いズボンです。背は百七十七くらい』
美和もすぐに続ける。
『右膝に古傷があります。痛くても絶対に言いません。
見つけたら、まず座らせてください』
「ほかに注意することはありますか?」
『平気だと言っても信用しないでください。歩き方を見れば分かります。
右足を引きずっていたら、かなり痛いはずです』
「奥様の現在地は分かりますか?」
『同じくらいの大きさの岩が、三つ並んでいる場所です』
「案内表示はありますか?」
『ありません』
「奥様も道に迷っている可能性は――」
『私は迷っていません』
先ほどの夫と同じ言葉だった。
『夫が勝手にいなくなったんです』
「貸出端末はお持ちですか?」
『夫が持っています』
「個人の携帯電話は?」
『圏外です。だから、この非常通信機から連絡しています』
「分かりました。こちらから救助員を向かわせます。非常通信機の前から動かないでください」
『でも、夫の膝が――』
「すでにご主人とも連絡が取れています。動かないでください」
『……分かりました』
回線が切れる。
管制員が小さく息を吐いた。
「どちらも、自分は迷っていないそうです」
黒瀬は救助用の装備を持ち上げた。
「迷子が二人いるみたいだね」
◇
黒瀬と白石ひなたは、第三階層へ向かっていた。
第三階層は一般見学客も入れる比較的安全な区域だ。
ただし、通路がいくつも枝分かれしており、似たような岩場が多い。
案内表示を見落とせば、同じ場所を何度も歩くことになる。
「どうして別々の道へ進んだんでしょう」
白石が尋ねた。
「出口の方向で意見が分かれたみたいだよ」
管制員が二人から聞いた話では、隆司は分岐を右だと主張した。
美和は、その道は一度通ったと反対した。
隆司は地図を広げ、
「右で合っている」
と譲らなかった。
美和は地図をのぞき込み、
「それ、向きが反対じゃない?」
と言った。
隆司は、
「反対ではない。進行方向に合わせている」
と答えたらしい。
「どちらが正しかったんですか?」
「奥さんの方だね」
「やっぱり地図が反対だったんですか?」
「進行方向には合ってたみたいだよ。出口とは反対だったけど」
白石は一度うなずいた。
「それは、反対なのでは?」
「たぶんね」
◇
口論の途中、美和は隆司が右膝をかばっていることにも気づいた。
「膝が痛いなら、そう言えばいいでしょう」
そう言われた隆司は、
「痛くない」
と否定した。
美和は腹を立て、
「それなら勝手に歩けば」
と言って先へ進んだ。
隆司も少し遅れて後を追った。
ところが、通路の途中で隆司は美和のストールが落ちていることに気づいた。
来た道を戻り、ストールを拾う。
一方、美和は夫が後ろにいないことに気づき、膝を痛めて動けなくなったと思って引き返した。
二人は中央の岩場を挟んだ別々の通路を進み、そのまますれ違った。
◇
第三階層へ入る。
一般開放終了が近いため、出口へ向かう見学客が何組か通り過ぎていった。
黒瀬は人の流れが途切れたところで足を止める。
目を閉じ、《索敵》を広げた。
遠ざかっていく見学客たち。
管理員の反応。
岩陰で動く小さな魔物。
そして、中央の岩場を挟んだ二つの人間の反応。
一人は北側。
もう一人は南側。
互いの距離は、それほど離れていない。
だが、大きな岩壁が間にあるため、姿も声も届かない。
「二人とも無事だよ」
黒瀬が言った。
白石が安堵したように息を吐く。
「分かれて迎えに行いますか?」
「うん。白石さんは奥さんをお願い」
「黒瀬さんは旦那さんですね」
「中央の岩場で合流しよう」
二人は別々の道へ進んだ。
◇
白石は、通路脇の非常通信機のそばで立っている女性を見つけた。
「水野美和さんですね」
声をかけると、美和はすぐに振り返った。
