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王家の庇護札

 入札の朝、エルゼナは夜明け前から店の窯に火を入れた。


 火晶が赤く灯ると、いつものように小麦粉を量り、蜂蜜を溶かして生地を練る。けれど今日は、手元に集中しようとするほど、昨日のヴァルデリクの言葉が頭に浮かんだ。王弟殿下が月麦亭の建物を買い取る。その申し出を受けるなら、彼女は自分の条件が契約書に記されるかを確かめなければならない。落札できるかどうかも分からないのに、先のことを考えすぎるのはよくないと分かっていても、窯の熱を見つめる目が、何度も揺れた。


 焼き上がった蜂蜜胡桃の菓子を冷まし、紙に包む。今朝は店を開けずに入札会場へ向かうつもりだったが、いつも買いに来る人々に何も知らせないまま休むのは気が引けた。そこで、入口に『本日は正午まで休業いたします』と書いた札を掛け、その下に焼き菓子をいくつか並べておいた。お金を置く小箱には、客が自分で代金を入れられるよう、品名と値段を記した紙を添える。


「こんな日にまで、店の心配をするのか」


 背後から声がして振り返ると、ヴァルデリクが店の外に立っていた。今日は王弟としての礼装ではなく、昨日と同じ灰色の外套を着ている。彼は王家の馬車も従者も連れていなかったが、入札会場へ向かうための歩きやすい靴と、内ポケットから覗く書類の端で、いつもの朝の買い物に来たのではないと分かった。


「店のことを考えない日なんてありません。正午まで休むと書きましたけれど、焼いたものを売らずに残すのももったいないでしょう」


「君らしいな」


「どんなところがです?」


「店を続けるかどうかが決まる日に、店の菓子が売れ残らない工夫をしているところだ」


 エルゼナは答えず、紙包みを一つ彼に差し出した。今日の分として用意したものではないが、店のことを考えずにはいられないなら、せめていつもどおりの朝を一つ作っておきたかった。ヴァルデリクは受け取ると、いつものように代金を台へ置く。彼女もいつものように、きちんとお釣りを返した。


 商業組合の大広間には、土地の売却を見届けようとする商人や周辺店舗の店主が集まっていた。天井から吊るされた入札晶が、参加者の名と提示額を一時的に映し出す。公開入札ではあるが、札を上げて声を張り上げる必要はない。商人たちは手元の刻印板に希望額を魔力で刻み、組合の書記が内容を確認すると、入札晶へ記録を転写するのだ。


 会場の壁には、売却される建物と土地の区画図が広げられていた。月麦亭だけではない。青果店や鍛冶屋、古道具屋が軒を連ねる一帯が、まとめて売却の対象になっている。青鈴商会の計画が通れば、古い店舗はいったん取り壊され、魔道具を扱う大通りへと作り替えられる予定だった。便利で華やかな商店街になると聞けば、賛成する者もいるだろう。実際、街の外から訪れる客を呼び込めれば、新たな働き口が生まれるかもしれない。


 ただし、そこには今ある店の継続を約束する条件が含まれていなかった。


「エルゼナさん。お越しくださったんですね」


 昨日の組合員が、受付の横から彼女に声をかけた。彼は会場の説明をしながら、青鈴商会が高額の入札を行う見込みであることを教えてくれた。彼らは周辺の土地をまとめて買い、建物を一新する計画を出している。一つの店舗だけを残すことは考えていないという。


「青鈴商会が一番高い金額を提示したら、建物はそのまま商会へ渡るのですか?」


「原則はそうです。ただし、同額の入札があった場合は、周辺店舗との契約や営業への影響も審査されます。商業組合の規約では、現在の商いを維持する計画が評価の対象になるんです」


 昨日、彼もそう説明していた。規則はあるが、青鈴商会が高値をつければ、ヴァルデリクがそれを超える金額を示さない限り、月麦亭を守るのは難しい。彼女はそう考え、隣に立つヴァルデリクへ目を向けた。


「入札額を競うために、無理な金額を提示する必要はありません。殿下が損をしてまで買うことはないです」


「私がいくら出すかは、私が決める。君が気にするべきは、君がこの店をどう続けたいかだ」


「そうやって殿下が何でも引き受けてしまうから、私は心配になるんです」


「心配をかけているなら、申し訳ない」


 彼はあっさり謝った。それから、彼女の視線を受け止めたまま、入札晶の方へ向き直る。彼は王弟であっても、青鈴商会の入札を止める権限を使うつもりはない。入札の規則に従い、建物を買う権利を正当に得ようとしている。そのことは分かっていたが、彼がどこまでの金額を出すのかを思うと、エルゼナの胸は落ち着かなかった。


