店主の魔力紋
「殿下、ここでそのようなお話をなさるのはおやめください」
店の前に膝を折る人々と、王家の紋章を掲げた従者を見比べながら、エルゼナはどうにか声を絞り出した。王弟殿下が小さな菓子店へ現れたとなれば、通りの人々が驚くのも無理はない。けれど、ここは月麦亭だ。彼がどれほど高い身分にあろうと、店先に客を集めて営業を止めるなら、まず店主にひと言断るべきではないだろうか。
「皆、立ってくれ。私が来たことで店の仕事を止めさせるつもりはない」
ヴァルデリクが従者へ目配せすると、彼は王家の庇護札を馬車へ戻すよう命じた。人々はすぐに立ち上がりはしなかったが、王弟が自ら「店に入る」と言って戸口をくぐると、少しずつ通りへ散っていく。最後まで残っていた八百屋の店主は、エルゼナに「あとで話を聞かせてくれ」と耳打ちしてから、荷車を押して去っていった。
エルゼナは扉を閉め、風鈴晶の音が外へ響かないようにした。店内に戻ると、ヴァルデリクは客用の椅子に腰を下ろしている。礼装姿の彼は昨日までの灰色の外套姿とは別人のようにも見えたが、椅子の座り方には見覚えがあった。いつも、焼き菓子の包みを受け取る前に一度だけ棚を確かめる。きっと、彼の習慣なのだ。
「お茶をお出しします。殿下のお口に合うものかは分かりませんが」
「いつものものでいい」
「殿下がいつも召し上がっているものが何なのか、私は存じ上げません」
「君が淹れてくれる茶のことだ。ここでは、いつも同じ香草茶を出してくれる」
確かに、彼はいつも同じ茶を頼んでいた。だが、王弟殿下がここで飲んでいたことを思えば、これまで何気なく出していた一杯まで急に特別なもののように思えてしまう。エルゼナは香草を湯へ入れ、茶器を二つ用意した。彼女も同席するつもりだと示すため、客用の盆ではなく、作業台の脇にある小さな丸机へ運ぶ。
「先ほどのお話ですが、私は店を売るとは申し上げていません」
「分かっている。君の許しなく、店を買うことはできない」
「それなのに、買い取りたいとおっしゃったのですか?」
「建物と、現在の賃貸契約を引き継ぐつもりだ。店の営業権や、君が所有している設備、菓子の作り方まで買うつもりはない」
その言葉を聞いて、エルゼナは卓上の茶器へ視線を落とした。彼は、営業許可札の仕組みを知っていた。店主の魔力紋が組合の刻印盤に登録されている以上、店を買い取った者が勝手に職人の名を変えたり、営業権を奪ったりすることはできない。この街で商いをするなら、誰もが知っている基本的な決まりだ。
それでも、土地と建物を持つ者が店の存続を左右するのは事実だった。賃貸契約を打ち切られれば、エルゼナは別の場所を探し、火晶窯や霜晶の冷蔵箱を移し、組合の審査を受け直さなければならない。そこまでの資金はない。新しい店を探す時間も、客を再び集める余裕も、今の彼女にはなかった。
「契約を引き継ぐというのは、具体的にはどういう条件ですか」
「賃料は変えない。君が望まない限り、営業を続けるよう命令もしない。退去を求めることもない。私が建物を所有した後も、月麦亭の営業権は君のものだ」
「ずいぶん都合のいいお話ですね」
「君にとって都合がいい条件でなければ、受け入れてもらえないと思った」
ヴァルデリクの言葉は落ち着いていた。助けてやるのだから従えという響きはない。だからこそ、エルゼナは簡単に首を縦に振れなかった。権力を持つ者の親切は、ときに本人の望みを聞かずに道を決めてしまう。彼女はそれを、かつての暮らしの中で何度も見てきた。
「一つ目。店の名前を変えないこと。設備の扱いも、私と相談して決めてください。二つ目。私が店を続けるかどうかを決めます。殿下が建物を持っているからといって、私に働き続けるよう命令することはできません。三つ目は、いつか私がこの建物を買い戻したいと言ったとき、その機会を与えてください」
「分かった」
「今すぐ即答なさらないでください。契約書に書かれていない約束は、あとからいくらでも消えてしまいます」
「それもそうだな。書面に残そう」
彼はまったく腹を立てなかった。むしろ、エルゼナが条件を口にするのを待っていたように、従者へ書類の用意を命じる。連れてきた従者は、王家の紋章を背負いながらも、店の作業台に積まれた小麦粉の袋を避け、慎重に椅子の横へ鞄を置いた。エルゼナは、彼がこの場所を「ただの店」ではなく、彼女が仕事をする場所として見ているのかもしれないと思った。
「買い戻しの条件は、専門家にも確認させてほしい。建物の修繕費や税も含めて、君が損をしない形にする。無償で譲ると言えば、君は受け取らないだろう」
「当然です。私が払える金額でなくても、勝手に値段を決められるのは困ります」
「なら、値段も一緒に決めよう」
「殿下は、本当にそれでよろしいんですか」
「私は君に、月麦亭を続けてほしいと思っている。そのために必要なことを、君が決めるのは当然だ」
彼の返答には、エルゼナを安心させるための甘さはなかった。むしろ、彼女が守りたいものを理解しようとする真剣さがあった。その真剣さに触れたとき、胸の中で固く握りしめていた警戒が、ほんの少しだけ緩む。
「なぜ、そこまでしてくださるんですか」
