第15話 あと三十秒
午後三時二十七分。
奥多摩第一ダンジョン、第八階層。
『要救助者は一名。右脚を岩に挟まれ、自力で動けません』
黒瀬慎吾は、端末に表示された地図を確認しながら走っていた。
隣を走る白石ひなたは、救助鞄を背負っている。
「意識は?」
『あります。ただ、付近に《大角牛》がいる可能性があります』
「別の救助班は?」
『現在、第五階層です。黒瀬さんたちが最も近くにいます』
「分かった。先に向かうよ」
通信が切れる。
黒瀬は走りながら《索敵》を使った。
前方に、動かない人間の反応が一つ。
その少し先を、大きな反応がゆっくりと移動している。
「大角牛も近くにいるね」
「要救助者のそばですか?」
「今は離れてる。でも、戻ってくると思う」
二人は速度を上げた。
◇
「誰か……!」
声が聞こえた。
黒瀬と白石が通路を抜けると、円形に広がった岩場へ出た。
壁際に、二十代後半の男性が倒れている。
腰ほどの大きさの岩が、高瀬の右足首へぶつかり、探索用スニーカーのつま先を地面へ押さえつけていた。
「救助管理所の黒瀬です」
黒瀬が男性のそばへしゃがむ。
「名前は?」
「高瀬……直人です」
「足の感覚はある?」
「あります。でも、動かそうとすると痛くて」
黒瀬は岩の下を確認した。
右脚そのものが、岩に押し潰されているわけではない。
厚い靴底を持つ探索用スニーカーのつま先が、岩と地面の間に食い込んでいる。
高瀬の右足は靴の中で動かせる状態だった。
「挟まってるのは、足じゃなくて靴だね」
「靴?」
「岩を少し上げれば、足だけ抜けると思う」
白石が岩の前へしゃがんだ。
「私が持ち上げます」
「周りの岩も崩れかけてる。一気に動かすと、高瀬さんの方へ落ちるかもしれない」
黒瀬が白石を見る。
「ゆっくりお願い」
「分かりました」
黒瀬は高瀬の肩へ手を置いた。
「岩が上がったら、右のかかとを浮かせて、靴から足を抜いてください」
「はい」
白石が岩の下へ両手を差し込む。
そのとき、遠くから硬い蹄の音が聞こえた。
ドン。
ドン。
高瀬の顔色が変わる。
「あいつです」
「大角牛?」
「はい。あいつの突進を避けたら、壁が崩れて……」
高瀬は倒れた岩を見る。
「こうなりました」
黒瀬が通路の奥へ顔を向ける。
「今日は一人?」
「……はい」
「いつも一人で八階層まで来てるの?」
「普段は三人です」
「仲間は?」
高瀬は目をそらした。
「今日は、俺が黙って来ました」
白石が高瀬を見る。
「どうしてですか?」
「三億円の星脈鉱の話を聞いて……」
高瀬は小さく笑った。
「早く深い階層へ行かないと、ほかの探索者に全部取られる気がしたんです」
「仲間は止めたんですね」
「まだ準備が足りないって」
蹄の音が大きくなった。
黒瀬が立ち上がる。
「続きはあとで聞くよ」
腰から救助用ナイフを抜いた。
「白石さん、始めて」
「はい」
白石が《身体強化》を発動させる。
両腕に力を込め、岩をゆっくりと持ち上げ始めた。
岩の周囲から、小さな石がぱらぱらと落ちる。
白石は動きを止め、それらが高瀬の方へ崩れないことを確認してから、再び力を加えた。
数センチだけ、岩が浮く。
「まだ足は抜けません」
高瀬が言った。
「あとどのくらい?」
黒瀬が尋ねる。
白石は岩と高瀬の靴の間を確認した。
「足を抜ける高さまで、あと三十秒です」
通路の奥から、《大角牛》が姿を現した。
成人男性を超える巨体。
頭から前方へ、二本の太い角が伸びている。
大角牛は黒瀬たちを見つけると、前脚で地面をかいた。
「黒瀬さん!」
白石が岩を支えたまま呼ぶ。
「三十秒だね」
「はい」
「分かった」
黒瀬は白石たちから離れるように前へ出た。
「こっちだよ」
大角牛が頭を下げる。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
黒瀬はその場から動かない。
二本の角が身体へ届く寸前、横へ一歩だけずれた。
大角牛の頭が、黒瀬のすぐ横を通り過ぎる。
黒瀬は右の角へ手をかけ、その向きを外側へ押した。
進路を変えられた大角牛が、白石たちから離れた岩壁へ激突する。
大きな音が響いた。
高瀬が身体を縮める。
白石は岩を持ち上げたまま動かなかった。
「大丈夫です」
白石が高瀬へ言う。
「そのまま、かかとを浮かせる準備をしてください」
「でも、大角牛が……」
「黒瀬さんが止めています」
大角牛が身体を反転させる。
黒瀬がその横腹を救助用ナイフで浅く切った。
深い傷ではない。
ただ、大角牛の注意は完全に黒瀬へ向いた。
大角牛が怒りの声を上げる。
「あと二十秒です!」
白石が叫ぶ。
「うん」
黒瀬は大角牛と白石たちの間に立つ。
大角牛が二度目の突進を始めた。
今度は、その先に高瀬と白石がいる。
黒瀬は大きく避けなかった。
角が迫る。