 入札が始まると、書記が一つずつ土地の区画を読み上げた。青果店の区画には、二つの商会から金額が提示される。鍛冶屋の区画には、現店主の親族が名乗りを上げた。予定額に達しない土地は持ち越され、条件の確認が必要なものには、組合の審査が加わる。入札晶に映る数字が変わるたび、会場の人々が小さく息を呑んだ。


 やがて、月麦亭のある区画が読み上げられる。建物の評価額と、現在の賃貸契約が確認された。青鈴商会の代表が刻印板に手を置き、入札晶に大きな数字を浮かび上がらせた。それは、昨日組合員が伝えていた見込みよりも、さらに高い金額だった。


 会場のざわめきが強くなる。青鈴商会の代表は、落ち着いた表情で席へ戻った。エルゼナは、書類を抱えたまま動かなかった。彼らに悪意があるようには見えない。計画を実行するため、できるだけ多くの土地を買おうとしているだけだ。けれど、その計画の中に月麦亭の営業を残す余地がないことも事実だった。


 ヴァルデリクは、すぐには刻印板へ手を伸ばさなかった。彼は提示された金額を確認し、それからエルゼナを見た。そこには、彼女の代わりに決めようとする色はない。彼女に決定を委ねるつもりなのだと、エルゼナは感じた。


「殿下は、どうなさるおつもりですか」


「君が店を続けたいなら、私は入札する」


「勝てる金額を出すために、何もかも差し出す必要はありません」


「何もかもではない。建物を買えるだけの金額を、正規の手続きで出すだけだ」


 ヴァルデリクは、彼女から目をそらさなかった。エルゼナは、昨日の自分が伝えた条件を思い出す。彼に頼りきるためではなく、自分の仕事と居場所を守るために、必要なことを口にした。そのうえで、彼が入札するかどうかは彼自身が決めることだ。


「月麦亭を続けたいです。私の菓子を待っていてくださる人がいる限り、ここで作り続けたい」


 彼女がそう答えると、ヴァルデリクは深くうなずき、刻印板に金額を刻んだ。入札晶には、青鈴商会と同じ額が表示される。会場が静まり返った。


「同額の場合、営業への影響も審査するんでしたね」


 エルゼナは、書記へ向き直った。組合員がうなずき、入札の追加条件について説明を始める。買い手は、既存の賃貸契約を引き継ぐこと、周辺店舗の営業を不当に妨げないこと、そして地域の商業組合が定める保護規約に同意することができる。高額の入札に加えて、これらを約束する場合は、現店舗の継続を重視する審査へ進めるのだという。


「では、私からも説明させてください」


 エルゼナは、昨夜のうちに帳簿から抜き出しておいた月麦亭の売上記録を広げた。季節ごとの売れ筋、定期的に菓子を買いに来る客の数、近隣店舗からの注文、店を開いてから組合へ納めた営業税。派手な数字ではないが、月麦亭がこの市場の一部として商いを続けてきた証拠だった。


「うちの店は小さいですが、朝の焼き菓子を買いに来る方、学校帰りに一つだけ買っていく子どもたち、近くの仕事場へ差し入れを届ける店主の方がいます。ここを便利な大通りへ変える計画が悪いとは思いません。それでも、この場所でしか続けられない商いがあることを、審査に含めていただきたいんです」


 発言を終えたとき、エルゼナの指先は少し震えていた。自分の店のために、これほど大勢の前で話したことはない。商業組合の規約には、店舗継続の計画を審査する制度がある。けれど、制度があるからといって、自分の声がどれほど届くかは分からなかった。


 そのとき、会場の後方から八百屋の店主が手を上げた。


「うちも、月麦亭へ毎週注文を出している。店を続けてもらえるなら、これからも注文するよ」


 続いて、近くの鍛冶屋の親方が、古道具屋の女性が、エルゼナの菓子を買いに来る人々が、それぞれ口を開いた。彼らは青鈴商会を非難したのではない。月麦亭を含めた今の市場に、どんな役割があるのかを語ってくれた。エルゼナは、自分が店を続けるためにしてきたことが、いつの間にか自分一人のためだけではなくなっていたと知った。


 審査の結果、ヴァルデリクの入札が選ばれた。提示額は青鈴商会と同額だったが、既存の契約を維持し、周辺店舗の営業を守る計画が規約に沿って認められたのだ。彼は王家の名で規則をねじ曲げたのではない。エルゼナもまた、ただ守られるのを待たず、自分の店がここに必要な理由を伝えた。その二つが、同じ結果へつながった。


