買い取ったのは、店の未来
契約書が届いたのは、入札から三日後の朝だった。
ヴァルデリクは、従者を一人だけ連れて月麦亭へやって来た。王家の紋章を掲げた馬車も、庇護札を持つ役人もいない。店主と所有者が話し合うための書類を持ってきただけだと、彼は最初にそう告げた。
書類は三部あり、どれにも同じ内容が記されている。建物の売買契約に加え、月麦亭の賃貸契約を引き継ぐこと。賃料は現在の額から変更せず、店の営業を続けるかどうかは店主が決めること。設備の所有権と営業許可はエルゼナに帰属し、建物の修繕は所有者の責任で行うこと。そして、彼女が望めば、定められた算定方法に従って建物を買い戻す機会を得られること。
エルゼナは、はじめから一行ずつ読んだ。分からない法令用語は従者に説明を求め、数字に誤りがないか計算し直す。ヴァルデリクはその間、横から急かすことも、ここだけは信じてほしいと言うこともなかった。彼は彼女が契約を読む時間を、黙って待っていた。
「この条項は、私がいつでも契約を終えられるという意味ですか」
エルゼナは、賃貸契約の末尾に記された一文を指した。建物の所有者が王弟殿下であっても、店主が退去を望むなら、定められた通知期間を経て契約を解消できる。彼女の営業許可札も、設備も、持ち出すことができるとある。
「そうだ。君がここを離れたいと思ったとき、私が止めることはできない」
「殿下が店を買い取ったあとで、私が出ていくかもしれませんよ」
「その可能性があると分かったうえで、建物を買った」
彼は静かに答えた。エルゼナは、もう一度その条文に目を落とした。彼が買ったものは、彼女をそこに留める権利ではない。店を続けたいと願う間、彼女が安心して働ける場所だった。彼女が別の道を選ぶ自由を残したまま、支えようとしている。
「王家の庇護札を掲げる場合、店の営業許可札と並べて置くことになります。王家の保護下にある店だと、誰の目にも分かります」
「それは君が承諾した場合だけだ。庇護札がなくても、契約は成立する」
「それなら、今は掲げません」
エルゼナはすぐに答えた。王家の紋章は目立つ。店の前に飾れば、客のなかには入りにくく感じる人もいるだろう。王弟殿下の店だと誤解され、彼女が作る菓子ではなく、王家の名を目当てに人が集まるかもしれない。まずは、今までどおりの月麦亭として営業を続けたい。
「分かった。庇護札を掲げるかどうかは、今後も君が決めていい」
「では、この契約内容で進めます。修繕が必要なときは、私が勝手に業者を呼ぶのではなく、殿下と相談する。けれど、窯を使う時間や、どんな菓子を作るかは私が決めます」
「当然だ」
「それから、買い戻しの金額を決めるときは、建物の評価だけでお願いします。王家の都合で値を上げたり、下げたりしないこと」
「約束する。評価は組合が認めた鑑定人に頼もう」
彼女は、書類の最後にある自分の名前を確かめた。エルゼナ・ド・ヴェルシェ。かつては家名を背負うことが重く感じられたが、今はその名を、店主として署名することができる。彼女は羽ペンを取り、商業組合へ登録した魔力紋を込めて、契約書に自分の名を書いた。
続いて、ヴァルデリクが署名する。彼の魔力が書類の上で淡い金色の光となり、二人の名の間に契約の印が浮かんだ。魔法契約は、互いが内容を理解し、同意した事実を記録する。どちらかが一方的に条項を変えようとすれば、印が消える仕組みだと、従者が説明した。
「これで、月麦亭の建物は私の所有になる。だが、店を営むのは君だ」
「私の営業許可札がある限り、そうです」
「その通りだ」
ヴァルデリクは、契約書の控えを彼女へ渡した。エルゼナは受け取り、紙の端を丁寧にそろえる。これで、店は明日も開けられる。火晶窯へ火を入れ、霜晶の箱から果物を取り出し、客の好みに合わせて菓子を作る。いつもの暮らしが戻ってくるのだと思うと、ようやく胸の奥にあった緊張がほどけていった。
「殿下、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことではない。君が望んだ条件で契約を結べたなら、それでいい」
「それでも、店を失わずに済みました。殿下が入札してくださらなければ、私はここを続けられなかったかもしれません」
「君が自分の店を守るために、あの場で話してくれた。私一人の力で決まったことではない」
エルゼナは、入札会場のことを思い返した。八百屋も、鍛冶屋も、古道具屋も、彼女が月麦亭で菓子を作り続ける理由を話してくれた。店を救うために手を尽くしたのは、彼女だけでも、ヴァルデリクだけでもない。月麦亭は、知らないうちに多くの人々の暮らしの一部になっていた。
「私は、月麦亭を大切にしてくださる皆さんのためにも、ここで続けていきます」
「君らしい答えだ」
「殿下は、そうやって何でも分かったようにおっしゃいますね」
「君がそういう人だと、毎朝見てきたからな」
その言葉の意味を尋ねようとしたとき、扉の風鈴晶が鳴った。常連客の親子がやってきたのだ。母親は、店内にヴァルデリクの姿を見つけて少し驚いたものの、彼が王弟殿下であることを知らない。彼女にとっては、月麦亭へときどき菓子を買いに来る客の一人だった。
「エルゼナさん、今日は開いていてよかった。娘が、どうしても星形のクッキーを買いたいって聞かなくて」
「昨日は入札のために休んでしまって、申し訳ありませんでした。今日は焼きたてがありますよ」
「やった!」