身体を低くし、右の角を両手でつかむ。
足元の岩が削れた。
黒瀬は巨体の勢いを正面から止めず、身体ごと横へ流した。
大角牛の進む方向が変わる。
白石たちの手前を通り過ぎ、反対側の壁へ衝突した。
「あと十秒です!」
白石の腕が小さく震え始めている。
高瀬がそれに気づく。
「もういいです」
「何がですか?」
「岩を下ろしてください」
「まだ足が抜けてません」
「俺が勝手に一人で来たんです。二人まで危ない目に遭う必要は――」
「それはあとで反省してください」
白石は岩を支えたまま答えた。
「今は、帰る準備をしてください」
高瀬は何も言えなくなった。
右足のかかとを浮かせ、靴から抜く準備をする。
「三、二、一――今です!」
白石の合図で、高瀬が両手と左脚を使って身体を後ろへ押した。
右足が探索用スニーカーから抜ける。
靴だけを岩の下に残し、高瀬の脚が外へ出た。
「抜けました!」
「そのまま離れてください!」
高瀬が地面を這い、岩から距離を取る。
白石は高瀬が完全に離れたことを確認した。
「下ろします!」
岩が地面へ落ちる。
白石はすぐに高瀬の右脚を確認した。
「動かせますか?」
「無理です。痛いです」
「背負います」
白石が高瀬へ背を向ける。
高瀬は、大角牛と向き合う黒瀬を見る。
「黒瀬さんは?」
黒瀬が大角牛から目を離さずに答える。
「白石さん、高瀬さんを連れて先に戻って」
「はい」
「第七階層まで止まらないでね」
「分かりました」
白石が高瀬を背負い、立ち上がる。
「黒瀬さんを置いていくんですか?」
高瀬が白石の肩をつかむ。
「黒瀬さんなら大丈夫です!」
白石は通路へ向かって歩き始めた。
◇
大角牛が、再び黒瀬へ向かって頭を下げる。
黒瀬は《索敵》で白石と高瀬の反応を確認した。
二人は岩場を離れ、通路を進んでいる。
もう、大角牛がどちらへ倒れても巻き込まれない。
「もういいかな」
大角牛が突進する。
黒瀬は角が届く直前に横へかわした。
救助用ナイフが、前脚の後ろを深く切る。
大角牛の脚が崩れた。
巨体が前方へ傾く。
黒瀬は倒れる方向を確認し、その懐へ入った。
首の下へ救助用ナイフを突き立てる。
大角牛の動きが止まる。
そのまま、白石たちがいた場所とは反対側へ倒れた。
黒瀬はナイフを抜き、刃についた血を拭う。
そして、すぐに二人を追った。
◇
「白石さん」
後ろから呼ばれ、白石が振り返る。
黒瀬が走って追いついてきた。
「黒瀬さん」
高瀬が白石の背中から顔を上げる。
「大角牛は?」
「倒したよ」
「もうですか?」
「うん」
黒瀬は高瀬の右脚を見る。
「痛みは強くなってない?」
「さっきより痛いです。でも、感覚はあります」
「じゃあ、急いで戻ろうか」
高瀬は黒瀬の腰にある救助用ナイフを見る。
「最初から倒せたんですか?」
「倒せたと思うよ」
「だったら、どうしてすぐに……」
「あそこで倒したら、大角牛の身体が高瀬さんたちの方へ倒れるかもしれなかったからね」
高瀬は言葉を失った。
白石が黒瀬を見る。
「だから、私たちが離れるまで倒さなかったんですね」
「うん。その方が安全だったからね」
黒瀬は前へ向き直った。
◇
地上へ戻ると、救護所の前に男女二人が立っていた。
白石に背負われた高瀬を見ると、二人が駆け寄ってくる。
「直人!」
女性が高瀬の名前を呼ぶ。
もう一人の男性は、安心した顔をしたあと、高瀬を睨んだ。
「何で一人で行ったんだよ」
「ごめん」
「朝、装備がなくなってるのを見て、まさかと思ったんだぞ」
「本当にごめん」
「俺たち、行かないって言ったんじゃない。まだ準備が足りないって言ったんだ」
高瀬は白石の背中でうつむいた。
「先に行かないと、誰かに取られると思った」
「何を?」
「三億円の石を」
男性はしばらく高瀬を見つめた。
「石を取られるのと、仲間がいなくなるのと、どっちが困ると思ってるんだ」
高瀬は答えられなかった。
女性が目元を拭う。
「帰ってきてくれれば、それでいいよ」
「……ごめん」
高瀬はもう一度謝った。
白石が高瀬を救護所のベッドへ下ろす。
右脚は骨折していたが、血管や神経に大きな損傷はなかった。
処置を受ける前、高瀬が黒瀬と白石へ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「無理に起きなくていいよ」
「俺一人のために、大角牛と戦ってもらって……」
黒瀬は首をかしげた。
「高瀬さんが帰るために、必要だったからね」
高瀬は、救護所の前で待つ仲間を見る。
「今度は、ちゃんと三人で行きます」
「うん」
黒瀬は少し笑った。
「今日の反省はちゃんと生かせると良いね」
高瀬はうなずき、救護所へ運ばれていった。
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