 青鈴商会の代表は、悔しそうな顔をすることもなく、落札結果を受け入れた。彼はヴァルデリクに「市場の継続を重視するなら、我々とは違う形の投資をお考えなのでしょう」と伝え、礼をして退いた。彼の計画が消えたわけではない。どの区画がどのように変わるのか、これからも組合と街の人々のあいだで話し合いが続くのだろう。


 建物の売買契約は、相続人と商業組合の確認を経て正式に成立する。ヴァルデリクは、その手続きを済ませるまで、王家の庇護札を月麦亭へ掲げないと約束した。庇護札が掲げられれば、店は王家の保護下にあると街中へ知らされる。目立つ紋章は、彼女の店に余計な注目を集めるかもしれない。エルゼナがその影響を理解し、自ら承諾するまでは、札を飾ることはできないのだ。


 会場を出ると、彼は一度だけ、ほっと息を吐いた。エルゼナはそれを見て、初めて彼が緊張していたのだと気づく。


「殿下も緊張なさるんですね」


「君があれだけ真剣に話したあとで、私だけ平然としているわけにもいかないだろう」


「それは、私の話を聞いていたからですか?」


「君の店の話を聞きに来たのだからな」


 道すがら、彼は入札の書類を従者へ預けた。エルゼナは、店の建物を守れた喜びと、これから結ぶ契約への緊張を抱えながら、月麦亭へ戻る。王弟殿下が新しい所有者になることは、街の人々にすぐ伝わるだろう。彼が店を守るために買ったとしても、周囲がどう受け取るかまでは、彼の意思だけでは決められない。


 店へ着くと、彼は入口の前で足を止めた。王家の紋章を刻んだ庇護札は、まだ馬車の中にある。真鍮の営業許可札は、いつもどおり扉の脇に掛かっていた。エルゼナの魔力紋は、淡く光りながらそこにある。


「契約書ができたら、私が内容を確認します。分からない言葉があれば説明を求めますし、納得できなければ署名しません」


「その通りにしてくれ」


「庇護札を掲げるかどうかも、私が決めます」


「もちろんだ」


 それから彼は、少し言いにくそうに視線を落とした。いつもの無愛想な表情は変わらないのに、彼が次に口にする言葉を探していることが伝わってくる。


「君は、私がなぜ毎朝ここへ来ていたのか、まだ分からないだろう」


「お菓子を買いに来ていたからではありませんか?」


「それもある。最初に月麦亭へ来た日、君が失敗したと言って、焼きすぎた洋梨菓子を半額にしたことを覚えているか」


 エルゼナは、すぐには答えられなかった。開店して間もない頃、窯の火が強すぎて、洋梨の焼き菓子の表面を焦がしてしまったことがある。売り物にするには出来が悪いと思い、値段を下げて店先に並べた。あの日に来た客の顔までは、思い出せない。


「私はあの日から、君の菓子を買いに来ていた」


「では、焦げた菓子がお好きだったんですか?」


「そうではない。君が失敗を隠さず、これは焦げたから安くする、と正直に言った。それが気になった」


「そんなことまで覚えていたんですね」


「毎朝、君に会いに来る理由を、自分で認めるまで時間がかかったからな」


 エルゼナは、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。彼は毎日、ただ菓子を買いに来ていたわけではない。けれど、彼がどこまでの思いを抱いているのかは、まだ分からない。王弟殿下の好意を、店を守ってくれた恩と一緒に受け取っていいのかも、彼女には判断できなかった。


「殿下は、私に何を望んでいらっしゃるのですか」


 ヴァルデリクは、すぐに答えなかった。彼の沈黙は、入札の場で見せた迷いとは違う。言葉を選び、彼女が受け止められる形を探しているようだった。


「契約を結ぶ前に、そこまで話すべきではないと思っていた。だが、君が知りたいなら、もう隠すつもりはない」


 彼はそう告げると、店の営業許可札へ目を向けた。彼女の魔力紋を勝手に変えないと約束したように、今度も彼女の答えを待つつもりなのだろう。


「契約書ができたら、店のことと一緒に話そう。君が自分の言葉で答えを出せるように」


 エルゼナは、うなずいた。明日からも、火晶窯に火を入れ、菓子を焼き、客を迎えられる。その喜びは大きい。けれど、ヴァルデリクが自分に何を望んでいるのかを知るまでは、彼の申し出をただの救済として受け入れることも、断ることもできなかった。

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