娘は棚の前へ駆け寄り、星形のクッキーを見つけて目を輝かせた。エルゼナが包みを作るあいだ、母親はヴァルデリクにも「いつものお菓子ですか」と声をかける。彼は王弟としてではなく、一人の客として「今日は蜂蜜胡桃を二つ」と答えた。エルゼナは、そのやり取りを見て、少しだけ笑った。
王家の庇護札は、まだ馬車に積まれたままだ。月麦亭の扉には、彼女の魔力紋が刻まれた営業許可札だけが掛かっている。王弟が建物を買ったことは、やがて街中に広まるだろう。それでも、彼がここを自分の店のように振る舞うことはない。毎朝、客として入ってくる。その約束が、書類のどの条項よりも、今は確かなものに思えた。
客を見送ったあと、ヴァルデリクは店の隅にある小さな丸机へ戻った。エルゼナは新しく淹れた香草茶を二人分用意し、彼の向かいに腰を下ろす。商業組合の書類も、売買契約の控えも、もう鞄の中にしまわれていた。ここからは、店の話だけではない。
「殿下は、私に何を望んでいらっしゃるんですか」
入札の日に尋ねた問いを、今度は契約が成立したあとで口にした。ヴァルデリクは、視線をそらさずに答える。
「君に、私の妻になってほしい」
あまりに真っ直ぐな言葉だったので、エルゼナは茶器を持つ手を止めた。彼は、彼女が驚くことも、すぐに答えを出せないことも分かっていたのだろう。返事を促すことなく、少しだけ間を置いてから言葉を続けた。
「君の作る菓子が好きだ。だが、それを食べ続けるためだけに建物を買ったわけではない。君が店を開き、客の好みを覚え、失敗した菓子を正直に売り、誰かの一日を少しよくしようとしている姿を、私はずっと見ていた。君の作る菓子が好きだと言ったのは本当だが、その菓子を作る君自身を大切にしたいと思っている」
「それなら、どうして今まで何もおっしゃらなかったのですか」
「君が店主として立っている場所で、王弟の求婚を断れないと思わせたくなかった。私が身分を明かせば、君は客としての私に言いたいことを言えなくなるかもしれない。建物を買う話も、君の答えを急がせるために使うつもりはない」
「でも、殿下は店を買い取りました」
「建物を買った。君を買ったのではない」
ヴァルデリクは、ためらわずに言った。エルゼナは、その言葉が契約書の条項と同じくらい大切なものだと思った。彼が彼女を欲しいと言うなら、彼女は店を手放す必要があるのか。王弟の妻になるなら、菓子職人である自分をやめなければならないのか。彼は、どちらも望んでいない。
「君が私を選ばなくても、月麦亭の契約は変えない。店を続ける自由も、ここを離れる自由も、君のものだ」
「殿下は、ずるい方ですね」
「そう思う理由を聞いてもいいだろうか」
「断っても店を守ってくださると分かったら、私があなたを選ぶかどうかだけを考えられてしまうからです」
エルゼナは、自分の頬が熱くなるのを感じた。彼が店を買い取ったからといって、愛を返さなければならないとは思わない。彼が毎朝来ていたことを知ったからといって、同じだけ好きになるとも限らない。それでも、彼が身分を隠していた時間にも、王弟として目の前に立つ今にも、彼女は彼を信用したいと思っている。
「私は、殿下の妻になるために店を譲るつもりはありません」
「譲らなくていい。君は店主のままでいてほしい」
「王宮の菓子職人になるのも、お断りします」
「私のために菓子を作る必要はない。君が作りたいものを、店で作ってくれればいい」
「それなら、殿下のお申し出をお受けします。けれど、すぐに結婚とはまいりません。まずは、これからもお客さまとして通ってください。私が王弟殿下ではなく、ヴァルデリクさまと一緒にいたいと思えるまで」
彼の表情が、ほんのわずかにやわらいだ。大きく笑うことはなかったが、毎朝店で見ていた無表情の奥に、今まで見たことのない温度が宿っている。
「では、明日も客として来よう」
「明日は蜂蜜胡桃がありません。洋梨タルトならございます」
「君が作るものなら、何でもいい」
数か月後、月麦亭の前には小さな金色の庇護札が、営業許可札と並べて掛けられていた。王家の紋章は目立ちすぎないよう、店の看板の下に控えめに置かれている。掲げると決めたのはエルゼナ自身だった。市場の店主たちも商業組合も、彼女の仕事と店の名を守るための印だと知っている。
火晶窯の赤い光が店を温め、冷蔵箱の霜晶が季節の果物を新鮮に保つ。エルゼナは、王家へ献上する菓子ではなく、いつもの客が選ぶ焼き菓子を作っていた。ヴァルデリクは今日も朝の時間にやって来て、彼女が棚に並べた新作を一つずつ眺めている。
「今日は、林檎と星蜜のタルトです。火晶窯の温度を変えたので、先週とは焼き上がりが違います」
「では、それを一つ。君のおすすめも頼む」
「おすすめは、こちらの木の実の菓子です。殿下が好きそうだと思って、少しだけ蜂蜜を増やしました」
「君が私の好みを覚えてくれたのか」
「常連のお客さまですから」
エルゼナはそう言って、彼に包みを手渡した。彼は代金を支払い、店の席へ腰を下ろす。これからも彼は客として通い、彼女は店主として菓子を焼く。その先にある結婚も、王弟の隣に立つ未来も、二人で話し合いながら選んでいけばいい。
月麦亭の建物を買い取ったヴァルデリクは、エルゼナを自分のものにしたのではない。彼が手に入れたのは、彼女が自分の店を続けるための場所だった。そして彼が本当に望んだのは、その場所で彼女が笑いながら菓子を作る未来を、これからは隣で見守ることだった。