「夫は見つかりましたか?」
「他の救助員が向かっています」
「膝を痛めていませんでした?」
「まだ確認できていません」
美和は通路の奥へ目を向けた。
「あの人、痛いときほど平気な顔をするんです」
「心配なんですね」
白石が言うと、美和はすぐに顔を戻した。
「心配というより、倒れられたら困るだけです」
「そうですか」
「そうです」
美和は強くうなずいた。
「あの人は昔から、人の話を聞かないんです。道を間違えても認めないし、疲れていても休もうとしないし」
「はい」
「右膝が痛いと、歩幅が少し狭くなります。それでも我慢すると、今度は右足の爪先が外へ向くんです」
「よく見ていますね」
美和の口が止まった。
「二十年以上一緒にいますから」
「はい」
「嫌でも分かるだけです」
そう言いながら、美和は何度も通路の奥を見ていた。
「救助員と合流出来たら、もう大丈夫です」
白石が言う。
「そうですか」
「はい」
「なら、早く戻りましょう。あの人を一人にしておくと、また勝手に歩きますから」
◇
黒瀬は、低い岩へ腰かけている男性を見つけた。
「水野隆司さん?」
声をかけると、隆司はすぐに立ち上がろうとした。
右膝に力が入らず、身体がわずかに傾く。
「座ったままでいいよ」
「妻は?」
「別の救助員が迎えに行ってる」
「怪我はしていませんか?」
「今のところ、そういう連絡はないよ」
隆司は、目に見えて肩の力を抜いた。
「そうですか」
その右手には、薄い色のストールが握られていた。
黒瀬がそれを見る。
「奥さんの?」
「通路に落ちていました」
「それを拾いに戻ったの?」
「地上へ出る頃には冷えますから」
「奥さんに言ってから戻ればよかったんじゃない?」
隆司は少し黙った。
「言えば、自分で取りに戻ると言います」
「そうかもね」
「せっかちなんです。こちらが話している途中で歩き始めるし、大丈夫だと言っているのに、すぐ膝のことを言う」
「今も痛いんでしょう?」
「少しだけです」
「奥さんも、そう言うと思ってたんじゃないかな?」
隆司が黒瀬を見る。
「妻から聞いたんですか?」
「右足の爪先が外へ向いてたら、かなり痛いって」
隆司は自分の右足を見下ろした。
しっかり外へ向いていた。
「大げさなんです」
黒瀬が手を差し出す。
「立てそう?」
「問題ありません」
「平気だと言っても信用しないように言われてるんだけど」
「余計なことを……」
隆司はそう言いながら、黒瀬の手を借りて立ち上がった。
数歩進んだところで、隆司が尋ねる。
「妻がいる方の道は、明るいですか?」
「白石さんが迎えに行ってるから大丈夫だよ」
「戻るなら、照明の多い通路を使ってください」
「暗い場所が苦手だから?」
「足元が見えにくいと、左足首に負担がかかるので」
「うん」
「事実です」
隆司は真面目な顔で言った。
◇
中央の岩場で、黒瀬と隆司は足を止めた。
反対側の通路から、白石と美和が現れる。
互いの姿を確認した瞬間、隆司と美和は同時に歩く速度を上げた。
「どうして勝手に戻ったの!」
先に声を上げたのは美和だった。
「そっちこそ、どうしてその場で待っていなかったんだ」
「後ろから来ていると思っていたあなたが消えたら、戻るでしょう!」
「私は消えていない。落とし物を拾いに戻っただけだ」
隆司がストールを差し出した。
美和はそれを見て、言葉を止めた。
「これ……」
「通路に落ちていた」
「こんなもの、置いてくればよかったのに」
「地上へ出たら寒いだろう」
美和が黙る。
隆司は妻の顔から足元までを確認した。
「足は?」
「大丈夫よ。それより、膝は?」
二人はほとんど同時に相手へ尋ねた。
わずかな沈黙が落ちる。
美和が隆司の右足を見る。
「やっぱり痛いんでしょ」