訊かずにはいられなかった。彼が王弟殿下であるなら、月麦亭のような小さな菓子店を救わなくても、宮廷には腕のよい菓子職人がいくらでもいるはずだ。彼のひと言で店を買い取ることができるとしても、その選択が彼にとって何を意味するのか、エルゼナにはまだ分からない。
「君が作る菓子が好きだからだ」
ヴァルデリクは、すぐに答えた。エルゼナは思わず彼の顔を見つめる。
「それは、ここの菓子が好きという意味ですか?」
「もちろん、菓子も好きだ。だが、それだけではない」
彼はそこで言葉を切った。続きがあるように見えたのに、口にはしない。エルゼナも、その先を急かさなかった。甘い言葉を並べることではなく、彼が何をするかを見たいと思った。
そのとき、扉の風鈴晶が鳴った。入ってきたのは、商業組合の使いだった。昨日書状を届けた若い組合員が、今度は分厚い帳簿を抱えている。
「エルゼナさん、申し訳ありません。建物の相続人から追加の連絡がありました。売却先を決める入札が、明日の正午に行われるそうです」
「明日ですか?」
「ええ。すでに、青鈴商会が入札に参加すると届け出ています。あの商会は市場区画をまとめて買い取り、魔道具を扱う大通りへ作り替える計画があるそうです。現在の契約を引き継ぐかどうかも、買い手が決めることになるでしょう」
エルゼナは、昨日の書状に書かれていなかった買い手の名を聞き、指先を握った。青鈴商会の店は王都にも支店があり、貴族向けの魔道具を扱っている。小さな店をいくつもまとめて再開発するくらいの資金は持っているだろう。ヴァルデリクが建物を買い取ると決めても、明日の入札で勝てなければ意味がない。
「入札は最高額を出した者が落札するのですか」
「原則はそうですが、同額の場合は、周辺店舗との契約や営業への影響も審査されます。王家が参加されるとなれば、扱いは慎重に――」
「王家の名で値をつり上げるつもりはない」
ヴァルデリクは、使いの言葉を遮った。声を荒らげたわけではない。しかし、その一言に、王家の権威を盾にする考えがないことがはっきりと表れていた。
「入札の規則に従う。私が参加することを理由に、他の者へ辞退を迫ることもない」
「殿下、それでは青鈴商会が高値をつけた場合、こちらに勝ち目がないのではありませんか」
「分かっている」
彼は淡々と答えた。エルゼナは、彼が本当に店を救おうとしているのだと、初めて実感した。王弟という身分があれば、強引に決着をつける方法はいくつもあるのかもしれない。それでも彼は、自分の名で規則を曲げないつもりだった。ならば、彼が店を買える保証はない。
「入札の前に、店を見せてもらってもいいだろうか」
「建物を買うための確認ですか?」
「そうだ。窯の状態も、設備の所有者も確かめたい。君の仕事を変えるつもりはないが、建物に関わる修繕が必要なら、契約に記載しておきたい」
「分かりました。窯はこの通り問題ありません。霜晶の箱は私の所有物ですから、建物の売却には含まれません」
「承知した」
エルゼナは、店の奥へ彼を案内した。火晶窯の赤い光は安定し、焼き菓子の香りが壁に染みついている。霜晶の箱には、明日のタルトに使う青林檎が冷やされていた。棚の上には、代々の領地に伝わる菓子を載せた古い手帳が置かれている。家を失った後も持ち歩いてきたものだ。ヴァルデリクは棚を見たが、勝手に手を伸ばすことはなかった。
「その手帳は、家に伝わるものか」
「母が書き足したものです。昔のレシピに、領地で採れる果物や香草の使い方を記録してあります。今は手に入らない材料も多いので、作れるものは限られていますけれど」
「いつか、作れるものを食べてみたい」
「それなら、お客さまとして買ってください。手帳は売り物ではありません」
「分かった。君が売ると言うまでは、客として待つ」
その答えを聞いて、エルゼナはようやく笑った。彼は何かを買い取るためにここへ来たのに、彼女の手帳や菓子の作り方を当然のように自分のものにしようとはしなかった。店を買うという言葉の強さに身構えていた分、その慎重さが意外だった。
翌日の入札に勝てる保証はない。それでも、エルゼナはもう一度、営業許可札を見た。彼女の魔力紋は、真鍮の上で変わらず輝いている。誰かの庇護を受け入れるかどうかは、自分で決める。店を続けるために必要なものを確かめ、納得したうえでヴァルデリクと契約する。それなら、彼の申し出を受けても、自分を失わずにすむかもしれない。
「明日の入札には、私も立ち会います」
「もちろんだ。君の店のことだからな」
「それから、落札できたとしても、今日お話しした条件を契約書に入れてください。王家の庇護札を掲げるなら、私がその仕組みと範囲を理解してからにします」
「そうしよう」
ヴァルデリクは、彼女の言葉をひとつずつ受け止めた。店の外では、夕方の鐘を知らせる魔導鐘が低く鳴り、通りの人々が帰り支度を始めている。明日、月麦亭の建物が誰のものになるのかは、まだ決まっていない。だが、エルゼナはもう、誰かに運命を委ねてただ待つつもりはなかった。
明日の正午、彼女自身の足で入札の場へ行こう。店を続けたいと願う人間として、そしてこの店の営業許可札に自分の魔力紋を刻んだ店主として。