「少しだけだ」
「少しなら、最初から言いなさい」
「言えば、すぐに休もうとするだろう」
「痛いなら休むのが普通です」
「まだ歩けた」
「迷子になって救助員を呼んだ人が言わないでください」
「迷子になったのはそっちだろ」
「私は非常通信機の場所まで自力で行きました」
「それは道が分からなかったからだろう」
「夫がいなくなったって連絡したんです!」
二人の言い合いが始まる。
白石が黒瀬の隣へ立った。
「止めた方がいいでしょうか」
「もう少し待ってみようか」
美和は文句を言いながら、隆司の右側へ回った。
隆司の腕を取り、自分の肩へかける。
「ほら、体重をかけて」
「必要ない」
「必要ない人は、そんな歩き方をしません」
隆司は反論しようとしたが、結局、美和の肩を借りた。
そして持っていたストールを、美和の首へ巻く。
「いりません」
「地上へ出たら冷える」
「まだダンジョンの中です」
「今から巻いておけば忘れない」
「誰のせいで忘れたと思ってるんですか」
「落としたのはそちらだ」
二人は言い合いながら、互いから離れなかった。
◇
出口へ向かう通路では、美和が隆司の腕を支えていた。
貸出端末は、変わらず隆司が持っている。
「次からは、端末を私が持つわ」
美和が言った。
「やめた方がいい」
「どうして?」
「どこへ入れたか分からなくなる」
「今回、端末を持っていたのに迷子になったのは誰?」
「迷子ではない」
「まだ言うの?」
「現在地を一時的に確認できなくなっただけだ」
「それを迷子って言うんです」
美和は隆司から地図を取り上げた。
「地図も私が持つ」
「次の分岐は左だ」
「分かってます」
「地図を少し傾けた方が見やすい」
「地図を反対にしていた人は黙ってて」
「反対ではない。進行方向に合わせていた」
「出口と逆方向へ進む向きに?」
美和は呆れたように言った。
それでも歩く速さは、隆司の膝に合わせてゆっくりだった。
通路の右側は、照明と照明の間隔が少し広い。
隆司は美和と場所を入れ替え、自分が暗い側を歩いた。
美和は何も言わなかった。
ただ、隆司の腕を支える手に少し力を入れた。
白石が二人の後ろを歩きながら、小声で尋ねる。
「仲が悪いんでしょうか」
黒瀬は前を歩く夫婦を見る。
「どうだろうね」
「ずっと喧嘩しています」
「うん」
美和が隆司へ言う。
「次からは、いなくなる前に声をかけてよ」
「それは私の台詞だ」
「私はいなくなっていません!」
「私もだ!」
二人とも、互いの腕を離そうとはしなかった。
黒瀬が少し笑う。
「でも、相手のことはよく見てるみたいだよ」
◇
水野夫妻は、一般開放終了前に無事地上へ戻った。
管理員は二人へ、
「離れるときは、必ず相手へ声をかけてください」
と注意した。
「はぐれた場合は、その場から動かないでください。お互いに捜し回ると、今回のようにすれ違います」
「すみませんでした」
美和が頭を下げる。
隆司も少し遅れて頭を下げた。
「次から気をつけます」
出口へ向かいながら、美和が夫へ小声で言う。
「このこと、娘には黙ってなきゃ」
「賛成だ」
二人の意見が、初めて一致した。
だが、隆司はすぐに続ける。
「ただし、迷子になったのは私ではないからな」
美和が足を止めた。
「まだ言うの?」
「事実を確認しているだけだ」
「救助員に迎えに来てもらった人が、よくそんなこと言えるわね」
「そちらも迎えに来てもらっただろう」
言い合う二人の声が、出口の向こうへ遠ざかっていく。
白石が黒瀬へ尋ねた。
「結局、どちらが迷子だったんでしょう」
黒瀬は答える。
「二人ともじゃないかな」
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